第四十九話(最終話) ああっくとぅるふ様っ!
あの世界が終わりかけた狂乱の聖夜から、数年の歳月が流れた。
赤紫市は今も、時折「観測史上最大規模の太陽フレアが引き起こした謎の複合災害」の爪痕を街のあちこちに残しながらも、すっかり元の穏やかな地方都市としての日常を取り戻していた。
そして、菊池芳樹の日常もまた、大きくその形を変えていた。
彼は無事に赤紫大学を卒業した。
そして今は、あの古民家の隣に建てたプレハブ小屋のような小さな、しかし最新鋭の(宇宙的な意味で)機械が所狭しと並べられた工房の主として働いていた。
その工房の錆びついたシャッターには、彼が手書きで書いた一枚の看板が掲げられている。
『――キクチ・コズミック・エンジニアリング――』
芳樹とミ=ゴが共同で立ち上げた小さな町工場。
そこで作られているのは、この赤紫市の農業と工業を根底から支える、少しだけ未来のテクノロジーが応用された機械部品だった。
その日も、芳樹は一台の古い耕運機の修理に没頭していた。
「よっし、と。……おっちゃーん!できたぞー!」
芳樹が声をかけると、工房の外で待っていた近所の農家の老人が、嬉しそうに顔を覗かせた。
「おお、芳樹の兄ちゃん!いつもすまんなあ!」
「いいってことよ。……ほら、エンジンかけてみな」
老人が恐る恐るキーを捻ると。
ぶるるん、という懐かしいエンジン音と共に、耕運機は目を覚ました。
だが、その音は以前とは明らかに違っていた。
驚くほど静かで、滑らか。そして、その排気ガスはなぜかミントのような爽やかな香りがした。
「おお……!なんちゅうこっちゃ……!新車よりも調子がええわい!」
「だろ?キャブレターにミ=ゴ製のプラズマ噴射装置を組み込んでおいたからな。……燃費も前の十倍は良くなってるはずだぜ」
「ぷらずま……?まあよう分からんが、ありがたいこっちゃ!」
老人は、そのあまりにもオーバースペックな耕運機に跨ると、嬉しそうに去っていった。
芳樹は、その背中を見送りながら、自らのこの奇妙な天職に苦笑する。
神々のおかげでメチャクチャになった人生。
だが、その神々のおかげで手に入れたこの力。
彼はそれを誰かを傷つけるためではなく、誰かの日常を少しだけ豊かにするために使っていた。
それは、彼が見つけ出した一つの答えだった。
その日の午後。
芳樹の工房兼自宅に、一台の小さな軽自動車がやってきた。
運転席から降りてきたのは、スーツ姿の凛々しい若い女性。
相田千夏だった。
彼女は大学を卒業し、地元の市役所に就職していた。
「やっほー、芳樹くん!ちゃんと仕事してるー?」
「おう、千夏か。……見ての通りだよ」
二人の会話は、まるで長年連れ添った幼馴染のように、自然でそして穏やかだった。
彼女は今や、この菊池家の混沌を完全に受け入れた唯一の常識人であり、最強の友人だった。
彼女は慣れた様子で家の中へと上がっていく。
「こんにちはー!クトゥルフさん、ハスターさん!」
「《……ああ。……来たか、ちなつ》」
「フン、騒々しい人間の女めが」
リビングでは相変わらず、クトゥルフとハスターがいつもの定位置で寛いでいた。
千夏は、その光景を見ると呆れたように笑った。
「もう、二人とも相変わらずなんだから。……あ、これ差し入れ!駅前の新しいケーキ屋さんのシュークリーム!」
彼女が差し出した箱を、クトゥルフの触腕が目にもとまらぬ速さでひったくっていく。
家の中は、数年前よりもさらに混沌と快適さを極めていた。
リビングの中央には、ツァトゥグァ専用の最新鋭の炬燵が鎮座している。
それは、ミ=ゴの科学力と芳樹の技術力の粋を集めた究極の怠惰発生装置。
内部には、全自動のマッサージ機能と、彼が好むポテチやコーラを自動で補充するストッカーまで完備されている。
その完璧な祭壇の中で、ツァトゥグァは今日も幸せそうに眠っていた。
そして、その炬燵の周りを、まるで甲斐甲斐しいメイドのように動き回っているのは、黒く不定形の塊、ショゴスだった。
彼は、自らの体をちりとりやハタキの形へと自在に変えながら、家の中を完璧に清潔に保っている。
時折、「テケリ・リ……」というどこか楽しげな鳴き声を響かせながら。
そこへ、もう一人来客がやってきた。
門倉健だった。
