第10章 祝杯と告白 ― 大切な人の意味と失感情症 ―(前編)
ひとりで抱えてきた時間が長いほど、
「誰かを好き」と思う気持ちは怖くて、そして愛しい。
今回は、環が初めて“自分の言葉で”「好き」を見つける瞬間です。
名前を呼ぶ――その小さな行為が、彼女にとって世界を変える魔法になります。
トラブルを見事に回避したアークシステムズ。
チーム初の大型案件を無事納品できた喜びと安堵が、3人の胸に広がっていた。
「お疲れさまで〜す!」
「お疲れさま。」
「お疲れさまです。」
乾いたグラスの音が、ささやかに響く。
予約していた海辺のレストランの窓際席。
店内は柔らかな光に包まれ、外の海が夜風に揺れていた。
◇◇◇
「3人でこうやって食事するの、初めてですよね〜」
「そういえば、そうだな。」
「そうなんですか? なんか、私こういうの初めてなんです。
会社の飲み会とかも行ったことなくて。」
「え? 環さん、飲み会行ったことないの?」
「はい……そういうの、避けてたというか……誘われたこともなくて。はは……」
「え、なんで? あんなに話せるのに?」
「私、人付き合い、あまり得意じゃないんです。
話すの、苦手で。少しでもきつい言葉を聞くと、動けなくなっちゃって……。
だから一人でいる方が多かったです。」
「え〜、そんなふうに見えないよね、先輩?」
「ああ、確かに。」
「たぶん……柊先輩と凪くんの前だと、緊張しないからです。
安心できるというか……。
でもね、昔から感情がよくわからなくて、変なところで笑っちゃうんです。
笑ってほしくない時に笑うとか。
子どものころはそれでよく怒られてました。
大人になってからは少しマシになりましたけど……。
あ、すみません、私ばっかり話して……。
こういうところなんですよね、ダメだな……。」
柊が穏やかに口を開いた。
「環、話したいことは話していい。俺は環の話を聞くから。」
その言葉と同時に、そっと環の手を握った。
その手はあたたかく、けれど静かで、まるで「ここにいる」という合図のようだった。
凪も微笑んで言う。
「僕も聞きますよ。環さんの話。
気になることは話したほうがスッキリしますから。」
環は小さく頷いた。
「ありがとうございます。
柊先輩も凪くんも優しいですよね……。
それに、すごく仲が良くて、見てるといいなって思うんです。
仕事のときの二人はカッコいいし、お互い信頼してるし……。
私もその中に入りたいって思うのに、いざ行こうとすると、ブレーキがかかるんです。
“また裏切られたらどうするの”って、心のどこかで声がして。
……どこへ行っても嫌がらせされたり、意地悪されたり、信じてた人に裏切られたり。
他人を信じると痛い目にあうから、信じない方がいいって、わかってるのに。
それでも手を伸ばしたくなって、離されて……。
そんなことの繰り返しでした。」
凪の表情が少し曇る。
環は遠くを見ながら続けた。
「以前の職場で、大事な書類がなくなったことがあって。
私が封筒に入れたからって、犯人にされたんです。
でも後で別の人が持ってたことがわかって。
その頃から、何かあると、いつも私の名前が出るようになって。
ある日、仲良くしてた同僚が“三浦さんのせいにしとけばいい”って言ってるのを聞いちゃって……。
動けなくなって、怖くなって、辞めました。
次の職場でも同じ。クロノスでもまた……。」
小さな沈黙。
ワイングラスに映る光が、揺れる波のように淡く揺れた。
「でも、柊先輩と凪くんに会ってから、なんか違うんです。
前よりも胸のこの辺があったかい感じになって、笑うことができて。
こういうの、いいなって感じることが増えて……
ああ、これが“楽しい”ってことなのかもしれないって。」
環の声が少しだけ震えた。
「でも、家に帰ると、何も音がしなくなるんです。
静かで、怖くて、涙が出てきて……。
ずっと涙なんて出なかったのに。
それが何度かあって。
気づいたら、柊先輩と凪くんといるときは楽しいから、
たぶん、これが“寂しい”ってことなんだなって、やっとわかりました。」
凪は、静かに彼女を見つめていた。
環も気づき、少し笑う。
「凪くん、私ね、子どものころ母親に虐待されてたの。
それが原因で、感情がよくわからないんです。
“好き”ってことも、まだよくわからなくて……。
たまに変なこと言っちゃってるかもしれません。」
凪はゆっくり首を振った。
「そうなんだね……。でも、変なことなんて言ってないよ、環さん。
そういうの、僕、全然気づかなかった。ごめんね。」
「え? 凪くんは悪くないから謝らないでください。
私ね、柊先輩と凪くんにはずっと一緒にいてほしいなって思ってるから、話したんです。
ご迷惑でしたか?」
凪は笑顔を見せた。
「迷惑なんかじゃない! ずっと一緒にいたいなんて言われて、うれしくない人いませんよ。
僕も環さんとずっと一緒にいたいです!」
「ありがとうございます、凪くん。これからもよろしくお願いします。」
「もちろん! 環さん、こちらこそ!」
柊は環の手を握ったまま、何も言わずにその会話を見ていた。
ただ、優しい目で。
しばらくして、凪がグラスを空け、軽く伸びをした。
「よし! じゃあ僕、先に帰りますね〜!」
「え?」
「お2人で、この後デートしてきてくださいね! 僕、お邪魔虫ですから〜!」
「何言ってんだ、気をつけて帰れよ。」
「はい! 環さんも、気をつけて帰ってくださいね!」
「うん、ありがとう。おやすみ、凪くん。」
凪が去ったあと、残された2人の間に、静かな夜風が通り抜けた。




