第五話 黄衣の王は演劇がお好き
古民家の屋根の上、月光を背負いし黄衣の王と、庭先に立ち、深淵の憎悪を滾らせる海底の支配者。
二柱の旧支配者の間で、常人には観測不能な、宇宙的規模の敵意が激しく火花を散らしていた。ハスターが纏う風は、憎悪にざわめき、クトゥルフの周囲の空間は、嫉妬に重く歪む。大気が、悲鳴を上げていた。このままでは、この家どころか、この山一帯が、神々の気まぐれな癇癪によって、地図の上から消滅してしまうだろう。
その、世界の終わりまであと数秒という極限の状況下で。
菊池芳樹は、動いた。
恐怖に凍り付いた体を無理やり動かし、二柱の神々の間に、そのちっぽけな、か弱い人間の体で割って入ったのだ。
「うおおおおおお、やめろおおおおおおっ!」
彼の叫びは、裏返り、情けなく震えていた。
「やめてくれ! 家が! 俺の家が壊れる! 家賃一万なんだぞ、この家は! ローンはないけど、精神的なローンがもう限界なんだよぉぉぉ!」
それは、世界の危機を憂う英雄の言葉では断じてなかった。ただひたすらに、己の住処の安寧を求める、哀れな一人の大学生の、魂からの絶叫だった。
その、あまりにも人間的で、あまりにも矮小な叫びは、しかし、神々の動きを確かに止めた。
クトゥルフは、芳樹の悲痛な声に、六つの瞳をわずかに瞬かせ、その膨大な敵意を、すっと内側へと収めた。
そして、屋根の上のハスターは――その仮面のような無表情の下で、その唇の端を、ほんのわずかに、吊り上げた。まるで、予想外に面白い玩具を見つけた子供のように。
「フッ……」
彼の口から、嘲笑とも感嘆ともつかない、吐息が漏れる。
「我が伴侶が、そう言うのであれば仕方あるまい。この私とて、愛しい者の住処を無粋に破壊する趣味はないのでな」
ハスターは、その場にふわりと浮き上がると、まるで風に舞う一枚の葉のように、重力を無視して、音もなく庭先へと舞い降りた。そして、汚れた土など存在しないかのように、土足のまま、当たり前のように上がり框に腰を下ろした。
「さて。では、ゆるりと話をしようではないか、我が伴侶よ。そして……そこにいる海底の痴れ者も交えてな」
かくして、菊池家のリビング(八畳、囲炉裏付き)では、人類史上、最も冒涜的で、最も厄介な三者面談が開始された。
芳樹は、囲炉裏のそばで正座させられ、その両脇を、緑色の巨大な邪神と、金髪の美青年(の姿をした邪神)に固められている。もはや、彼のSAN値は計測不能の領域に突入していた。
「それで……ハスター、様? でしたっけ。一体、何の御用で……?」
芳樹が、震える声で尋ねる。ハスターは、まるで己の玉座にでもいるかのように、優雅に足を組むと、芝居がかった口調で語り始めた。
「フン、我が耳にも届いたのでな。宇宙的ゴシップサイト……まあ、貴様ら人間には理解できぬ情報網だが、そこで、まことしやかな噂が流れていたのだ。『かの大いなるクトゥルフが、海底の微睡みから目覚め、地球の、それも日本の、一人の定命の者の男に傅いている』、と」
彼は、ちらりと、不快そうに黙りこくっているクトゥルフを一瞥する。
「片腹痛い。この私こそが、旧支配者の王たるにふさわしい存在。あの海底で惰眠を貪るだけの痴れ者などに、遅れをとるはずがない。故に、確かめに来てやったのだ。旧支配者を手玉に取ると噂の人間が、果たして、この私を満足させられる器かどうかをな!」
「いや、手玉になんて一切取ってません! あれは事故です! 不可抗力です!」
芳樹は必死に弁明するが、ハスターは聞く耳を持たない。彼は、このボロ屋を、値踏みするようにぐるりと見渡すと、高らかに宣言した。
