第四十四話 星辰墜つる時(The Day Stars Fall)
「―――ああ、知ってるよ……!」
菊池芳樹は叫んだ。
砕け散る理性の欠片をかき集め。
目の前に顕現した、そのあまりにも恐ろしく、そしてあまりにも美しい神の真なる姿を、その人間のちっぽけな瞳に焼き付けながら。
「―――お前は俺の……!かけがえのない、迷惑で、最悪で、最高の、同居人だッ!!―――」
彼がその魂からの答えを絶叫すると同時に。
その右腕に巻かれたコントローラーの最後のスイッチを、彼は力の限りに押し込んだ。
その瞬間、世界が緑色の光に染まった。
星辰タワーの最上階。
芳樹の腕に宿された神格エネルギー伝導ユニットが、暴走したかのように輝きを放つ。
それはもはやただのお守りではなかった。
それは増幅器。
芳樹のその純粋な魂の叫びを触媒として、顕現したクトゥルフの神格エネルギーを、数千、数万倍にまで増幅させるための冒涜的なる奇跡の装置。
そして、その増幅された緑色の神の力は、星辰タワーそのものを避雷針として、天を衝く巨大な光の柱となった。
それはこの狂った異次元に閉じ込められた全ての仲間たちへと送られる、反撃開始の狼煙だった。
その狼煙を最初に受け取ったのは、空の王だった。
芳樹の家、その古民家の屋根の上。
ハスターは、その美しい顔に不敵な笑みを浮かべていた。
彼の目の前には、芳樹が作り上げた奇怪な祭壇が鎮座している。
星の心臓を搭載した魔改造バイクのエンジン。
その排気口には、ハスターの風の力を収束し増幅させるための黄金のルーン文字が刻まれた巨大なホーンが接続されている。
「―――聞こえたぞ、我が伴侶よ!最高の舞台の始まりだな!」
彼はバイクのエンジンへとその手をかざした。
「目覚めよ、星の心臓!そして、我が混沌の息吹と一つとなれ!」
彼の神気がエンジンへと注ぎ込まれる。
アストラル・ハートが歓喜の咆哮を上げた。
そしてハスターは、その膨れ上がった自らの力を一つの方向へと解放した。
赤紫市の上空。
そこは、扉の向こうから侵入してきた無数の異形の飛行生物たちの巣窟となっていた。
冒涜的なる鳥類。
半透明のクラゲのような浮遊生命体。
それらが我が物顔で飛び交うその空の中心に、一つの巨大な嵐が産声を上げた。
それはただの嵐ではなかった。
その渦の中心は禍々しい黄色に輝き、そこから放たれる稲妻は全て鋭角に折れ曲がる非ユークリッド幾何学的な軌跡を描いていた。
その嵐の風の音。
それはただの風の音ではなかった。
それはまるで数億の亡者の魂が合唱する、絶望の聖歌。
黄衣の王の吐息。
その神の嵐は、空を支配していた全ての異次元の怪物を、その区別なく平等に塵芥へと変えていった。
風の刃が肉を引き裂き、真空の渦が魂を吸い上げる。
悲鳴を上げる間もなく、怪物たちは次々とその存在を消滅させていく。
ハスターは、その圧倒的な浄化の光景を、まるで偉大な指揮者のようにその腕を振りながら高らかに笑っていた。
次に狼煙を受け取ったのは、地上の支援部隊だった。
ミ=ゴの数機の小型円盤が、怪物たちの残骸が降り注ぐ街の上空を巧みな操縦で飛び交う。
彼らは市内に点在する主要な電波塔や通信施設の頂上に、次々と奇妙なアンテナ型の装置を設置していった。
そして、その全ての準備が整った瞬間。
芳樹の家の地下深く。
脈動する「星の扉」のその混沌としたエネルギーを制御していたクトゥルフの意識の一部が、芳樹が作り上げた増幅装置を通じて、ミ=ゴが設置した全てのアンテナへと接続された。
一つの巨大な精神感応ネットワークの完成。
そして彼女は語りかけた。
この街で人形と化し、その魂を眠らせていた全ての人間たちに向かって。
その声は、母親のようでもあり、女神のようでもあり、そして深淵の支配者のようでもあった。
《―――目覚めよ》
《―――眠れる人間の子らよ》
《―――汝らの魂は汝らのものだ。……偽りの秩序の枷を断ち切り、再び自らの意志で立ち上がれ―――》
