第九話 オカルト部長は知っている
菊池芳樹は、自らの人生において、これほどまでに「詰んだ」と感じたことはなかった。
玄関のドアを開けた先には、二つの、全く異なるベクトルを持つ絶望が、彼の前に立ちはだかっていた。
一つは、相田千夏。ショートカットのよく似合う、快活な笑顔。彼女は、芳樹が失ってしまった「平凡で輝かしい日常」の象徴。その善意と常識は、今この瞬間、この家の中に満ちる冒涜的な非日常とは、決して相容れない猛毒だった。
そして、もう一つ。その千夏の背後から、ぬっと顔を出す、オカルト研究会部長、門倉健。ヨレヨレの白衣、度の強い丸眼鏡。その瞳だけが、獲物を見つけたハイエナのように、あるいは、聖地を巡礼する狂信者のように、爛々と輝いている。
「……間違いない。相田くんの言っていた通りだ……。この家からは、『本物』の、濃厚な気配がする……!」
門倉の、恍惚とした呟き。
芳樹の脳裏に、警報が鳴り響く。まずい。この男は、まずい。千夏は、目の前の異常を「面白いこと」として誤認してくれるかもしれない。だが、この男は違う。彼は、半端な知識と、歪んだ信仰心で、この家の混沌を、さらに加速させる起爆剤になりかねない。
芳樹は、本能的に、ドアを閉めようとした。
「ご、ごめん二人とも! うち、今、ガス漏れしてて!」
だが、その行動は、千夏の純粋な善意によって、いとも容易く阻まれた。
「え、大変じゃない! 菊池くん、早く避難しないと! 大丈夫!?」
千夏が、芳樹の身を案じて、ぐいとドアを押し開ける。その力に、タオル一丁で踏ん張りの効かない芳樹は、あっさりと押し負けてしまった。
かくして、招かれざる二人の客は、混沌の神々が待ち受ける、古民家の中へと、その足を踏み入れたのだった。
「おじゃましまーす! わあ、広いね! 本当に古民家なんだ!」
千夏が、楽しそうに声を上げる。その背後で、門倉は、まるで磁場の乱れでも感じるかのように、持参した方位磁石をかざしながら、ぶつぶつと何かを呟いている。
芳樹は、リビングへと続く襖を、その身を盾にするように塞ぎながら、必死に二人を追い返そうとする。
「いや、だから、本当に今日はダメなんだって! また今度、改めて……!」
その時だった。
芳樹の背後で、その襖が、すっと、内側から静かに開かれた。
そこに立っていたのは、いつの間に着替えたのか、豪奢な黄色の衣服を纏った、金髪の美青年――ハスターだった。彼は、不機嫌そうな、しかし、王者の風格を漂わせた表情で、闖入者たちを見下ろしている。
「何やら騒がしいな。我が伴侶の家に、何の用だ、下郎ども」
その、舞台役者のように朗々と響く声と、人間離れした美貌に、二人の反応は、くっきりと分かれた。
「わあ、すごい! 菊池くんのシェアハウス仲間さん? すっごいイケメン! 俳優さんか何かですか!?」
千夏は、素直に、目を輝かせている。
一方、門倉は、その場でわなわなと震え始めた。
「こ、この、冒涜的なまでの神々しさ……! 人間ではありえない、黄金のカリスマ……! まさか……まさか、あなたは……!」
門倉が何かを叫び出す前に、さらなる混沌が、姿を現した。
リビングの奥の暗闇から、ぬるり、と、緑色の巨体が、その冒涜的な姿を現す。クトゥルフだ。彼女は、芳樹の隣まで来ると、その六つの瞳で、珍しい虫でも見るかのように、人間たちをじっと見つめている。
そして、天井裏から、どさり、と黒い毛玉が落ちてきた。ツァトゥグァだ。彼は、床に落ちると、心底面倒くさそうに一つあくびをし、そのまま、一番近くにあった座布団の上で、再び丸くなった。
三柱の神々が、リビングに揃った。
その光景を前にしても、千夏の常識は、びくともしなかった。
「わー! 緑色の大きな人と、黒いモフモフの……置物? もいる! 菊池くんち、本当にインターナショナルだね! 面白そう!」
彼女の脳は、目の前の異常事態を、全力で、「楽しそうなこと」へと変換している。その鋼の常識力に、芳樹はもはや尊敬の念すら抱いていた。
だが、門倉は、違った。
彼は、クトゥルフの姿を認めた瞬間、持っていた方位磁石を取り落とし、その場で、「ああ……」と、恍惚とした、呻き声のような声を漏らした。
「おお……! おおお……! 『大いなる、くとぅるふ』……! まさしく、ルルイエ異本に記されし、その御姿……! このぬめりを帯びた鱗! この冒涜的なる触腕! 間違いない、本物だ!」
彼は、次に、床で丸くなるツァトゥグァに目をやり、再び絶叫した。
「そして、あちらにいますは、ンカイの黒きヒキガエル! 『つぁとうぐぁ』! 聖なる怠惰の化身! ああ、我が人生の、全ての探求が、今、この場所で、報われた……!」
門倉は、一人で大興奮し、鞄から取り出した、分厚いファイルの記述と、目の前の神々の姿を、狂ったように見比べている。そのファイルは、おそらく、彼が心血を注いで写本し、注釈を書き加えた、禁断の魔導書のコピーなのだろう。
芳樹は、頭を抱えた。
(……一番、バレちゃいけないやつに、バレた……!)