彼は大学を卒業後、自ら立ち上げた月刊のオカルト雑誌「ヌー(本家とは無関係)」がカルト的な人気を博し、今や若きオカルト研究の第一人者としてその名を馳せていた。
「菊池師匠!こんにちは!」
「だから、師匠じゃねえって……」
門倉は芳樹への挨拶もそこそこに、一目散にツァトゥグァの炬燵へと向かった。
「ツァトゥグァ様!大いなる賢者よ!どうか、今一度、我にヒュペルボレアの叡智の一端をお授けください!……例えば、かの地に存在したという、無形の落とし子たちの繁殖形態について、ですが……」
それに対するツァトゥグァの答えはいつも同じだった。
「………………うるさい」
だが、門倉は、その一言の奥に隠された深遠なる真理を読み取ろうと、必死にその言葉をメモに書き留めている。
芳樹は、そのあまりにも賑やかで、あまりにも狂ったリビングの光景を見渡した。
そこには、人間がいて、神がいて、異星人がいて、そして不定形の怪物がいる。
だが、そこには確かに、「家族」の温もりがあった。
その日の夕食は、庭でバーベキューをすることになった。
芳樹が炭火で肉を焼き、千夏が野菜を切る。
ハスターは、その風の力でうちわも使わずに完璧な火力を調整し、クトゥルフはどこからか深海の海底から獲ってきたのであろう、芳樹の見たこともない、しかしとてつもなく美味な巨大なエビを差し出してくる。
夕日が彼らの楽しげなシルエットをオレンジ色に染め上げていた。
その穏やかな食事の最中。
ハスターがいつもの口癖のように芳樹に語りかけた。
「我が伴侶よ。……貴様も、もう若くはない。……そろそろ本気で我と共にハリ湖のほとりにある我が王宮で暮らすことを考えてもよい頃では、ないか?」
その言葉に即座に反応したのは、クトゥルフだった。
彼女は、芳樹の腕に自らの緑色の触腕をこれ見よがしに絡ませると、ハスターを睨みつけた。
《却下する。……よしきは、私とこの家で暮らすのだ。……汝のあの陰気で風の強い宮殿など誰が行くものか》
「な、なんだと、この海底のイカ頭が!貴様のあのジメジメしたルルイエよりは千倍はマシであろうが!」
《……少なくとも、汝のやかましい演説を聞かなくて済む》
「ぬうう……!」
二柱の神は、芳樹を巡っていつものように子供じみた火花を散らし始めた。
そのあまりにも変わらない光景。
千夏は、「もう、またやってる……」と呆れたように笑い。
そして芳樹は。
彼は、そのどうしようもなく愛おしい混沌を見つめながら、心の底から幸せそうに呟いた。
「……お前ら、本当に全然変わらないな……」
その瞬間だった。
芳樹が焼いていた一番美味しそうなカルビの一枚。
それが、彼のトングの先から滑り落ち、重力に引かれて地面へと落下していく。
「あ、俺の肉……!」
芳樹がそう叫んだ時には、もう遅かった。
はず、だった。
だが。
その肉が地面に落ちるそのコンマ一秒前。
一本の緑色の触腕がまるで閃光のように伸び、その肉を完璧に空中でキャッチしたのだ。
クトゥルフだった。
そして、彼女は次の瞬間、芳樹の魂を完全に打ち抜く行動に出た。
彼女は、その触腕の先でキャッチした熱々の肉を。
まるで母親が子供にするように。
「ふー、ふー」と、その冷たい息で優しく冷ましてから。
芳樹の口元へとそっと差し出したのだ。
「あーん」とでも言うかのように。
そのあまりにも自然で。
そのあまりにも献身的で。
そのあまりにも神様らしからぬ、あまりにも人間的で。
そして、そのあまりにも可愛らしい仕草。
芳樹の心は、出会ったあの日の恐怖とは全く違う意味で。
完全にその限界を突破した。
彼の胸の内を、これまでの全ての思い出が駆け巡る。
恐怖も、絶望も、混沌も、迷惑も、そしてこのどうしようもなく温かい愛情も。
その全ての感情が、一つの言葉となって、彼の喉から迸った。
芳樹は、夕焼けに染まる空を仰ぎ、ありったけの愛と感謝と、そして少しだけの呆れた気持ちを込めて。
叫んだ。
「―――ああっクトゥルフ様っ!―――」
その幸せな叫び声は、赤紫市の穏やかな空にいつまでもいつまでも響き渡っていた。
【完】
芳樹くんは邪神が可愛く見えていたり、愛情とか持っちゃったりしていますが、最初からSAN値吹っ飛んで不定の狂気入ってますからね…
当人達が幸せならハッピーエンドですよね?




