第四十三話 我が名は
改行方法変えてみました。
菊池芳樹の駆る魔改造バイクが、咆哮を上げた。
そのエンジン音は、もはや内燃機関のそれではない。
彼の背後で燃え盛る青白い光。それは遥か彼方の銀河から盗み来られた、生ける星の心臓の産声。
ガレージのシャッターが開かれる。
その向こう側に広がっていたのは、地獄だった。
芳樹は躊躇わなかった。
彼はアクセルを捻った。
星を宿したバイクは、一条の光の矢と化し、異形の怪物たちが蠢く変わり果てた故郷の街へと、その身を投じた。
彼の孤独な突貫が始まった。
世界は歪んでいた。
芳樹は見慣れたはずの商店街のアーケードを、猛烈な速度で駆け抜ける。
だが、その風景は彼の知るものではなかった。
アーケードの天井は、まるで巨大な生物の肋骨のように歪み、そこから不気味な紫色の粘液が滴り落ちている。
路面はぬめりを帯びた肉のように脈動し、その裂け目からは熱い硫黄の匂いがする蒸気が噴き出していた。
そして、その路上には「それら」がいた。
かつて人間だったと思われる何か。
星辰グループの秩序の波動によって人形と化し、そして扉の向こうから来た混沌の怪物たちによって、さらに冒涜的なる存在へと作り変えられた哀れな成れの果て。
いくつもの人間が融解し一つになったかのような巨大な肉の塊が、道を塞いでいる。その表面には、無数の苦悶の表情を浮かべた顔が浮かび上がっては消える。
芳樹は、そのおぞましい障害物を避けるためバイクのハンドルを切った。
彼の耳には、通信機から聞こえてくるミ=ゴの冷静なナビゲーションだけが響いていた。
『――前方、百メートル。敵性生命体の集団を感知。……回避を推奨します。……右折、その後、路地裏へ――』
彼はただその声だけを頼りに、この悪夢の迷宮を突き進む。
空からは、鋭い鉤爪を持つ飛行生物が急降下してくる。
芳樹はバイクのハンドルに搭載された小さなボタンを押した。
ミ=ゴ製の小型レーザーが放たれ、飛行生物の翼を焼き切る。
彼のライディングの技術と、バイクに搭載された異星のテクノロジー。
その二つだけが彼の生命線だった。
アドレナリンが彼の血管の中を駆け巡り、恐怖を麻痺させていく。
彼はただ前だけを見ていた。
目的地、星辰タワー。
その黒い墓標だけを見据えて。
やがて、彼はタワーの麓へとたどり着いた。
だが、そこには最後の番人が待ち構えていた。
ゴゴゴゴゴゴ……という地響きと共に地面が割れ、その中から一つの巨大な影が姿を現した。
それは人型の戦闘用機械。全高は十メートルを超えるだろうか。
そのずんぐりとした無骨な装甲には、星辰グループの紋章と、そして無数の禍々しいルーン文字が刻まれている。
そのコックピットには、あの鋼鉄の巨人、鋼塚が乗っていた。
「―――来たか、ネズミが」
拡声器から響き渡るその合成音声には、侮蔑と、そして確実な殺意が込められていた。
「―――この対神話生物用殲滅兵器、『オーディン』の錆にしてくれる―――」
巨大なメカの両肩に搭載されたガトリング砲が回転を始め、火を吹いた。
無数の魔術的なエネルギー弾が嵐のように芳樹へと降り注ぐ。
芳樹は必死にバイクを操り、その死の弾幕を回避する。
だが、その機動力は圧倒的な火力の前に徐々に削られていった。
追い詰められ、絶体絶命のピンチ。
その瞬間だった。
芳樹の耳の通信機から聞き慣れた、あの尊大な声が響き渡った。
『―――聞こえるか、我が伴侶よ!……王の助太刀、ありがたく思うがいい!―――』
ハスター。
次の瞬間、遥か上空、雲の切れ間から一本の巨大な槍が降ってきた。
それは風そのものだった。
極限まで圧縮され研ぎ澄まされた、真空の刃。
その見えざる一撃は、戦闘メカ『オーディン』の右腕をいとも容易く切断した。
さらに地面。
メカの足元のアスファルトが前触れもなく黒いタール状の沼へと変貌し、その巨大な脚部を絡め取った。
ツァトゥグァの援護だった。
仲間たちが見ている。
仲間たちが道を切り開いてくれている。
芳樹はその一瞬の好機を逃さなかった。
彼はバイクのブースターを全開にした。
「うおおおおおおおおおおっ!」
星の心臓が咆哮する。
