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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
47/50

第四十六話 俺が望む、たった一つのこと

静寂。

鋼鉄の巨神、デウス・エクス・マキナが、光の粒子となって消え失せた後。

戦場と化していた赤紫市の空には、奇妙で、そしてどこか物悲しい静寂が訪れていた。

破壊のシンフォニーが鳴り止んだ。

だが、世界はまだ狂ったままだった。

空は依然として禍々しい赤紫色に染まり、大地は生き物のように不気味に脈動を続けている。

芳樹は、自らの生命力のほとんどを使い果たし、クトゥルフのその宇宙的な翼の上で、かろうじて意識を保っていた。

勝った。

だが、何も終わりではない。

その事実だけが鉛のように重く、彼の疲弊した心にのしかかっていた。

その静寂を破ったのは、一つの拍手の音だった。

ぱち、ぱち、ぱち、と。

まるで最高の演劇を鑑賞し終えた観客が、その主演俳優に送るかのような、心のこもらない、しかし完璧なリズムの拍手。

芳樹が顔を上げると。

そこにはいつの間にか一人の青年が立っていた。

奈々瀬拓人。

彼のその完璧な美貌には、傷一つ汚れ一つない。

まるでこの地獄絵図のような戦場とは全く別の次元にでもいたかのようだった。

彼は、その美しい顔に心からの愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。

「―――素晴らしい!ブラボー!実に見事な最終回だったじゃあないか!」

彼は、まるで舞台のカーテンコールに現れた演出家のように、恭しく芳樹とクトゥルフにお辞儀をしてみせた。

「いやあ、感動したよ、菊池芳樹くん。君という無名の役者が、これほどまでに素晴らしい演技を見せてくれるとは、思わなかった。……僕の目に狂いはなかったようだね」

「……奈々瀬……!」

芳樹は憎悪を込めてその名を呟く。

「お前が……!お前が全て仕組んだのか……!星辰グループも、何もかも!」

奈々瀬は、その問いにくすくすと喉を鳴らして笑った。

「人聞きの悪いことを言うものじゃないよ。僕はただ最高の舞台を用意しただけさ。……あの御子神珠子という狂信的な老婆に古の叡智を与え、その歪んだ理想を少しだけ後押ししてあげた。……そして君という最高の混沌の才能を持つ主演男優を、その舞台の中心にキャスティングしてあげた。……それだけさ」

「全ては最高のエンターテイメントのため。……そして、君は見事に僕の期待に応えてくれた」

その言葉。

芳樹は全てを理解した。

自分たちのこの命を懸けた死闘。

それはこの悪魔にとって、ただの退屈しのぎの演劇に過ぎなかったのだ。

そのあまりにも冒涜的な真実に、芳樹は言葉を失った。


奈々瀬は満足げに頷くと、芳樹に歩み寄ってきた。

「さて。……最高の演技を見せてくれた君に、僕から最高のクリスマスプレゼントをあげよう。……主演男優賞、というやつさ」

「君に、最後の選択権を与える。……この物語の結末を、君自身が選ぶ権利をね」

彼は、その白く美しい指先をぱちん、と鳴らした。

その瞬間、芳樹の目の前に二つの全く異なる未来の光景が幻覚として浮かび上がった。


一つは、光に満ちていた。

それは芳樹が失ってしまった、あの平凡で穏やかな日常。

彼は大学のキャンパスにいた。

隣では、千夏が悪戯っぽく笑っている。

「もう、菊池くんって、本当に機械のことしか頭にないんだから!」

その声。その笑顔。その温もり。

彼はバイク仲間たちと海岸線を走っていた。

潮の香りがする風。エンジンの心地よい鼓動。ヘルメットの中で、彼は屈託なく笑っている。

彼は実家のリビングにいた。

少しだけ年老いた両親が穏やかな顔で彼を見ている。

そこには、恐怖も絶望も混沌も何もない。

ただひたすらに温かく、優しく、そして少しだけ退屈な、完璧な「幸せ」がそこにあった。

芳樹の心が締め付けられる。

帰りたい。

この場所に帰りたい。

奈々瀬の声が甘く響く。

『――選択肢A。……この狂った日常を全てリセットし、君をクトゥルフや他の神々と出会う前の「平凡で、幸せな大学生・菊池芳樹」に戻してあげよう。……友人たちとの関係も、全て元通りになる。……もちろん、君はあの忌まわしき神々との記憶を全て失うことになるがね。……それが君の望むハッピーエンドかい?――』