「ふむ。住まいは、王の宮殿としては貧相極まりないが……まあ、許容範囲だ。よかろう。この私も、今日からここに住むことにしよう」
「えええええええええええええええええっ!?」
芳樹の絶叫が、古民家に木霊した。
その隣で、クトゥルフの体から、ぬめりの量と、深海の匂いが、明らかに増している。彼女は、無言で、しかし全力で、不快感を表明していた。
こうして、菊池芳樹の日常は、ライバル関係にある二柱の邪神に挟まれるという、新たな地獄のステージへと移行した。
そして、ハスター流の、芳樹へのアプローチ(という名の迷惑行為)が、早速開始された。
それは、あらゆる面で、クトゥルフへの対抗心に満ち満ちていた。
最初の戦場は、台所だった。
クトゥルフは、芳樹のために、初めて「料理」に挑戦していた。彼女は、冷蔵庫にあった魚と、庭に生えていた雑草と、なぜか芳樹の机の上にあったレポート用紙を、巨大な寸胴鍋に放り込み、自らの体液(らしき粘液)を加えて煮込み始めた。鍋の中では、紫色の泡がぶくぶくと立ち上り、時折、中から小さな触手のようなものが顔を出す。それは、もはや料理ではなく、混沌の錬金術だった。
そこへ、ハスターが現れる。
「フン、下等生物の餌か。我が伴侶に、そのような汚らわしいものを食わせるわけにはいかんな」
彼は指を鳴らす。すると、何もない空間から、トリュフ、フォアグラ、最高級の和牛といった、芳樹がテレビでしか見たことのない高級食材が次々と出現した。
「王の料理を見せてやろう!」
ハスターは、風を操り、目にもとまらぬ速さで野菜を切り刻み、肉に絶妙な火を通していく。その手際は、まさに神業。だが、彼は、その工程のいちいちで、無駄に格好をつけた。
「おお、我が愛しきトマトよ! 汝のその赤き情熱を、我が一皿に加えようぞ!」
「見よ、この完璧な焼き加減! これぞ、星々が嫉妬するほどの美しさ!」
結果として、彼が作るフルコースディナーは、完成までに、三時間以上を要した。その頃には、芳樹は空腹で倒れかけており、クトゥルフの作った物体Xを、いっそ食べた方がマシだったのではないかとさえ思い始めていた。
次の戦場は、リビングだった。
クトゥルフは、テレビで放送されている、昼の連続ドラマを、無表情でじっと見つめていた。人間の男女が繰り広げる、ありきたりな痴話喧嘩。彼女は、その非論理的な感情のぶつかり合いを、未知の生物の生態観察でもするかのように、六つの瞳で熱心に分析しているようだった。
その光景を見たハスターは、これ見よがしに溜息をつく。
「低俗だ。実に低俗な娯楽だな。我が伴侶よ、あのようなものではなく、真の芸術に触れるが良い」
そう言うと、彼は、どこからか、人間の皮膚のような装丁の、不気味な古書を取り出した。
「これは、かの狂える詩人、アブドゥル・アルハザードが記した戯曲、『ネクロノミコン』の断章だ。特別に、この私が朗読してやろう」
ハスターは、朗々と、その本を読み上げ始めた。
彼の口から発せられるのは、もはや人間の言語ではなかった。それは、聞く者の脳を直接削り取るような、冒涜的な音の連なりだった。芳樹は、その意味を全く理解できなかったが、ただ、聞いているだけで、頭痛とめまい、そして言い知れぬ宇宙的恐怖に襲われ、自らの正気度が、リアルタイムでゴリゴリと削られていくのを感じていた。
芳樹がSAN値の低下でぐったりしていると、ハスターは満足げに本を閉じた。
「どうだ? 魂が、震えたであろう?」
震えたのは、魂ではなく、恐怖に慄く芳樹の体そのものだった。