門倉の暴走は、さらに加速していく。
彼は、芳樹のことを、神々を召喚し、使役する、偉大なる魔術師だと、完全に勘違いしてしまったようだった。
「菊池くん! いや、菊池師匠! なぜ、これほどの御業を、今まで隠しておられたのですか! 我々、オカルト研究会は、師匠の活動を、全面的に支持いたしますぞ!」
「いや、俺は師匠じゃないし、呼んでない! こいつらは、勝手に来たんだ!」
芳樹の悲痛な叫びは、もはや、興奮状態の門倉の耳には届いていない。
門倉は、おもむろに、神々の前に進み出ると、恭しく膝をつき、古文書で覚えたのであろう、儀式的な挨拶を、試み始めた。
「いあ! いあ! くとぅるふ! ふたぐん!」
その、冒涜的な言語による詠唱に、神々の反応は、極めて冷ややかだった。
クトゥルフは、六つの瞳を細め、テレパシーで芳樹に問いかける。
《……よしき。この、やかましい人間は、なんだ? 食うか?》
ハスターは、侮蔑を隠そうともせずに、鼻を鳴らす。
「フン。冒涜的な発音だな。我が耳が汚れるわ」
そして、ツァトゥグァは、眠りの邪魔をされ、心底不機嫌そうに、一言だけ呟いた。
「…………うるさい」
だが、門倉は、そんな神々の反応にも、全くめげていなかった。彼は「おお、神々が我に応えてくださった!」と、さらにポジティブに勘違いすると、今度は、自らの懐から、スマートフォンを取り出した。
「では、我が魔術の深淵も、ご覧にいれましょう!」
彼が起動したのは、オカルト研究会で開発したという、スマホアプリだった。その名も、「ポケット・ネクロノミコン(AR機能付き)」。
「喰らえ! 邪神召喚!」
門倉が叫ぶと、スマホの画面から、チープな8bitのファンファーレと共に、AR技術による、ポリゴンの粗いタコの映像が、リビングの中を泳ぎ始めた。
その、あまりにも情けない光景に、芳樹は、もはや、言葉も出なかった。
その時だった。
ふ、と。
リビングの照明が、一瞬だけ、暗くなった。
芳樹は、気づいた。門倉の背後に、いつの間にか、クトゥルフが、音もなく立っていることに。
彼女の巨大な影が、まるで夜の帳のように、門倉の体を、完全に覆い尽くしている。
部屋の温度が、急速に下がっていく。
そして、門倉の脳内に、直接、声が響き渡った。
それは、深海の底からでもなく、宇宙の果てからでもない。
すぐ、真後ろから、響いてくる、広大で、冷たい、問いかけ。
《――我を、呼んだか?》
それは、門倉の、ちっぽけな人間の理性が、耐えられる限界を、遥かに超えていた。
彼の、半端な知識と、歪んだ信仰心は、本物の、純粋な、宇宙的恐怖の前では、あまりにも無力だった。
門倉の顔から、急速に、色が消えていく。
彼は、壊れたブリキの人形のように、ぎぎぎ、と、ゆっくりと、振り返った。
そして、目の前に立つ、本物の「大いなる、くとぅるふ」の、その冒涜的なる御姿を、直視してしまった。
彼の丸眼鏡の奥の瞳が、ありえないほどに、大きく、大きく、見開かれていく。
彼の口から、最後の、悲痛な叫びが、迸った。
「――本物は、アプリからは、出てこないって、ネットの掲示板に、書いてあったのにいいいいいいいいいいいいいっ!!」
絶叫と共に、彼は、白目を剥き、口から泡を吹くと、その場に、ばたりと崩れ落ちた。
その後の後始末は、大変だった。
意外にも、千夏が、その場を手際よく収拾してくれた。
「あー、もう、門倉先輩、また興奮しすぎちゃって……。すみません、菊池くん、ちょっと水とタオル、貸してもらえる?」
彼女は、まるでいつものことであるかのように、気絶した門倉を、手慣れた様子で介抱し始めた。その姿に、芳樹は、彼女の持つ、別の意味での「格の違い」を感じずにはいられなかった。
結局、その日は、気絶した門倉を、芳樹と千夏で、なんとか彼の家まで送り届けることで、幕を閉じた。
千夏は、帰り際に、芳樹に笑顔で言った。
「今日はごめんね、急に押しかけちゃって。でも、菊池くんちのシェアハウス仲間さんたち、すっごく個性的で、面白そうな人たちで、よかったよ! また、遊びに行ってもいい?」
芳樹は、力なく、笑うことしかできなかった。
自分の家に、一人で戻ってきた芳樹。
リビングの床に、一冊の、分厚いファイルが落ちているのに気づいた。
門倉が、混乱の際に、落としていったものだ。
芳樹は、それを、拾い上げた。
中には、びっしりと、手書きの文字と、不気味なスケッチが書き込まれている。
クトゥルフ、ハスター、ツァトゥグァ……。
神々の特徴、能力、そして、いくつかの伝承に記されているという、彼らの「弱点」や「対処法」まで。
その情報の真偽は、定かではない。
だが、芳樹は、その薄汚れたファイルのページをめくりながら、暗闇の中に、一筋の光が差し込んだような、そんな気がしていた。
(……こいつらの情報……もしかしたら、これはこの狂った日常を生き抜くための初めての『攻略本』になるかもしれない……)
翌日。
大学のキャンパスを歩いていた芳樹は見慣れない壮年の紳士に声をかけられた。
その紳士は柔和な笑みを浮かべ、こう言った。
「菊池芳樹くんだね。少しよろしいかな。君のところにいる素晴らしい留学生たちについて学長がぜひお話を伺いたいとお呼びなんだ」
芳樹の背筋にこれまでとはまた質の違う冷たい汗が、流れていった。