バイクはもはや重力の軛にはなかった。
それは一条の青白い彗星と化し、星辰タワーのその黒いガラス張りの壁面を駆け上がり始めたのだ。
轟音。
芳樹はバイクごと最上階の会長室の窓ガラスを突き破り、その中へと突入した。
砕け散ったガラスの破片が宝石のようにキラキラと舞う。
そこは王の玉座の間とでも言うべき空間だった。
床は磨き上げられた黒曜石。
壁には冒涜的なタペストリーが飾られている。
そして、その部屋の中央。
巨大な玉座に御子神珠子が静かに座っていた。
彼女は突然の闖入者を前にしても全く動じていなかった。
その白濁した瞳は芳樹ではなく、彼の背後を見ていた。
「……お待ちしておりましたわ。……旧き神の使者よ」
彼女がそう呟いた瞬間。
芳樹の背後、彼が突き破ってきた窓の向こう側。
「星の扉」から溢れ出した光が凝縮し、一つの巨大な形を作り出した。
それは御子神珠子がこの時のために、扉の向こう側の次元から召喚していた最強の番犬。
この異次元宇宙のガーディアン。
その姿は常に変化していた。
ある瞬間には無数の眼球が埋め込まれた肉の山のように見え。
ある瞬間には光そのものがねじ曲がってできたかのような幾何学的な結晶体のように見えた。
それはこの三次元世界の法則が通用しない、純粋な混沌の化身。
その中心部が裂け、そこから全てを消滅させる純粋な破壊のエネルギー波が芳樹へと向かって放たれた。
芳樹は死を覚悟した。
だが。
そのエネルギー波が彼に届くことはなかった。
彼の目の前の空間が、まるで黒い布が裂けるかのように音もなく裂けたのだ。
そして、その次元の裂け目から彼女は姿を現した。
クトゥルフ。
しかし、それはいつもの緑の巨人の姿ではなかった。
芳樹を守るため。
そしてこの狂った世界を創り変えようとする、人間のそのあまりにも傲慢な所業を断罪するため。
彼女は自らに課していた全てのリミッターを解除し、その本来の姿―――宇宙的恐怖の象徴、星々を覆い尽くすほどの巨大な翼と無数の瞳、そして計り知れないほどの神威を放つ、旧支配者「大いなるクトゥルフ」としての姿のそのほんの一端を、この世界に顕現させたのだ。
それはもはや生物というカテゴリーには収まらない。
それは一つの宇宙そのものだった。
彼女の背中に生えた巨大な翼。
それは蝙蝠のような皮膜でできていたが、その表面には肉や鱗ではなく、夜空そのものが張り付いていた。無数の星々が生まれ、そして死んでいく様が、その翼の上で明滅している。
彼女の体はもはや定まった輪郭を持たない。
ある角度から見れば緑色の巨人のようであり、ある角度から見れば無数の触手が絡み合った山のようでもあり、そしてある角度から見ればただの巨大な闇の塊にしか見えなかった。
そしてその顔。
そこには無数の瞳、瞳、瞳。
その一つ一つの瞳の奥には、それぞれ全く違う、別の狂った現実が広がっている。
その姿は芳樹のちっぽけな人間の理性を完全に粉砕するには十分すぎた。
だが、彼の心は恐怖ではなく、別の感情に満たされていた。
畏怖。
そして愛。
そのあまりにも恐ろしく、あまりにも冒涜的で、そしてどうしようもなく美しいその姿に、彼は涙を流していた。
顕現したクトゥルフは、目の前の混沌の化身を一瞥した。
そしてただ一つの触腕をゆっくりと伸ばした。
その動きは緩慢に見えた。
だが、その触腕は時間と空間を超越していた。
次の瞬間、混沌の化身はその胸の中心を貫かれ、その存在そのものがまるで砂の城のように霧散し消滅した。
絶対的な蹂虙。
そして、その計り知れないほどの無数の瞳が今、ただ一人。
芳樹だけを見つめていた。
芳樹の脳内に嵐のような、しかしどこまでも澄み渡ったテレパシーが流れ込んでくる。
それは彼女の真なる声。
《―――我が名は、くとぅるふ》
《―――汝が名を呼びし者》
《―――汝がそばに在ると誓いし者―――》
芳樹は砕け散る理性の欠片をかき集め、そして笑った。
彼は自らの腕に巻かれたコントローラーの最後のスイッチに指をかける。
「……ああ、知ってるよ……!」
「お前は俺の……!」
彼の絶叫と共にスイッチが押された。
赤紫市、全域に反撃の狼煙が上がる。