そして、最も熾烈な戦いは、芳樹の隣の席を巡って、常に水面下で繰り広げられた。
芳樹が、囲炉裏のそばに座る。
すると、彼の右側から、クトゥルフの緑色の触腕が、ぬるり、と伸びてきて、彼の背中に回り込み、その場所を確保する。
次の瞬間、彼の左側から、ハスターが巻き起こした微風が吹き、その触腕を、やんわりと、しかし確実に押し戻そうとする。
触腕が、風に抵抗する。風が、触腕をいなそうとする。
芳樹は、その間で、ただただ、漫画を読みながら、身じろぎもできずに固まっていた。彼の背後では、宇宙的規模の、極めて静かで、極めて迷惑な、陣取り合戦が、常に繰り広げられていたのだ。
翌日。
芳樹の地獄は、キャンパスにまで持ち越された。
「王たるもの、人間社会を学ぶのも務めの一つだからな」
そんなことを言いながら、ハスターは、当たり前のように大学までついてきたのだ。
彼の、金髪碧眼の貴公子然とした容姿と、生まれながらのカリスマ性は、瞬く間に、学内の女子学生たちの注目の的となった。彼が廊下を歩くだけで、黄色い歓声が上がる。
ハスターは、ふらりと立ち寄った演劇サークルの見学で、その場の主役を食うほどの圧倒的な演技力を見せつけ、その日のうちに入部、そして、なぜか次期部長に推挙されるという、異常事態を引き起こしていた。
結果として、講義室での光景は、混沌を極めていた。
芳樹の右隣には、認識阻害によって「緑色の肌をした、やたらと体格のいい留学生」として認識されているクトゥルフが、相変わらずの無表情で座っている。
そして、彼の左隣には、女子学生たちの熱い視線を一身に浴びながら、優雅にノートをとる(ふりをしている)、金髪の貴公子、ハスター。
芳樹は、その間で、ただひたすらに、小さくなっていた。生きた心地が、全くしなかった。
(もうだめだ……俺のSAN値は、もうゼロよ……)
芳樹は、心の中で、か細い悲鳴を上げた。
(家に帰りたい……あの、一人ぼっちだったけど、平和だった、俺の家に……)
その日の講義が全て終わり、芳樹は、精神的に完全に燃え尽きた状態で、這うようにして我が家へと帰還した。
クトゥルフとハスターは、リビングで、相変わらず火花を散らしている。
芳樹は、もう、その光景にツッコミを入れる気力すら残っていなかった。
彼は、ただ、安らぎを求めて、部屋の隅に置かれた、実家から持ってきた年代物の炬燵へと、吸い寄せられるように向かった。
ああ、炬燵。日本の冬の、最高のオアシス。
この温もりだけが、今の俺を癒やしてくれる……。
芳樹は、その至福の温かさに身を委ねようと、足を、中へと滑り込ませた。
その時、彼の足先に、何か、ふわりとした、そして、もふもふとした、温かい感触が触れた。
……ん?
なんだ、これ。毛布でも、入ってたか?
芳樹が、不思議に思いながら、さらに足を進めた、その瞬間。
炬燵の中から、声が、聞こえた。
それは、まるで、数億年の眠りから、今、無理やり起こされたかのような、ひどく気だるげで、ひどく眠たそうで、そして、ひどく古風な、低い声だった。
「…………誰だ、貴様は……」
「…………我が、安眠を妨げる、無粋なやつは……」
芳樹は、ゆっくりと、そして、恐る恐る、炬燵布団を、めくりあげた。
そこには。
暗闇の中で、二つの、眠たげな、半開きの瞳が、ぼんやりと、こちらを見上げていた。
その瞳の主は、ヒキガエルのようでもあり、ナマケモノのようでもあり、あるいは、ただの黒い毛むくじゃらの塊のようでもあった。
三人目(三柱目)の、邪神。
彼が、いつからそこにいたのか。
それを知る者は、誰もいなかった。




