第四十八話 恋と混沌の最終回答(ファイナル・アンサー)
いい夜だった。
完全に修復され、以前よりもさらに奇妙で、そして住み心地の良くなった我が家。その新しい檜の香りがする縁側で、菊池芳樹は一人、夜空を見上げていた。
冬の澄み渡った夜空。
そこには、無数の星々がまるでダイヤモンドの粉を撒き散らしたかのように、キラキラと輝いている。
綺麗だ、と思った。
だが、今の彼には、もうあの星々がただの美しい天体だとは思えなかった。
彼は知ってしまったのだ。
あの光の一つ一つの向こう側に、どれほどの混沌と狂気が眠っているのかを。
そして、そんな狂った宇宙の中で、自分という矮小な存在が、二柱のあまりにも巨大すぎる存在の、その愛情(という名の、宇宙的スケールの執着)の中心にいるという事実を。
彼は考えなければならなかった。
自分自身の気持ちについて。
そして、クトゥルフとハスター、その二人に対する自分の答えについて。
戦いは終わった。
だが、この問題だけは、まだ何一つ解決してはいなかった。
彼の脳裏に蘇る。
ハスターのあの舞台の上での切実な問いかけ。
『――我が玉座の隣に、汝はいるか?――』
王としてのプライドの鎧を脱ぎ捨てた、その魂の叫び。
彼は芳樹を、ただの所有物としてではなく、唯一対等な魂を持つ伴侶として求めている。そのあまりにも不器用で、あまりにも尊大な愛情。
そして、クトゥルフ。
彼がインフルエンザで倒れたあの夜。
一晩中、その冷たい触腕で自分の手を握りしめ、その六つの瞳でただ静かに自分を見守り続けてくれた、彼女の姿。
彼が彼女の夢の中で見た、あの数億年に及ぶ永劫の孤独。
そして、自分がその孤独を終わらせる存在なのだと知ってしまった時の重み。
彼女のそれは、もはやただの執着ではない。
それは初めて得た温もりを、決して手放したくないと願う、純粋で、そして少しだけ臆病な魂の渇望。
どちらかを選ぶ?
そんなこと、できるはずがなかった。
ハスターを選べば、クトゥルフは再びあの永劫の孤独へと沈んでいくのかもしれない。
クトゥルフを選べば、ハスターのそのあまりにも脆い王としてのプライドは粉々に砕け散ってしまうだろう。
どちらかを選ぶことは、どちらかを深く傷つけ、そしてこの奇妙で歪で、しかしかけがえのない今の日常を完全に破壊してしまうことを意味していた。
だが、このまま曖昧な関係を続けることも、もはや彼にはできなかった。
神々のそのあまりにも巨大で、あまりにも純粋な感情に、矮小な人間の自分が応えるには、あまりにも覚悟が足りていなかった。
芳樹は決意した。
逃げるのはもう終わりだ。
自分の言葉で、自分の答えを彼らに伝えなければならない。
たとえそれがどんな結末を招くことになったとしても。
彼は縁側から立ち上がると、リビングへと向かった。
そして、いつものようにテレビのチャンネル権を巡って低レベルな争いを繰り広げている二柱の神々に向かって、その震える声を振り絞った。
「―――二人とも、ちょっと、いいか」
「―――大事な話があるんだ―――」
リビングの空気は張り詰めていた。
芳樹は新しくなった畳の上に正座していた。
その目の前。
クトゥルフとハスターもまた、彼のそのただならぬ雰囲気を察してか、珍しく静かに彼と向き合うように座っている。
クトゥルフは、その巨大な緑の体躯を窮屈そうに、しかしどこか神妙な面持ちで折りたたんでいる。
ハスターは、ソファから降り、芳樹と同じ畳の上に、王者の風格を保ったまま胡座をかいていた。
それは、まるで一人の男が二人の許嫁に最後の答えを告げる修羅場のようでもあり。
あるいは、矮小な人間が二柱の神々にその覚悟を問われる審判の場のようでもあった。
芳樹は何度も深呼吸を繰り返し、そして意を決して口を開いた。
彼はまず、ハスターの黄金の瞳をまっすぐに見つめた。
「……ハスター」
「お前は正直ムカつくやつだ。……いつも偉そうで、尊大で、人の話を聞かない。……俺のこと、伴侶だの、所有物だの、言いたい放題言いrやがって」
ハスターの眉がぴくりと動く。
「だがな」と、芳樹は続けた。
「俺が本当に危ない時。……いつも一番に駆けつけてくれたのは、お前だった」
「夏祭りのあの夜も。……この家が襲われたあの時も。……お前は、そのクソ高いプライドを投げ打ってでも、俺の前に立って守ってくれた」
「……大学祭のあの舞台。……俺にはお前の言葉の意味は分からなかった。……けど、お前がどれだけの孤独を抱えて王様をやってるのかは、痛いほど伝わってきたよ」
「お前のその尊大さは、お前が弱い自分を隠すための鎧なんだって、俺は知ってる。……だから……」
