第八話 友だち以上、邪神未満
菊池芳樹にとって、大学という場所は、二つの意味を持っていた。
一つは、邪神たちが闊歩する我が家から一時的に避難できる、貴重な聖域として。
そして、もう一つは、自分がまだ「普通」の人間社会に属しているのだと、かろうじて確認させてくれる、唯一の場所として。
その日、彼は、その両方の意味を、心の底から噛み締めていた。
退屈なはずのマーケティング論の講義が、今は天上の音楽のように心地よい。芳樹は、隣の席に座る、一人の女子学生の存在に、心の底から感謝していた。
彼女の名前は、相田千夏。
文学部に所属する彼女とは、この一般教養のクラスで友人になった。小柄で、快活なショートカットがよく似合う、いつも笑顔を絶やさない女の子。彼女は、芳樹の周りにいる、数少ない「常識人」であり、彼がこの狂った日常の中で正気を保つための、最後の生命線のような存在だった。
「ねえ、菊池くん」
教授の目を盗んで、千夏がひそひそと話しかけてくる。
「この前のレポート、すごかったね! なんか、教授が『彼の論文は、既存のマーケティング理論を、根源的なレベルで覆しかねない』とか、難しい顔で褒めてたよ!」
「あ、ああ、まあね。ちょっと、ひらめいちゃって……」
芳樹は、曖昧に笑って誤魔化す。あれが、怠惰なる神の気まぐれな神託の産物であるなど、口が裂けても言えるはずがない。
「そういえばさ」と、千夏は好奇心に輝く瞳で続けた。「最近、菊池くんち、すごく賑やかだって噂だよ? なんでも、すっごく背の高い緑色の女の人と、王子様みたいな金髪の男の人と、シェアハウス始めたんでしょ? 楽しそうだね!」
彼女の、一点の曇りもない、ポジティブな勘違い。
芳樹は、その言葉に、危うく涙腺が緩みそうになるのを必死で堪えた。
(相田さん……! 君だけが、俺のオアシスだ……!)
この狂った現実を、ただの「楽しそうなこと」として認識してくれる、彼女のその常識こそが、芳樹にとっては、何よりも尊いものに思えた。
昼休み。
芳樹は、千夏と共に、学生食堂の喧騒の中にいた。
カツカレーの匂い、学生たちのざわめき、窓から差し込む、柔らかい秋の日差し。何もかもが、平和で、ありふれていて、そして、とてつもなく愛おしい。
芳樹は、学食の三百八十円のラーメンをすすりながら、数日ぶりに、心の底から「美味い」と感じていた。家の食卓には、クトゥルフ作の物体Xか、ハスター作のやたら豪華だが完成まで三時間かかるフルコースしか並ばないのだ。
「へえ、山奥の古民家なんだ! いいなあ、秘密基地みたい!」
千夏は、芳樹の新たな住処の話に、目を輝かせている。
「でも、大変じゃない? 男三人……じゃないか、女の人もいるんだよね? 家事とか」
「まあ、なんとかなってるよ……。一応、掃除が得意なやつとかもいるし……」
芳樹は、不定形の体で家中の汚れを舐めとっていく、ショゴスの姿を思い浮かべ、遠い目をした。
その時、千夏が、とんでもない爆弾を投下した。
「ねえ、今度さ、そのシェアハウス仲間さんたちに、挨拶しに行きたいな! みんなで、タコパとかしない? たこ焼きパーティー!」
瞬間、芳樹は、口に含んでいたラーメンを、盛大に噴き出した。
「げほっ、ごほっ! た、た、タコパ!?」
「うん! 絶対楽しいよ!」
「だ、だめだ! タコはダメだ! 絶対にダメだ!」
芳樹は、半狂乱で首を横に振る。あの家で、タコを食材として扱うこと。それは、神への冒涜であり、そして、何より、芳樹自身の生命の危機に直結する、禁断の行為だった。
千夏は、芳樹のあまりの剣幕に、きょとんとしている。
「え、なんで? 菊池くん、タコ嫌いだったっけ?」
「嫌いとか、そういう問題じゃなくて……! とにかく、うちの同居人、タコにはちょっと、うるさいやつがいるんだよ!」
芳樹が、必死に言い訳を考えていた、その時だった。
ふ、と。
食堂の中の空気が、急に、冷たくなったような気がした。
まだ十月だというのに、まるで真冬のような、肌を刺すような冷気。食堂のあちこちで、「あれ?」「なんか寒くない?」という学生たちの声が上がる。
芳樹たちのテーブルの上に置かれていた、水の入ったグラスの表面が、ぱり、と音を立てて、白い霜で覆われていく。
芳樹は、その現象の、真の意味を、即座に理解した。
(――来やがったな!)
食堂の、一番奥の柱の影。そこに、二つの、決して混じり合うことのない、しかし、今は同じ目的のためにそこにいる、神々の気配を感じる。
一つは、冷たく、深く、重い、深淵の如き嫉妬。クトゥルフだ。
もう一つは、熱く、荒々しく、全てを薙ぎ払わんとする、嵐のような独占欲。ハスターだ。
彼らは、大学にまで、芳樹を監視しにきていたのだ。
千夏は、凍りついたグラスを見て、不思議そうに首を傾げている。
「わ、すごい。この食堂、冷房効きすぎじゃない?」
「あ、ああ、そうみたいだな! ははは……」
芳樹が、引きつった笑いを浮かべた、その瞬間。
今度は、突風が、食堂の中を吹き荒れた。
それは、ただの風ではない。芳樹たちのテーブルだけを、ピンポイントで狙った、悪意に満ちた、小さな竜巻だった。
紙ナプキンが舞い上がり、割り箸が転がり、トレイの上の食器が、ガチャガチャと音を立てる。
そして、その風は、向かいに座る千夏の、チェック柄のスカートを、ふわりと、しかし、盛大に、めくりあげた。
「きゃあああっ!」
千夏の、可愛らしい悲鳴が響き渡る。
周囲の男子学生たちの視線が、一斉に、そこに集中する。
芳樹は、即座に、原因を理解した。
(ハスター、てめえええええええっ!)
