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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第七話 邪神たちのアルバイト


 菊池芳樹は、自らの人生において、これほどまでに荘厳で、これほどまでに真剣なプレゼンテーションを行ったことがなかった。

 舞台は、古民家のリビング。中央には、もはやこの家の心臓部と化した炬燵が鎮座している。彼の目の前には、三柱の旧支配者たちが、それぞれのスタイルで彼の言葉を待っていた。

 芳樹は、震える手で、一冊の大学ノートを掲げた。それは、彼が昨夜、血の涙を流しながら完成させた、菊池家の家計簿だった。

「――緊急家庭内会議を、開催する!」

 彼の悲痛な宣言が、静かな部屋に響き渡る。

「ここに、我が家の財政状況をまとめた! 刮目して見よ!」

 芳樹は、ノートのページを、三柱の神々へと突きつけた。そこには、絶望的な赤字で記された収支報告と、「このままでは来月破産します」という、彼の震える字で書かれた悲痛な注釈が添えられている。

 神々の反応は、芳樹の予想通り、極めて冷ややかなものだった。

 クトゥルフは、その六つの瞳で家計簿をじっと見つめているが、そこに書かれた数字と文字が、彼女にとって一体何を意味するのか、全く理解できていないようだった。彼女の思考は、おそらく「ヨシキが、黒い線が引かれた白い木の皮を、我々に見せている」という事実認識の段階で停止している。

 ハスターは、その美貌を侮辱されたかのように、不機嫌に眉をひそめている。

「フン。下劣な数字の羅列だな。王たる私の前で、そのようなものを見せるな。不敬であるぞ」

 そして、ツァトゥグァは、炬燵布団の隙間から片目だけを覗かせ、一言、こう呟いた。

「…………面倒だ」

 会議は、開始三十秒で、完全に行き詰まった。

 だが、芳樹はここで引き下がるわけにはいかなかった。彼は、机をバンと叩くと、叫んだ。

「だから! このままじゃ、飯が食えなくなるんだよ! ポテチも買えなくなるんだぞ、ツァトゥグァ!」

 その一言に、ツァトゥグァの琥珀色の瞳が、ぴくりと反応した。

 芳樹は、畳み掛ける。

「そこで、提案がある! 本日より、君たちにも、労働に従事してもらう!」

「「「…………」」」

 三柱の神が、初めて、その意識を芳樹へと集中させた。彼らの頭上には、巨大なクエスチョンマークが浮かんでいるのが、芳樹には見えた。

「働く、ということだ! アルバイトだよ!」

 芳樹は、深呼吸すると、それぞれの神の特性に合わせた(と、彼が信じる)アルバイトの計画を、熱弁し始めた。

「まず、クトゥルフ! お前は見ての通り力が有り余ってるだろ? その巨体と怪力を活かして、建設現場で資材を運ぶ仕事だ! これならお前にもできるはずだ!」

《……シザイ?》

「次に、ハスター! お前はその無駄なカリスマ性とよく通る声を持っている! 駅前でティッシュを配る仕事なんてどうだ!? お前にかかれば、一日で街中のティッシュを配り終えることも可能だろう!」

