幕間:芳樹と毒入りスープ
思いついたので、ちと幕間です。
目が覚めた。
菊池芳樹は、まず、自分がどこにいるのかを認識しようと、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
だが、目に映った光景は、彼の困惑を深めるだけだった。
そこは、見慣れた我が家の木材と土壁の温もりとは無縁の、冷たい無機質な空間だった。
壁も床も天井も、全てが継ぎ目のない、滑らかなコンクリートでできている。窓も扉らしきものも一切見当たらない。広さは六畳間ほどだろうか。完全な立方体。まるで巨大な豆腐の中にでも閉じ込められてしまったかのような、圧迫感と閉塞感。
部屋の中央には、粗末な金属製の机が一つ、ぽつんと置かれている。それ以外には何もない。
そして、何よりも異様なのは、その部屋に、自分以外の「住人」がいることだった。
「…………ん……?」
芳樹のすぐ隣で、もぞり、と動く気配。
見ると、そこには、いつものように巨大な緑色の体躯を窮屈そうに折りたたみ、しかし、明らかに状況を訝しんでいるクトゥルフがいた。彼女の六つの瞳がゆっくりと瞬きをし、この奇妙な立方体の空間情報を、その広大な意識に取り込もうとしている。
「……フン。……ここはどこだ。我が寝室にしては、あまりにも殺風景で、下賤な造りだな……」
部屋の反対側の壁際には、これまた、いつものように尊大な態度で、しかし、その眉間には深い皺を刻み、不機嫌さを隠そうともしないハスターが、腕を組んで立っていた。彼は、このコンクリートの壁を、まるで牢獄の壁でもあるかのように、忌々しげに睨みつけている。
そして、部屋の隅。
そこには、黒い毛玉が一つ。
ツァトゥグァは、この異常事態にも全く動じることなく、ただ壁に背を預け、再びその意識を永劫の眠りの海へと沈めようとしていた。
「……って、なんでお前らまでいるんだよ!?」
芳樹の魂からのツッコミが、無機質な部屋に虚しく響き渡った。
状況が全く飲み込めない。
昨夜は、確かに、あのリフォームしたばかりの快適な我が家で眠りについたはずだった。
これは夢か?それとも、また何かの厄介事に巻き込まれたのか?
芳樹は、混乱する頭を必死に働かせようとした。
「落ち着け、俺……。こういう時は、まず状況を確認するんだ……」
彼は立ち上がり、部屋の壁を叩きながら調べていく。扉や隠し通路のようなものは、ないか。だが、どこを叩いても返ってくるのは、鈍く、硬い、絶望的な感触だけだった。
「フン、無駄だ、人間よ!」
そんな芳樹の行動を、ハスターが鼻で笑った。
「この程度の壁、この王たる私の力をもってすれば、赤子の手を捻るよりも容易く……!」
彼はそう言うと、自らの拳に黄金の破壊のオーラを纏わせ、コンクリートの壁へと叩きつけた。
ゴッ!という鈍い衝撃音。
だが、壁にはひび一つ入らない。
それどころか、ハスターの方が、「ぐ……っ!」と、僅かに顔を歪めている。
「な……!?馬鹿な……!?この壁、ただのコンクリートではないぞ……!?何らかの魔術的な、あるいは我らの力を減衰させる異質な素材でできている……!」
王のプライドが傷つけられた。彼は忌々しげに自らの拳を見つめている。
その隣で、クトゥルフが冷静な分析結果をテレパシーで送ってきた。
《……壁材の組成を解析。……地球外物質、及び、高密度の時間結晶を含有。……通常の物理的干渉、及び、高次元エネルギーによる破壊は困難と推定される》
《……また、この空間は、外部の時空間から完全に切り離されている。……一種のポケットディメンションである可能性が高い》
「ポケットディメンション!?」
芳樹は、そのあまりにもSF的な単語に眩暈を覚えた。
どうやら、ここは本当に閉じ込められてしまったらしい。
一体、誰が、何のために?