芳樹は、悲鳴を上げてスカートを押さえる千夏を庇うように立ち上がると、食堂の奥の柱の影に向かって、叫んだ。
「お前ら、いい加減にしろよ!」
その声は、食堂中に響き渡り、全ての学生が、奇妙なものを見る目で、芳樹に注目した。
芳樹は、顔から火が出るのを感じながら、千夏に「ご、ごめん! 俺、ちょっと用事が!」とだけ告げると、二柱の神の気配がする方へと、駆け出した。
学食の裏、ゴミ捨て場の陰。
芳樹は、そこに潜んでいた(つもりの)二柱の神と、対峙していた。
「なんで来たんだよ! 大学までついてくるなよ!」
芳樹が怒鳴ると、ハスターは、その美しい顔を、侮辱されたかのように歪めた。
「フン、言い訳か。王たる私を差し置いて、あのような定命の女にうつつを抜かすとは! 万死に値するぞ、我が伴侶よ!」
クトゥルフは、何も言わない。だが、彼女の周囲の空間は、明らかに、通常より重力が高まっているようだった。彼女の、無言の怒りと嫉妬が、物理法則にまで干渉しているのだ。
「うつつを抜かすとかじゃない! ただの友達だ!」
芳樹の、必死の弁明。
だが、その言葉は、神々の嫉妬の炎に、さらに油を注ぐだけだった。
《……トモダチ……?》
クトゥルフから、冷たいテレパシーが届く。
《……我よりも、優先するのか? その、矮小で、脆弱で、寿命の短い、人間を》
「そういうことじゃねえって言ってんだろ!」
もはや、話は通じない。芳樹は、この不毛な言い争いを諦め、ただ、深いため息をつくことしかできなかった。
その日の夜。
芳樹は、家の風呂で、一日の疲れを癒していた。
湯船に浸かりながら、彼は、今日の出来事を思い出していた。千夏には、後でちゃんと謝りのメッセージを送った。「変なことしてごめん」と。彼女からは、すぐに「大丈夫だよ! 今日の菊池くん、なんだか大変そうだったね(笑)」という、優しい返事が返ってきた。
(……やっぱり、相田さんは、いい人だな……)
彼女のような、普通の女の子と、普通の恋をして、普通の大学生活を送る。
そんな、ありふれた幸せを、自分は、もう望むことすらできないのだろうか。
そんな感傷に浸っていた、その時だった。
防水ケースに入れて持ち込んだスマートフォンが、ぶるぶると震え、着信を告げた。
画面に表示された名前は、「相田千夏」。
芳樹は、慌てて、電話に出た。
「も、もしもし、相田さん?」
『あ、菊池くん? 夜分にごめんね!』
電話の向こうから、千夏の、明るい声が聞こえてくる。
『あのね、今日の講義のレポートのことで、ちょっと聞きたいことがあって……。今から、菊池くんの家に、行ってもいいかな?』
芳樹の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
「え!? い、今から!? いや、だめだ、悪いけど、今日はちょっと……!」
『あ、そう? でも、もう、結構近くまで来ちゃったんだけど……』
「えええ!?」
芳樹は、湯船から飛び出した。
「いや、だから、本当にダメなんだって! うち、今、ちょっと、その、色々と散らかってて! ていうか、神々が嫉妬で荒れ狂ってて!」
『あ、よかった、家の明かり、ついてる! じゃあ、チャイム鳴らすね!』
「人の話を聞けえええええええっ!」
ブツリ、と。
無情にも、通話は切れた。
そして、玄関の方から、ピンポーン、という、この世の終わりの音とも思える、軽やかなチャイムの音が響き渡った。
芳樹は、絶望した。
リビングには、嫉妬のオーラを隠そうともしない、二柱の邪神がいる。
そして、玄関には、何も知らない、善意の塊のような、人間の友人が。
最悪の状況。
芳樹は、慌ててタオルを腰に巻くと、風呂場を飛び出した。
「待ってくれ相田さん! 今、開けるから! 絶対に、リビングの方には来るなよ!」
そう叫びながら、彼は、濡れた足で廊下を走り、玄関のドアノブに、手をかけた。
そして観念してドアを開ける。
そこにはにこりと笑う千夏の顔があった。
ああ、終わった。俺の人生終わった。
そう思った芳樹の目に千夏の背後に立つもう一人の人物の姿が飛び込んできた。
それは、ヨレヨレの白衣に度の強い丸眼鏡。不健康そうな顔色で、しかし、その瞳だけは獲物を見つけた狩人のように爛々と輝いている一人の男。
オカルト研究会部長、門倉健。
彼は芳樹の家をまるで聖地でも見るかのように、恍惚とした表情で見つめながら呟いた。
「……間違いない。相田くんの言っていた通りだ……。この家からは、『本物』の、濃厚な気配がする……!」
芳樹は静かにドアを閉めようとした。
だが、それは、無駄な抵抗だった。