「……王にティッシュを配れだと……? 貴様、不敬罪で処刑されたいか」

「そして、ツァトゥグァ!」

 芳樹は炬燵の中の毛玉に向かって力強く指をさした。

「お前は、とにかく寝てるだけでいい! 新開発の寝具の性能をテストする睡眠モニターの仕事だ! これ以上ないほどの天職だろうが!」

 ツァトゥグァはその提案に少しだけ、本当に少しだけ、興味を示したようだった。

「…………報酬は、出るのか」

「当たり前だ! 金が、貰えるんだよ!」

 こうして、半ば強引に半ば騙し討ちのような形で、三柱の旧支配者たちは生まれて初めて人間社会の「労働」という概念に、その身を投じることになったのだった。


 その日の午後、赤紫市の各地で三つの極めて異質で、極めて迷惑な労働の風景が繰り広げられていた。


 赤紫市郊外、新興住宅地の建設現場。

 埃と怒号が飛び交うその場所で、クトゥルフはひときわ異彩を放っていた。

 ヘルメットを無理やり頭に乗せ(サイズが全く合っていない)、その巨体には「安全第一」と書かれた緑のベストが、まるで子供用の腹巻きのように巻き付けられている。

「おーい! そこのデカい姉ちゃん! そこの鉄骨、二階まで頼む!」

 現場監督の指示に、クトゥルフはこくりと頷くと、数トンの重さがあるH形鋼を、まるで発泡スチロールでも持ち上げるかのように、軽々と片手で持ち上げた。

 屈強な現場作業員たちは、その光景に度肝を抜かれ、口をあんぐりと開けている。

「す、すげえ……」「あの姉ちゃん、人間か……?」

 だが、問題はその先にあった。

 クトゥルフは鉄骨を二階の足場へと運ぼうとする。しかし、彼女のぬめりを帯びたゴム状の皮膚は鉄骨との相性が最悪だった。

 つるり、と。

 彼女の手から滑り落ちた鉄骨は重力に従って轟音と共に地面へと落下し駐車してあったトラックの荷台をぐしゃりと圧し潰した。

 現場が、凍りつく。

 クトゥルフは自らが引き起こした惨状を、六つの瞳で不思議そうに見つめている。そして脳内に的確な状況分析と改善案をテレパシーで送信してきた。

《……対象物と、我が肉体との、摩擦係数が不足。……また、あの定命の者(現場監督)の指示は、非効率的である。……この惑星の磁場と重力バランスを考慮するならば、支柱の最適角度は、三・一四一五九度であるべきだ》

 その、冒涜的な囁きを脳内に受信した作業員たちは、「ひっ!」と短い悲鳴を上げると、次々とその場にへたり込んでしまった。

「な、なんだ、今の声……」「頭の中に、直接……」

 現場は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。


 JR赤紫駅前、ロータリー。

 夕方の喧騒の中ハスターは、まるで舞台の上の主役のように、一人だけ異次元のオーラを放っていた。

 彼はパチンコ店の広告が入ったポケットティッシュの束を手に、行き交う人々を王の如き視線で見下ろしている。

「さあ、受け取るが良い、儚き定命のモータルよ! このささやかなる奇跡の欠片を!」

 彼は女子高生の一団に、芝居がかった動作でティッシュを差し出す。女子高生たちはその神々しいまでの美貌に「え、ヤバい、モデルさん?」「ていうか、顔が良すぎる……」と、きゃあきゃあと騒いでいる。

