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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第六話 怠惰なる神は炬燵にいます


 菊池芳樹は、ゆっくりと、そして、恐る恐る、炬燵布団を、めくりあげた。

 そこには、闇があった。

 いや、闇ではない。それは、光を吸収する、絶対的な黒。まるで、宇宙の裂け目が、この六畳間にぽっかりと口を開けているかのようだ。その黒は、黒い毛皮のようなもので覆われていた。一本一本の毛が、まるで星々の死骸から生まれた塵芥のように、光を拒絶している。

 その黒い毛むくじゃらの塊の中心で、二つの、眠たげな、半開きの瞳が、ぼんやりと、こちらを見上げていた。瞳の色は、昏い琥珀色。その奥には、人類の誕生どころか、この地球に生命が芽生えるよりも遥か以前から続く、計り知れないほどの永い眠りの歴史が、澱のように沈殿していた。

 その姿は、ヒキガエルのようでもあり、ナマケモノのようでもあり、あるいは、ただひたすらに怠惰という概念そのものが、形を成したかのようでもあった。

 芳樹は、声も出せずに固まっていた。恐怖という感情すら、もはや麻痺している。彼の脳は、キャパシティを超えた情報量を前に、ただ、目の前の光景を受け入れることしかできない。ああ、また増えた。また、変なのが増えた、と。

 その静寂を破ったのは、リビングにいたハスターだった。彼は、この新たなる闖入者の気配を察知し、王者の風格を漂わせながら、ずかずかと部屋に入ってきた。

「何やつだ、その薄汚い毛玉は! 我が伴侶の住処に、許可なく上がり込むとは、不敬にもほどがあるぞ!」

 ハスターの尊大な声が、部屋に響き渡る。

 その声に、黒い毛玉――炬燵の中の神は、心底面倒くさそうに、億劫そうに、その半開きの瞳を、ゆっくりとハスターへと向けた。

 そして、まるで地殻が軋むかのような、深く、そしてひどく眠たげな声で、呟いた。


「…………うるさい」


 たった、それだけの言葉だった。

 だが、その一言が発せられた瞬間、ハスターがその身に纏っていた、王者の威厳と、荒れ狂う風のオーラが、まるでロウソクの火が吹き消されるかのように、ふっ、と消え失せた。

 ハスターの顔から、血の気が引いていく。彼の神としての本能が、理解していた。目の前にいるこの存在は、自分やクトゥルフとは、格が、そして、存在している時間の桁が、全く違うのだと。

 そこへ、クトゥルフも、ぬるり、と姿を現した。彼女もまた、炬燵の中の存在を、その六つの瞳で見つめ、明確な警戒と、そして、ある種の敬意のようなものを滲ませていた。迂闊に手出しのできる相手ではない。二柱の神は、本能的にそれを悟っていた。

 炬燵の中の神は、そんな神々の反応など、全く意に介していないようだった。彼は、再び芳樹に視線を戻すと、自己紹介とも呼べない、最低限の情報を、途切れ途切れに告げた。

「……我は、ツァトゥグァ……」

「……この、暖かなる祭壇こたつ……気に入った……」

「……故に、ここに住む……」

 一方的な、同居宣言だった。

 そして、彼は「……話は、終わりだ」とでも言うように、ゆっくりと瞼を閉じ、再びその意識を、永劫の眠りの海へと沈めていった。

 芳樹は、もはや、ツッコミを入れる気力すら、残っていなかった。彼の精神は、完全に、許容量を超えていた。

 邪神、ネズミ算式に増えすぎ問題。

 彼は、ただ、その場に、へなへなと座り込むことしかできなかった。


 怠惰の神、ツァトゥグァとの生活が始まって、数日が経った。

 生活が始まった、と言っても、彼は、文字通り、何もしなかった。ただひたすらに、炬燵の中で、巨大な黒猫のように丸まって眠っているか、時折、芳樹に「……腹が減った。ポテチを持ってこい」と、テレパシーで命令してくるだけだ。