そのあまりにも巨大で、あまりにも温かい精神の波動。
それは星辰グループが張り巡らせた冷たい秩序のネットワークを内側から焼き切っていった。
街のあちこちで。
虚ろな瞳で立ち尽くしていた人々が、ぴくりとその指先を動かした。
「……あれ……?」
一人の女子高生が呟く。
「……私……何を、してたんだろう……?」
別のサラリーマンが、自分の両手を見て驚愕する。
千夏が、門倉が、そして数万の市民たちが、長い長い悪夢から覚めたかのように、その意識を取り戻し始めた。
街は大混乱に陥った。
だが、それは死んだような静寂よりは、遥かに生命力に満ち溢れた希望の混沌だった。
そしてその頃、芳樹の家では。
最後の防衛線がその役割を果たしていた。
ツァトゥグァ。
彼は炬燵の中に座したまま、その怠惰なる神気を家の地下そのものへと浸透させていた。
彼の聖なる怠惰の力は、「星の扉」から溢れ出そうとする暴走した混沌のエネルギーの、その時間の流れを極限まで遅延させていた。
激流がまるで水飴のようにねっとりとなる。
爆発がまるでスローモーションのようにゆっくりとなる。
彼は戦わない。
ただそこに在るだけで、全ての厄介事を、「面倒くさい」という究極の真理の前で無力化していく。
そのあまりにも地味で、しかしあまりにも強力な防御のおかげで、クトゥルフと芳樹は星辰タワーでの戦いにその全力を集中することができていた。
全ての作戦が始まった。
その全てを確認し、芳樹は再び目の前の最後の敵へと向き直った。
会長室。
そこにはもはや玉座に座る老婆と、機能停止した鋼鉄の巨人がいるだけだった。
鋼塚はもはや敵ではなかった。
芳樹を守るようにその前に立ちはだかったクトゥルフの真の姿。
その圧倒的な神威は、彼のサイバー魔術兵器の回路を完全に焼き切っていた。
クトゥルフは、その触腕の一本を伸ばすと、動かなくなった鋼塚の巨体をまるで玩具のように、つまみ上げ部屋の隅へと放り投げた。
残るは一人。
御子神珠子。
全ての駒を失った彼女。
だが、その老婆の顔には絶望の色など微塵もなかった。
彼女は静かに玉座から立ち上がると、その皺だらけの顔に狂信的な、そしてどこか母性にも似た歪んだ笑みを浮かべた。
「……素晴らしい。……素晴らしい、混沌ですわね」
「……ですが、それももう終わり。……この世界は、これより我が理想の形へと収束するのです」
彼女は自らの黒い和服のその胸元へと、その枯れ木のような手を突き刺した。
そしてそこから一つの禍々しくも神々しい輝きを放つクリスタルを取り出した。
それは彼女の心臓だった。
否、星辰グループが代々受け継いできた、宇宙の叡智そのものが具現化した、「星の智慧」の結晶体。
「――秩序の世界のため……。この老いぼれた我が身、神々の礎とならん!――」
彼女は、その光り輝く心臓を玉座の背後に隠されていたタワーのメイン動力炉へと接続した。
その瞬間。
星辰タワーそのものが絶叫を上げた。
ギギギギギギギギッ!
タワーの外壁を覆っていたガラスが全て砕け散り、その内部の鉄骨がまるで生き物のようにその形を変え始めた。
タワーが立ち上がっていく。
それはもはやただの摩天楼ではなかった。
腕が生える。
脚が生える。
そして頭部が形成される。
それはかつて、彼女の遥かなる祖先が神々を狩るために作り上げたという、伝説の対神性決戦兵器。
科学と魔術の粋を集めた鋼鉄の巨人。
その名は、「デウス・エクス・マキナ」。
芳樹とクトゥルフは、崩壊していくタワーの屋上で、ゆっくりと起き上がってくる、その街一つを覆い尽くさんばかりの巨大な鋼鉄の神と対峙していた。
デウス・エクス・マキナの頭部、そのコックピットと化した会長室の中で。
御子神珠子の拡声器を通した声が、狂った世界に響き渡った。
「―――終わらせましょう、旧き神よ。―――」
「―――そして、世界を汚す、混沌の愛し子よ―――」
芳樹たちの本当の本当に最後の戦いが今、始まろうとしていた。