「……ありがとうな、ハスター。……いつも助けてくれて」
芳樹は深く頭を下げた。
ハスターは何も言わなかった。
ただ、その美しい顔を驚きと困惑と、そしてこれまで感じたことのない未知の感情に染め上げ、固まっていた。
次に、芳樹はクトゥルフの六つの深淵の瞳へと向き直った。
「……クトゥルフ」
「お前は俺の日常をメチャクチャにした張本人だ。……お前と出会ってから、俺の人生ロクなことがない」
「お前のせいで、家を追い出され、変な怪物に襲われ、何度も死にかけた。……お前の料理は生物兵器だし、お前の寝言はSAN値を削る」
彼女の緑色の巨体が心なしか、しゅんと小さくなったように見えた。
「けどな」
「……俺に、『独りじゃない』ってことを教えてくれたのは、お前だった」
「俺が風邪で倒れたあの夜。……一晩中、黙って手を握っててくれたこと、俺は一生忘れない」
「お前の夢を見て、お前が背負ってきた孤独の重さを知った。……あの永い永い闇の中で、お前がどれだけ寂しかったか。……俺には少しだけ分かる気がするんだ」
「お前がそばにいてくれたから、俺はあの絶望的な戦いも乗り越えられたんだと思う」
「……だから……」
「……ありがとうな、クトゥルフ。……俺のそばにいてくれて」
芳樹は再び深く頭を下げた。
クトゥルフの六つの瞳がゆっくりと瞬きをした。
彼女の周囲の空間が、ほんのりと温かいオーラに包まれている。
それは、芳樹の脳内に直接流れ込んでくる彼女の純粋な喜びの感情だった。
芳樹は顔を上げた。
そして二柱の神を交互に見つめ、最後の言葉を紡ごうとした。
どちらか一人を選ぶなんて、できない。
お前たちは二人とも、俺にとってかけがえのない大切な存在なんだ、と。
だから、俺の答えは―――
「―――待て、人間よ」
その答えを口にする直前。
ハスターの静かな、しかし威厳に満ちた声が、それを遮った。
彼はいつの間にかいつもの王の表情へと戻っていた。
だが、その瞳の奥には、先ほどまでの動揺ではなく、何かを吹っ切れたかのような澄み切った光が宿っていた。
彼はゆっくりと立ち上がると、高らかに宣言した。
「……貴様の答えなど聞くまでもない。……それは自明の理であろう」
「我が伴侶にふさわしいのは、この私、黄衣の王、ハスターをおいて、他に断じてありえん!それは、この宇宙が始まった時からの絶対的な真理なのだ!」
そのあまりにも尊大な宣言。
だが、彼はそこで言葉を続けた。
「…………だが」
「……だが、この王たる私の慈悲深い観察によれば。……我が伴侶たる貴様は、どうにも、あの海底で微睡んでいただけの痴れ者がそばにいないと調子が、出ないらしい」
「その精神は不安定で、その行動は危なっかしい。……見ていて、実にイライラする」
「…………よかろう!」
彼は、まるで太陽のように輝かしい笑みを浮かべた。
それは、彼の王としてのプライドを守りつつ、そして芳樹の心を救うための、彼が捻り出した究極のツンデレだった。
「―――この私が寛大にも許す!―――」
「―――あの痴れ者も、まとめて我が傍らに置くことをな!せいぜい感謝するがいい!この王の海よりも深い慈悲に!―――」
そのあまりにもハスターらしい答え。
クトゥルフは、そのハスターの言葉の真意を正確に理解していた。
彼女は、ハスターの方など見向きもせず、ただ芳樹のことだけをじっと見つめ、そしてテレパシーを送った。
《…………よしきが、それを、望むなら》
《…………我は、構わぬ…………》
彼女はハスターの決定を受け入れたのではない。
彼女は芳樹の選択を受け入れたのだ。
芳樹は呆然としていた。
自分が、あれほど悩み苦しみ、そして覚悟を決めて伝えようとしていた答え。
その答えを出す前に。
この身勝手で傲慢で、そしてどうしようもなく優しい神々が、勝手に結論を出してしまったのだ。
芳樹の口から、ふ、と小さな笑いが漏れた。
それはやがて堪えきれない大爆笑へと変わっていった。
「……あ、はは……。あはははははははははははは!」
「なんだよ、それ!俺がすげー悩んでたのが馬鹿みたいじゃないか!」
彼は腹を抱え、涙を流しながら笑い続けた。
誰も選ばない。
そして誰一人失わない。
それこそが、菊池芳樹という男が、そして彼が愛した神々が共に見つけ出した最高のファイナル・アンサーだった。
この奇妙で歪で、そしてどうしようもなく温かい三角関係(?)は、これからもずっと続いていくのだ。
その芳樹の心からの笑い声を。
ハスターは、どこか誇らしげに見下ろし。
クトゥルフは、その六つの瞳で不思議そうに、しかしどこか嬉しそうに見つめていた。




