― プロローグ ―
ここから始まるのは、悲しい物語ではありません。
ひとりの女性が、失っていた“感情”を少しずつ取り戻していく――
そんな静かな再生の物語です。
不穏な空気の中にも、確かに“光”は存在します。
ゆっくりと流れる時間を、どうぞ見守るような気持ちで読んでください。
闇のシャッター音
昼下がりのクロノス・ソリューションズ本社。
高層ビルの27階にあるカフェテリアは、午後の光がガラス越しに差し込み、
床に、まるで透明な水面のような影をつくっていた。
カップの中の紅茶を見つめながら、三浦環は小さく息をつく。
書類の山とメールの応酬に追われた午前が、ようやく終わった。
昼休みのわずかな時間、ここに来るのが彼女の日課だった。
――紅茶の香りと、静かなざわめき。
この時間だけは、どんなノイズも遠くに感じられる。
窓際の席から見下ろす街の風景は、
人と車の流れが小さな模型のように見え、
日常という仕組みの中で、自分がどこにいるのか、ふと分からなくなる。
そのとき、テーブルの向かい側――
2つ離れた席に座るひとりの男が、
スマートフォンをゆっくりと傾けた。
カメラのレンズが、光を拾う。
シャッター音は鳴らない。
けれど、確かにわずかな“気配”が空気を震わせた。
男の指が画面を撫で、
ファイル名を保存する。
> Miura_Tamaki_2025_05_18.jpg
その瞳に宿るのは、興味でも偶然でもない。
もっと静かで、
もっと粘着質な、
暗い感情の温度。
環は知らない。
今この瞬間の自分が、
誰かのフォルダの中で、ひっそりと息をしていることを。
――静かな午後。
けれどその光の中に、
確かに「闇」は映りこんでいた。
ご読了ありがとうございます。
この静かな午後の出来事が、のちに大きな運命の始まりへとつながっていきます。
次の章では、環の心が閉ざされる瞬間が描かれます。
どうか彼女の中にある“光の欠片”を感じながら、見届けてください。