そして、もう一つの未来。

それは闇と王権に満ちていた。

彼は黒く巨大な玉座に座っていた。

その玉座は人間の骨とありえない角度でねじ曲がった金属でできていた。

彼の隣には、元の巨大な緑の神の姿のまま、しかしどこか女王の風格を漂わせたクトゥルフが寄り添っている。

彼の足元には、ハスターが忠実なる騎士のようにひざまずいていた。

彼の周りには、深きものどもや夜鬼、そしてショゴスといった冒涜的なる眷属たちが、彼を唯一の王として崇めひれ伏している。

彼は、この狂った赤紫市という異次元の支配者。

混沌の王。

その指先一つで、全てを破壊し、全てを創造することができる絶対的な力。

彼はもう何ものにも怯える必要はない。

大切な仲間たちと共に、永遠にこの王国で君臨し続けることができる。

そのあまりにも甘美で冒涜的な力の誘惑。

奈々瀬の声が囁きかける。

『――選択肢B。……このままこの狂った異次元で、愛すべき神々と共に、世界の終わりまで混沌の王として君臨する。……君は全てを手に入れる。……ただし、君がかつて愛したあの平凡な世界と、その友人たち、全てを永遠に失うことになるがね。……それとも、こちらが君の望むハッピーエンドかな?――』


究極の選択。

それは芳樹の魂を引き裂くための悪魔の問いだった。

どちらを選んでも、彼は何かを失う。

平凡を選べば、神々との絆を失う。

絆を選べば、人間としての世界を失う。

どちらもハッピーエンドであり、そしてどちらもバッドエンドだった。

芳樹は迷った。

心が引き裂かれそうになった。

千夏たちのいるあの穏やかな日常。

だが、そのためには、クトゥルフとのこの温かい繋がりを忘れなければならない。

クトゥルフたちと共にいる未来。

だが、そのためには、千夏たちの笑顔を永遠に諦めなければならない。

選べない。

選べるはずがなかった。

彼の瞳から涙がこぼれ落ちた。

その彼の苦悶の表情を、奈々瀬は心底楽しそうに眺めている。

だが、芳樹はゆっくりと顔を上げた。

彼は涙を拭うと、目の前の二つの幻影を、そしてその向こう側で微笑む奈々瀬をまっすぐに睨みつけた。

そして、彼は笑った。

「…………どっちも選ばない」

「え?」

初めて、奈々瀬の顔から完璧な笑みが消えた。

「どっちも選ばない、って言ったんだよ。……俺が望むのは、そんなお前が用意した安っぽい二択の結末じゃない」

「俺の願いはな……」

芳樹は、奈々瀬から視線を外し、自らの隣に立つ冒涜的なる神のその真の姿を見上げた。

彼は、その宇宙的な肉体の一部である緑色の巨大な触腕へと、自らの意志で初めてその手を伸ばした。

そして、そのひんやりとした、しかしどこまでも優しい感触を強く握りしめた。

「――俺の願いは、最初からずっと、たった一つだけだ――」


彼は叫んだ。

それは最初のあの日のパニックの中で口走った間違いの言葉ではなかった。

彼が自らの魂で選び取った、唯一の真実の言葉だった。


「―――くとぅるふ。……これからも、ずっと、俺のそばにいてくれ―――」


その瞬間。

奇跡が起きた。

芳樹のそのあまりにも純粋で、あまりにも人間的な願い。

その想いが、クトゥルフとの契約を通じて、この狂った世界の法則そのものを書き換えたのだ。

家の地下で暴走していた、「星の扉」から溢れ出す混沌のエネルギー。

その膨大な力が、破壊のためではなく、ただ一つの矮小な人間の願いを叶えるためだけの、創造の力へと変換されていく。

禍々しい赤紫色の空が、まるで絵の具を洗い流したかのように、元の澄み渡った冬の青空へと戻っていく。

歪んでいた建物が音を立てて、元の正しい形へと修復されていく。

人形と化していた人々の瞳に、再び意志の光が宿っていく。

彼らの記憶は都合よく書き換えられていた。

一連の事件は、「観測史上最大級の太陽フレアの影響による大規模な地殻変動と、それに伴う集団幻覚症状」という、少しだけ無理のある、しかし信じられなくもない現実として上書きされていく。

奈々瀬拓人は、その自らの理解と脚本を遥かに超えた奇跡を目の当たりにし、そして初めて心の底から楽しそうな、狂気に満ちた笑みを浮かべた。

「……そうか……。そうか、そうか!そういうことか!秩序でも、混沌でもない!愛!絆!人間という矮小な存在が生み出す、その非論理的で矛盾に満ちた感情こそが、この宇宙における最高の混沌カオスだったとは!」

「ああ、素晴らしい!素晴らしいよ、菊池芳樹くん!僕の負けだ!」

「また会おう!我が愛しの道化師ピエロくん!君が紡ぐ物語のセカンドシーズンを楽しみにしているよ!」

彼は満足げにそう言うと、自らの影の中へと溶けるように消えていった。


全てが終わった。

芳樹と、元の緑の巨人の姿へと戻ったクトゥルフたちは、半壊した、しかし確かにそこにある我が家へと帰還した。

そこには、以前と何も変わらない、メチャクチャで、迷惑で、そしてどうしようもなく、かけがえのない日常が待っていた。

物語は終わり、そしてまた始まるのだ。

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