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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第四十七話 おかえり、俺の日常

あの狂った聖夜の戦いから、数週間が過ぎた。

赤紫市は、まるで巨大な手術を終えた患者のように、痛々しい傷跡をあちこちに残しながらも、ゆっくりと、しかし確実にその日常を取り戻しつつあった。

市の上空を覆っていた禍々しいオーロラは消え、代わりに冬の澄み渡った青空が戻ってきた。

歪んでいた建物は元の姿へと戻り、虚ろな瞳で徘徊していた人々も、その記憶を都合よく改竄され、日常へと帰っていった。

政府と市が発表した公式見解は、「観測史上最大級の太陽フレアの影響による特殊な電磁波が、大規模な地殻変動と局地的な集団幻覚症状を引き起こした極めて稀な複合災害」という、あまりにも苦しいものだった。

だが、人々はそれを信じた。

いや、信じることを選んだのだ。

あまりにも巨大で理解不能な真実よりも、少しだけ無理のある、しかし理解可能な嘘の方が、人間にとっては遥かに都合がいいのだから。

街には復興のための重機が行き交い、学生たちは何事もなかったかのように冬休みの残りを謳歌していた。

世界は元に戻った。

だが、菊池芳樹の世界だけは、もう二度と元には戻らない。


彼の家は相変わらず半壊状態だった。

だが、その雰囲気は以前とは全く違っていた。

あれほど家全体を支配していた不吉な緊張感は消え失せ、代わりに穏やかで、そしてどこか気の抜けた平和な空気が流れている。

芳樹は、冬の柔らかな日差しが差し込む半壊した縁側で、久しぶりにのんびりとコーヒーを飲んでいた。

リビングでは、クトゥルフが芳樹のスマートフォンをその巨大な触腕で器用につまみ上げ、不思議そうにその画面を眺めている。彼女は最近、「にゃんこ育成ゲーム」なる人間の文化に強い興味を示しているらしかった。

ソファでは、ハスターがどこから持ってきたのか、難解な哲学書を優雅に読み耽っている。時折その美しい顔をしかめているのは、内容が難しいからか、あるいはただ王としてのポーズを取っているだけなのか、芳樹には判断がつかなかった。