 だが、彼の存在は、静かに、しかし確実に、この家の法則を、歪め始めていた。

 彼の周囲には、常に、目には見えない、特殊なオーラが漂っていた。芳樹は、それを「聖なる怠惰のオーラ」と名付けた。

 そのオーラは、人間の、あるいは神の、あらゆる意欲と目的意識を、根本から奪い去る、恐るべき力を持っていた。

 例えば、芳樹。

 彼は、大学から帰ると、まず宿題を片付け、それからバイクの整備をするのが日課だった。だが、最近は、家に帰ると、まず、炬燵に吸い込まれる。

(……ああ、あったかい……。レポートなんて、どうでもいいか……。締め切りは、まだ先だし……。ていうか、そもそも、なんで勉強なんてしなきゃいけないんだ……? 宇宙の真理の前では、人間の知識なんて、塵芥に等しいのでは……?)

 思考が、どんどん、どうでもいい方向へと流されていく。気づけば、彼は、ツァトゥグァの隣で、よだれを垂らしながら、ぐうぐうと眠りこけているのだった。

 例えば、ハスター。

 彼は、常に王としての威厳を保つため、家の中でも、シェイクスピアの戯曲のようなポーズを決め、己の美しさを確かめることを欠かさなかった。だが、最近は、そのポーズが、どこか締まりない。

「おお、我が伴侶よ! この私の、輝かしき姿を……見るがいい……そして……そして……なんだっけ……ああ、もう、どうでもいいな……」

 彼は、尊大なモノローグの途中で飽きてしまい、ソファの上で、だらりと大の字になって、天井の木目を数えていることが多くなった。

 例えば、クトゥルフ。

 彼女は、この家の誰よりも、芳樹のことを熱心に観察していた。だが、最近は、その六つの瞳が、どこか、とろんとしている。テレビドラマを見ている最中に、その動きがぴたりと止まり、触腕をだらりとさせたまま、何時間も固まっていることすらあった。

 家全体が、まるで重力が二倍にでもなったかのように、重く、気だるい空気に支配されていた。時が、ゆっくりと、そして無意味に流れていく。

 その中心で、ツァトゥグァは、ただ静かに、そして幸せそうに、寝息を立てているだけだった。

 それは、一種の、コズミック・ホラーだった。怪物に襲われる恐怖でも、狂気に陥る恐怖でもない。ただひたすらに、生きる目的と、その意志を、根こそぎ奪い去られていくという、静かなる恐怖。


 その日、芳樹は、自らの首に、現実という名の刃が突きつけられていることに、ようやく気づいた。

 大学の、構造力学のレポート。提出期限は、明日の午前中。

 彼は、その存在を、完全に、忘れていた。怠惰のオーラによって、脳の奥底へと追いやられていたのだ。

「やばい、やばい、やばい!」

 芳樹は、血の気が引くのを感じながら、炬燵から這い出した。だが、彼の体は、まるで鉛のように重い。眠い。面倒くさい。レポートなんて、どうでもいい。そんな、悪魔の囁きが、脳内に響き渡る。

