第12章 柊の家 ― もうひとつの告白と“香りの記憶” ―
好き、は時に痛みを連れてきます。
それでも言葉にしたとき、痛みは形を持ち、分かち合えるものになります。
そして“香り”は、思い出の扉をそっと開けます。
柊の家。
温かな灯りと、ほっとするコーヒーの香り。
環はソファに座り、写真の束をテーブルに置いた。
「柊……こんなときに話すことじゃないんですけど、聞いてほしいことがあって。」
「うん、いいよ。気になってるんだろ?」
「はい……あの、私の身体、おかしいんです。」
「身体が?」
「はい。以前、婦人科に通っていたことがあって……。
生理不順でいろいろ検査をしたら、“子どもはできないと思う”って言われました。
その時は“そうなんだ”って、それだけだったんです。
でも最近、“柊が好きです”って言うたびに、そのことを思い出してしまって……胸のこの辺がチクッとして、身体が震えてしまうこともあって。
怖いのかな? でも、なんで怖いのかがわからなくて……。」
「環。」
柊の声は、静かでまっすぐだった。
「俺は、今、目の前にいる環が好きだ。
この先、一緒に暮らすことになっても、それは変わらない。
そんなことでもう悩むな。俺は、環の前からいなくならない。
環は、俺の隣にいることだけを考えればいい。
……でも、怖くなったら、今みたいに話せ。俺が全部聞くから。」
環は小さく息を吐き、微笑んだ。
「はい、わかりました。そういう優しい柊が好きです。」
「俺も環が好きだよ。」
「聞いてくれてありがとう、柊。」
「うん。」
――インターホンが鳴った。
凪が機材を抱えて到着した。
「お待たせしました! ログ回収ツールと映像強調キット、持ってきました!」
「助かる。」
凪は即座に作業モードへ。
ノートPCを開き、マンションの外周カメラの映像にアクセスする。
環は写真の束にそっと指を滑らせながら、呟いた。
「……香り。」
微かに残る、甘くて乾いたスパイスの香り。
「これ……どこかで嗅いだことがある匂いなんだけど……どこでだったかな……うーん……」
胸の奥で、言葉より先に記憶が立ち上がる。
“香りは記憶を支配する。香りで距離を測るのよ。”
――クロノス時代。
憧れの高瀬玲子主任が、いつか言っていた言葉。
すらりとした背筋、黒髪をまとめ、颯爽と歩く“できる女”。
「玲子主任……」
思い返す。
帰宅途中のエントランス。
エレベーター。
そして――クロノスのカフェテリア。
同じ香り。
「玲子主任……! エゴイスト!」
「環、どうした?!」
環は顔を上げた。
「柊。この香り、覚えてます。シャネル・エゴイスト。
クロノスのカフェテリアで、よく嗅ぎました。
玲子主任のところに、よく来ていた人がつけてた。
主任、“朔也くん”って呼んでた気がします。」
柊と凪の視線が合う。
凪の手が、キーボードの上で一段早く動く。
「名前……田中、朔也。」
柊が低く繰り返す。
「……クロノスの営業統括部、企画営業。」
凪が映像を止めた。
暗いフード、俯き加減の影。顔は拾えない。
「画角が悪い……でも、歩幅と姿勢、指のクセは拾える。
香りの証言と合わせれば、十分“当たり”だ。」
柊が頷く。
「田中朔也――環の周囲をうろついていた“影”のひとつ。可能性は高い。」
環はそっと、柊の袖口をつまんだ。
「……怖い、です。」
柊は環の手を包む。
「大丈夫。もう1人じゃない。俺と、凪がいる。」
「もちろんです!」
凪が笑い、モニターを睨む。
「先輩、証拠、固めましょう。――領域、展開します。」
画面にログのタイムラインが走る。
凪の指が音を刻み、映像が補正され、断片が繋がっていく。
壁一面の写真の部屋――その不気味な光景を、まだ誰も知らない。
けれど、香りがすでに“扉の鍵穴”に差し込まれていた。
夜は深まる。
それでも、温度はあった。
柊と凪のあいだに座る環の両肩を、静かな決意が包み込んでいた。
恐れを言葉にできた夜は、誰かと並んで立てる夜です。
ひとつの告白が、ひとつの記憶と結びつき、真実への輪郭が見えてきました。
次に進むための鍵は、もう手の中にあります。