混沌はそこにあった。

だが、それはもはや世界の終わりを告げる終末的な混沌ではない。

ただひたすらに騒々しく、迷惑で、そしてどうしようもなく温かい日常の混沌だった。


冬休みが終わり、芳樹は久しぶりに大学のキャンパスへと足を踏み入れた。

そこには以前と何も変わらない光景が広がっていた。

だが、芳樹の心の中では、その風景の全てが以前とは全く違って見えた。

彼はまるで、誰にも知られてはならない秘密の戦争からたった一人で帰還した兵士のような気分だった。

誰も知らない。

この平和な日常がどれほど脆く、そしてどれほどの犠牲の上に成り立っているのかを。

そして自分がその平和を守るために何を選び、何を捨てたのかを。

そんな感傷的な気分に浸っていた彼の背後から、明るい声がかけられた。

「――菊池くん!」

振り返ると、そこには相田千夏が少しだけ息を弾ませながら立っていた。

彼女は、芳樹の姿を認めると、心の底から安堵したような笑みを浮かべた。

「……よかった。……元気そうじゃん」

「……ああ。相田さんも元気そうで何よりだよ」

二人の間に少しだけ気まずい沈黙が流れる。

やがて、千夏は何かを確かめるかのようにゆっくりと口を開いた。

「……あのさ。……変なこと聞くんだけど……」

「……私、この冬休み、すごく長くて、すごく大変な夢を見ていた気がするんだ」

「……街がメチャクチャになって、みんなおかしくなって……。……それで、菊池くんがなんだかすごく大きな怖い何かとたった一人で戦ってるみたいな……」

彼女の瞳は不安げに揺れていた。

彼女の記憶は、クトゥルフによって改竄されたはずだ。

だが、その魂の最も深い場所に、あの悪夢の残滓が消えない染みのようにこびりついているのだろう。

「……それでね、夢の中で、私は何もできなくて……。ただ、菊池くんがすごく遠い世界に行っちゃうような気がして……。……すごく怖くて、すごく寂しかったんだ」

彼女のそのあまりにも正直で、あまりにも切実な告白。

芳樹はどう答えるべきか分からなかった。

だが、彼はただ一つだけ確かな事実を彼女に告げた。

彼は微笑むと言うと。

「――大丈夫だよ。……俺はここにいるから――」

「……どこにも行かないよ」

その言葉を聞いた瞬間。

千夏の瞳から張り詰めていた緊張の糸が、ふっと解けていくのが分かった。

彼女は「そっか」と小さく呟くと、これまでで一番美しい、優しい笑顔を見せた。

「……うん。……よかった」

二人の間にあったはずの甘酸っぱい恋愛の空気は、もうそこにはなかった。

だが、その代わりに。

共に戦場を潜り抜けてきた戦友のような、あるいは兄妹のような、もっと深くて温かい絆が確かにそこに生まれていた。


芳樹は、その足でオカルト研究会の部室へと向かった。

ドアを開けると、そこには以前にも増してエネルギッシュな門倉健の姿があった。

彼の記憶もまた曖昧になっているはずだった。

だが、彼の魂に刻まれた宇宙的真実のその断片は、彼のオカルトへの情熱を狂信の域にまで高めていた。

「おお、菊池師匠!よくぞご無事で!」

彼は、芳樹の手を両手で固く握りしめた。

「私は全てを思い出したわけではありません!ですが、私の魂は覚えています!あの日、あの時、我々が宇宙の真理のその深淵を垣間見たことを!」

「この世にはいるのです!我々の矮小な科学では到底説明のつかない冒涜的なる何かが!私はその探求に我が生涯を捧げることを改めて誓いましたぞ!」

彼のそのあまりにもポジティブで、あまりにも力強い復活の宣言。

芳樹は少しだけ安心し、そして少しだけこの男の行く末が心配になった。


芳樹は、家に帰ると決意した。

この半壊した家を完全に修復しよう、と。

それはただの家屋の修繕ではなかった。

自分たちの手で、自分たちの日常を、自分たちの城を再構築するという一つの儀式だった。

芳樹はリビングの中央に仁王立ちになると宣言した。

「――これより、菊池家、最後にして、最大のコズミック・リフォームを開催する!――」


そのリフォームは、もはや人間の常識を完全に超越していた。

芳樹の指揮の下。

神々と異星人が、その宇宙的な能力を遺憾なく発揮していく。

まず、ミ=ゴが、壁材として自己増殖機能を持つ半透明の有機的なパネルを提供した。

芳樹がその「壁の種」とでも言うべき一枚のパネルを家の基礎に設置すると。

パネルはまるで生きているかのようにゆっくりと成長を始めた。

そこから新たな壁が、床が、天井が、まるで美しいサンゴ礁が形成されるかのように伸び広がり、家の形を作り上げていく。

その光景は神秘的で、そしてどこまでも冒涜的だった。

数時間後には、家の外観は完全に元通りになっていた。

だが、その壁は触れるとほんのりと温かく、そしてまるで巨大な生き物の皮膚のようにゆっくりと脈動していた。

次に、クトゥルフがその巨体を動かした。

彼女は、その無数の触腕で家の全ての柱と梁を掴むと、その宇宙的な力で家全体を数センチ持ち上げた。

そして、その僅かな隙間に、芳樹が耐震用の特殊なジェルを流し込んでいく。

それはもはやリフォームというよりも神々の御業だった。

ハスターは、その風の力を使って内装を担当した。

彼はまるでオーケストラの指揮者のようにその指先を振るう。

すると、家具や家電製品が宙を舞い、芳樹が設計した完璧な配置へと寸分の狂いもなく収まっていく。

ショゴスは、その不定形の体を使って壁紙の代わりを果たした。

彼は、壁にその身を広げると、自らの体組織を変化させ、美しい木目調の模様や、モダンな幾何学模様を完璧に再現してみせた。

そして、ツァトゥグァは。

彼は、その全ての作業を炬燵の中から眺めながら、ただ一つだけ絶対的な要求を出した。

「………………我が炬燵から冷蔵庫までの歩数を三歩以内にせよ…………。……さすれば許す…………」

その怠惰なる王の神託。

芳樹たちは、その要求を満たすためだけに、キッチンの間取りを根本から設計し直すことになった。


数日後。

家は完全に修復された。

その外見は、日本のどこにでもある古民家。

だが、その一歩中へと足を踏み入れれば。

そこは、神々と人間が共に快適に暮らすためだけに最適化された、不思議で温かい空間となっていた。

壁は微かに脈動し、家主の心に呼応してその色を変える。

障子にはミ=ゴ製の自己修復機能を持つ和紙が使われている。

そして、リビングの中央には、以前よりもさらにパワーアップした、ツァトゥグァ専用の全自動マッサージ機能付き最新鋭の炬燵が鎮座していた。

その新しくなった家の縁側。

芳樹は夕日を浴びながら、仲間たちの姿を眺めていた。

ハスターとクトゥルフが、テレビのチャンネル権を巡っていつものように低レベルな争いを繰り広げている。

ミ=ゴが、その様子を未知の知的生命体の生態として冷静に記録している。

戦いは終わった。

日常が戻ってきた。

だが、この日常はもはや以前とは違う。

これは、自分たちが血と涙と狂気の果てに、自らの手で掴み取ったかけがえのない日常なのだ。

芳樹は、そのどうしようもなく愛おしい混沌を見つめながら、心の中で静かに呟いた。

「―――おかえり。……俺の日常―――」

その時、クトゥルフが芳樹の元へとやってきて、その触腕で一つの湯呑みを差し出してきた。

中に入っているのは、深緑色のどこか磯の香りがする謎の液体だった。

おそらくはルルイエ産のお茶か何か、なのだろう。

芳樹は苦笑すると、その湯呑みを受け取った。

その温もりが、彼の疲れた心にじんわりと染み渡っていった。

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