第8章 オムライスと“好き”の魔法と環の過去
「好き」という言葉には、不思議な力があります。
それは人を癒し、勇気を与え、ときに心を結びつける魔法のようなもの。
この章では、環が自分の“好き”と“感情”の意味を初めて見つめ直します。
幼いころから閉じ込めてきた想いを、
信じられる人に向けて、そっと言葉にする時間。
どうか、この小さな勇気と優しさを、
ゆっくり感じながら読んでみてください。
「環、ランチ一緒に行こうか? 2人とも遅くなりそうだし。」
「はい! 行きます! 柊先輩のおごりですか?」
「ははは……もちろん、俺のおごり〜。」
「ありがとうございます。」
「環の好きな食べ物ってなに?」
「私? 私は……うーん、オムライスとかナポリタンとかかな。
なんて子どもっぽいですよね?」
「そんなことないよ。好きなものは好きでいいんじゃない。子どもも大人も関係ない。」
「そ、そうですか……でもなんかちょっと恥ずかしいな……。」
「環〜、全部声に出てるよ〜(笑)」
「あ!」
「じゃあ、環の好きなオムライス食べに行こうか。」
「はい!」
──いらっしゃいませ。
席に案内され、カウンター席に隣同士で座る。
「環はオムライス、俺は……うん、同じで。」
「柊先輩もオムライスでいいんですか?」
「うん。環の好きなオムライス、一緒に食べたいからね。」
「はは……柊先輩って、くすぐったいセリフをさらっと言いますよね。
私、そういう柊先輩いいなって思います。好きです、そういう柊先輩。」
柊は一瞬だけ驚き、それから穏やかに笑った。
「環はさ、そういう“好きです”ってよく言うよな。」
「あー、言いますね。
私、“好き”をちゃんと言葉にして言いたいんです。
“好き”を言わないで終わるのは、もったいないですから。」
「もったいない、か。……そういうの、いいな。」
柊は小さく息をつき、テーブルの縁に指を軽く置いた。
「柊先輩?」
「なぁ、環。」
「はい。」
「なんで俺が“環”って呼んでも、何も言わなかった?」
「え? なんで……あー、なんでだろう……」
環は少し首をかしげ、考えるように言った。
「柊先輩に初めて“環”って呼ばれたとき、ちょっと驚いたんですけど……
なんか、言葉で表せないあたたかい気持ちになったんです。
ふわふわのお布団に包まれたみたいで。
あんなふうに感じたの、初めてで……それから“環”って呼ばれるたびに、
胸のこの辺がぽかぽかするんです。……変ですかね?」
柊は静かに目を細めた。
「そんなことないよ。環って優しいよな。」
「えー、そうですか? そんなこと言われるの初めてです。ありがとうございます。
でも、私は柊先輩のほうがずーっと優しいと思いますよ。
見た目も背が高くてカッコいいし。
私、柊先輩を初めて見たとき、こんなにカッコいい人現実にいるんだ〜って思って見とれちゃいました。
それからたまにカフェテリアで見かけたり、廊下ですれ違ったりすると、
ドキッとして、近くにいるとドキドキしちゃうから近づけない人って思ってました。
誰かと話している声がステキだなって思ったり……あ、でもストーカーじゃないですよ!
追っかけたりしてませんから。
だから……今、隣にいるとか、夢見てるみたいなんですよ。」
柊は少し笑って、しかしその瞳は優しかった。
「俺も、環を見てたよ。」
「え? そうなんですか? なんで私なんか見てたんですか?
柊先輩、大切な人いないんですか?」
「いるよ。」
「えー、いいですね。大切な人……。」
環はオムライスを見つめながら、ゆっくりとした声で続けた。
「私ね、“大切な人”って意味があんまりよくわからなくて……。
子どもの頃、寮母さんに言われたんです。
“名前は特別なのよ。あなたもいつか、環って大切な人に呼ばれるといいわね”って。
……大人になればわかるのかなって思ってたけど、
いまだによくわからなくて……。」
「寮母さん?」
環は少しだけ間をあけて、淡々と語り始めた。
声は静かで、まるで昔の記憶をなぞるようだった。
「あ、私……児童保護施設で育ったんです。
母親の虐待がひどくて、3歳から成人するまで施設にいました。
育ての親は寮母さんなんです。
虐待の影響で……感情が、あまりよくわからなくて。
だから“うれしい”とか“悲しい”とかも、人より鈍いのかもしれません。
でも、寮母さんが言ってたんです。
“好き”って言葉は大切。
“これがほしい”“これいいな”って思ったら、
“好き”って言葉にして言わないと、その気持ちが消えちゃうって。
“好き”は“大切”と同じなのよって。
……だから、なくなっちゃう前に“好き”って言うようになったんです。」
淡々と話しながらも、その声には静かな温度があった。
柊は言葉を挟まず、ただ見つめていた。
気づけば、彼の右手がそっと動き、環の手に触れていた。
驚いて視線を上げた環に、柊は静かに微笑んだ。
「環、話してくれてありがとう。」
その声は、いつもよりも少し掠れていた。
「……でも、どうして俺に話してくれたの?」
環は少し首を傾げたまま、ぽつりと答えた。
「なんでですかね……。
なんか柊先輩には、話したくなったんです。私のこと。
今まで誰にも知られたくないって思ってたのに……不思議です。
柊先輩には知っててほしかったのかもしれません。
ご迷惑でしたでしょうか。」
「迷惑なんかじゃないよ。」
柊は環の手をぎゅっと握った。
「むしろ、環が勇気を出して話してくれたことに感謝してる。ありがとう。」
環は小さくうなずき、少しだけ笑った。
「それなら、よかったです。」
柊の手の温もりが、言葉よりも確かに伝わってくる。
その温かさに包まれながら、
環は“好き”と“大切”の意味を、ほんの少しだけ理解した気がした。
──外の窓辺に、陽光が落ちていた。
そのすぐ外。
店の向かいの歩道で、男の手がスマートフォンを構えていた。
カシャ。
音は小さく、それでも確かに響いた。
男の指が画面をなぞる。
写真には、微笑み合う2人。
柊が環の手を握っている瞬間が、鮮明に写っていた。
男の口元がゆっくりと歪む。
「……やっぱり、環さんは俺のものだ。」
シャネル・エゴイストの甘い香りが、
カメラのレンズにかかる息に混じって消えた。
ご読了ありがとうございました。
環が“好き”という言葉に込めた想いは、
ただ誰かを想うということではなく、
「生きてきた証を残す」ような、静かな祈りにも似ています。
柊は、その言葉を受け止めることで、
彼女の過去ごとまるごと包み込みました。
それは恋ではなく、まだ名のない“信頼のかたち”。
けれど、外の世界では新たな影が動き出します。
光と闇が交錯する中で、
“信じる”という言葉がどんな意味を持つのか――
次章で、その答えが少しずつ見えていきます。