 だが、彼女たちがティッシュを受け取らずに通り過ぎようとした、その瞬間。

 ハスターの纏う空気が、一変した。

「――無礼者ッ!!」

 彼の怒声と共に突風が巻き起こり、女子高生たちのスカートを無慈悲にめくりあげた。

 悲鳴を上げて逃げ去る女子高生たち。

 次に、ティッシュを受け取ってくれたサラリーマンには、こう言い放つ。

「フン、殊勝な心がけだ。王の恵み、ひれ伏して拝受するが良い!」

 サラリーマンは気味悪がって、足早に立ち去っていく。

 結果として、彼の周りからは人っ子一人いなくなった。

 誰もいなくなった駅前で、ハスターは残ったティッシュを天に掲げると高らかに演説を始めた。

「聞け、愚かなる民よ! この私こそが、真の王、ハスターである! パチンコではない、この私に、汝らの魂を捧げるのだ!」

 そのあまりにも意味不明であまりにも堂々とした演説は、やがて通報を受けて駆けつけた二人の警察官によって静かに幕を下ろされた。


 赤紫大学、医学部付属・睡眠科学研究所。

 そこは、静寂に包まれていた。

 真っ白で、無機質な実験室。その中央に置かれたハイテクベッドの上で、ツァトゥグァはただ眠っていた。

 彼の黒い毛むくじゃらの体には、無数の電極が取り付けられ、その完璧なまでの睡眠データが隣のモニタリングルームの画面に美しい波形となって表示されている。

「素晴らしい……なんという安定したノンレム睡眠だ……」「脳波も、完璧なデルタ波を描いている……彼はまさに眠りの天才だ!」

 白衣を着た研究員たちは、そのデータに、感嘆の声を上げていた。

 ツァトゥグァは、己の天職とも言える仕事に、完璧に応えていたのだ。

 だがその時、一人の研究員が、ふあ、と大きなあくびをした。

「……なんだか、急に眠くなってきたな……」

 それを皮切りに怠惰は伝染し始めた。

 別の研究員が机に突っ伏していびきをかき始める。また別の研究員は、キーボードを打っていたはずがいつの間にかその指で自分の頬をぷにぷにと押し始めていた。

「……もう、どうでもいいか……。研究なんて……。眠い……」

 ツァトゥグァが、その身から無意識のうちに放ち続ける、聖なる怠惰のオーラ。それは、この密閉された研究施設の中で恐るべき濃度にまで高まっていたのだ。

 やがて、モニタリングルームは、いびきの大合唱に包まれた。

 全ての研究員が、深い眠りに落ちてしまったのだ。

 けたたましく鳴り響く、異常事態を告げるアラームの音だけが、誰に聞かれることもなく、静かな研究施設に、虚しく響き続けていた。


 その日の夜。

 芳樹は、生まれて初めて土下座というものを経験した。

 彼は電話の向こうにいる建設現場の所長と、駅前交番の巡査部長と、睡眠科学研究所の所長に向かって畳に額をこすりつけ、必死に何度も何度も謝罪の言葉を繰り返していた。

 バイト代はもちろん一円も入らなかった。

 それどころか、トラックの修理代や機材の損害賠償で彼の預金残高はさらに壊滅的な打撃を受けることになった。


 全てが終わり、芳樹は炬燵の中で抜け殻のようになっていた。

 もう、だめだ。終わった。破産だ。明日からは家の雑草でも食べて生きていこう。

 そんな絶望に満ちた彼の目の前に、炬燵の中から黒い毛むくじゃらの手が、にゅっ、と伸びてきた。

 ツァトゥグァの手だった。

 彼は面倒くさそうにこう呟いた。

「…………ならば、これで、稼げ」

 ぽい、と。

 彼の手から芳樹の膝の上へと、一つの石が投げられた。

 それは、ただの石ではなかった。

 手のひらほどの大きさの、黒い結晶体。その表面は、夜空そのものを固めたかのように、深く、そして吸い込まれそうなほどに黒い。だが、その内部では、まるで、無数の銀河が渦巻いているかのように、青白い光が、ゆっくりと、そして確かに、明滅していた。

 翌日。

 芳樹は、市に一軒だけある、古びた質屋のカウンターで、腰を抜かしていた。

 店の主である、人の良さそうな老爺が、鑑定用のルーペを目から落とし、わなわなと震える指で、その黒い結晶を指さしている。

「こ、こ、こ、これは……! 地球上に、存在しない物質……! ダイヤモンドの、数百倍の硬度と、未知のエネルギーを内包している……! い、い、一千万円! いや、三千万円で、買い取らせてください!」

 芳樹はその日、人生で見たこともないほどの、分厚い札束を手に質屋を後にした。

 彼の頭の中は、完全に、真っ白だった。

 労働とは、なんだろう。お金の価値とは、なんだろう。

 彼の二十年間かけて培ってきた勤労意欲と、資本主義社会の常識はこの日、完全に崩壊した。


 数日後。赤紫大学のキャンパス。

 臨時収入で、少しだけ心に余裕ができた芳樹は、友人である相田千夏と、楽しげに談笑していた。

「へえ、菊池くん、最近バイト始めたんだ! えらいじゃん!」

「ま、まあね。いろいろと、物入りでさ……」

 そんな、ごく普通の、平和な大学生の日常。

 その光景を。

 少し離れた、イチョウの木の影から、じっと見つめる、二つの影があった。

 緑色の巨体を持つ神と、金髪の王。

 クトゥルフと、ハスター。

 彼らの瞳(あるいは、その周囲のオーラ)には、メラメラと黒く、そして燃え盛る、純度百パーセントの、嫉妬の炎が宿っていた。


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