「うおおおおおっ!」

 彼は、己の頬を、思い切り平手打ちした。その痛みで、なんとか、怠惰のオーラを一時的に振り払う。彼は、机に向かい、教科書とノート、そしてパソコンを広げた。

 だが、そこからが、本当の地獄だった。

 一つの数式を解くのに、尋常ではない精神力を消耗する。一行、文章を書くだけで、背後にある炬燵から、抗いがたいほどの引力が、彼を引っ張る。

 その様子を、炬燵の中から、ツァトゥグァが、片目だけを薄く開けて、じっと見ていた。

 やがて、彼は、心底不思議そうに、そして、面倒くさそうに、呟いた。

「……人間は、なぜ、そうまでして、働くのだ……?」

「単位のためだよ! 卒業のためだ! ほっといてくれ!」

 芳樹が、半ば叫ぶように返す。

 ツァトゥグァは、その答えに満足しなかったのか、さらに、独り言のように、ぽつり、ぽつりと、古代の叡智を漏らし始めた。

「……万物の根源は、より安定した状態へ移行することを望む……つまり、何もしないのが、最も宇宙の理に適っておる……」

「……時間の流れすら、絶対ではない。観測者の意識が、事象の地平面を定義するのだからな……。始まりと終わりを、同時に観測することも、可能……」

「……その数式は、不完全だ。……三次元空間の、矮小な法則に過ぎん。……虚数空間における、多次元的な歪みを、考慮に入れておらぬ……」

 それは、芳樹のレポートのヒントなどという、生易しいものではなかった。

 彼の学んできた物理学の常識を、根底から覆す、冒涜的なる宇宙の真理の断片。

 芳樹は、最初はそれを無視しようとしていた。だが、彼の、工学部学生としての知的好奇心が、その冒涜的な囁きに、抗うことができなかった。

 彼は、取り憑かれたように、ツァトゥグァの言葉を、レポート用紙に書きつけていった。

 彼の脳は、極限の疲労と、怠惰のオーラと、そして、宇宙の真理によって、奇妙な覚醒状態にあった。

 夜が明け、朝日が障子を白く染め上げる頃。

 菊池芳樹は、人類の科学史を、五百年は先に進めてしまうほどの、驚異的なレポートを、たった一夜で、完成させていた。


 その日の午後。

 芳樹は、大学の教授室で、レポートを提出した担当教授に、肩を掴まれ、激しく揺さぶられていた。

「菊池くん! 君は、アインシュタインの再来か!? いや、彼をも超える天才なのか!? この、時空連続体におけるエネルギー総量の再定義は、一体どこから……!?」

 老教授は、鼻息も荒く、興奮している。

 芳樹は、三徹した後のような、極限の疲労感の中で、ただ、力なく笑うことしかできなかった。


 ぐったりと、家に帰宅した芳樹。

 彼は、あの怠惰の神に、礼を言うべきなのか、それとも、文句を言うべきなのか、本気で悩んでいた。

 炬燵を覗き込むと、ツァトゥグァは、相変わらず、黒い毛玉になって、丸くなっている。芳樹の帰宅に気づくと、片目だけを開け、こう呟いた。

「…………腹が、減った」

「…………ポテトチップスを、持ってこい。……コンソメ味のやつだ……」

 芳樹は、深いため息をつくと、言われた通り、台所へと向かった。

 この怠惰なる神は、果たして、自分の味方なのか、敵なのか。役に立つのか、立たないのか。

 芳樹には、全く、分からなかった。


 その夜、芳樹は、自らの前に突きつけられた、新たなる、そして、極めて現実的な恐怖に、気づくことになる。

 彼は、机の上で、一冊の家計簿を開いていた。

 収入、バイト代、月八万円。

 支出。家賃、一万円。光熱費……炬燵が二十四時間稼働しているせいで、先月の三倍。

 そして、食費。

 一人間の、質素な食費。

 プラス、一体の、燃費の悪そうな海底の神。

 プラス、一体の、美食家気取りの黄衣の王。

 プラス、一体の、ポテチを主食とする怠惰の神。

 芳樹は、そろばんを弾くように、指を折って計算し、そして、その合計金額を叩き出した瞬間。

 彼の顔から、すっと、血の気が引いていった。

「…………赤字だ」

 それも、ただの赤字ではない。このままでは、来月の家賃すら、払えない。

 彼は、気づいた。

 宇宙的恐怖よりも、世界の終わりよりも、もっと恐ろしく、もっと切実な、破滅の足音が、すぐそこまで迫っていることに。

 その破滅の名は。

 ―――破産。

 芳樹は、静かに、家計簿を閉じた。


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