芳樹は、部屋の中央にある金属製の机へと視線を移した。
唯一の手がかりはこれしかない。
机は古びており、表面には無数の傷や染みがついていた。まるで長年、何かの実験室か拷問室で使われていたかのような、不吉な雰囲気を漂わせている。
机の上には、一つの深皿が置かれていた。
そして、その中には、なみなみと緑色のどろりとした液体が満たされている。
それは、スープのようだった。
だが、その色は健康的な野菜の色ではない。まるで沼の底のヘドロか、あるいは未知の生物の体液のような不気味な深緑色。
表面には油のような虹色の膜が張り、ぷつぷつと小さな気泡が弾けている。そして、その気泡が弾けるたびに、腐った卵のような、あるいは薬品のような、鼻をつく刺激臭が漂ってくる。
芳樹は思わず顔をしかめた。
明らかに、食べ物ではない。
これは、毒だ。
そう、直感した。
机には、引き出しが一つついていた。芳樹はそれを開けようとする。
だが、鍵がかかっているのか、びくともしない。
「くそっ……!」
その時、芳樹は、引き出しのすぐ横の、机の表面に、何か引っ掻いたような文字が刻まれているのに気づいた。
それは拙い、しかし必死さが伝わってくるような日本語だった。
『――スープをのめばたすかる――』
「……は?」
芳樹は自分の目を疑った。
スープを飲めば、助かる?
あの、見るからに致死性の毒物にしか見えない、緑色のヘドロを?
罠だ。
絶対に罠だ。
そう、思ったその時。
彼の背後から、ぬっと巨大な影が迫ってきた。
クトゥルフだった。
彼女は、その六つの瞳で、芳樹が見ている緑色のスープを、興味深そうに覗き込んでいた。
《……興味深い液体だ。……成分を分析する》
彼女は一本の触腕を器用に伸ばすと、その先端をスープの表面にそっと浸した。
そして数秒後。
彼女の脳内に響くテレパシーは、芳樹の予想を完全に裏切るものだった。
《……成分分析、完了。……主成分は、クロレラ、スピルリナ等の微細藻類。……その他、ビタミン、ミネラル、必須アミノ酸を豊富に含有。……極めて栄養価の高い液体であると判断される。……ただし……》
彼女はそこで言葉を切った。
《……ただし、ごく微量の未知の神経毒を検出。……人間が摂取した場合、致死量には満たないが、一時的な幻覚作用、及び精神混濁を引き起こす可能性が高い》
「やっぱり毒じゃねえか!」
芳樹は叫んだ。
だが、その芳樹の叫びを、クトゥルフは全く意に介していなかった。
彼女の意識は、完全にそのスープの持つ「未知の成分」に対する、科学的な好奇心に支配されていた。
《……この神経毒……。我が故郷の星、ゾスに生息していた精神寄生キノコの胞子が生成するアルカロイドに酷似している……。……だが、分子構造が微妙に異なる……。……これは進化か?あるいは人工的な改変か……?》
彼女は完全に自分の世界に入ってしまっていた。
そして次の瞬間、彼女は芳樹の制止も聞かずに、その緑色のスープを一口ぺろりと舐めてしまったのだ。
「あ!おい、馬鹿!毒だって言ってるだろ!」
芳樹が叫ぶ。
クトゥルフは、その六つの瞳をぱちくりとさせた。
《……問題ない、よしき。……我の代謝機能は、この程度の毒物ならば瞬時に分解できる。……それよりも、この味……。……ほう……。なかなか複雑で、深淵な味わいだ……。……まるで暗黒星雲の塵芥を凝縮したかのような……》
彼女は、どうやらその毒入りスープの味を気に入ってしまったらしい。
彼女は芳樹の心配をよそに、次々と触腕を伸ばし、その冒涜的なる美味を堪能し始めた。
「あー!もう、どうなっても知らないからな!」
芳樹が頭を抱えた、その時。
ガチャン!という金属音がした。
クトゥルフがスープを飲み干した、その深皿の底。
そこには、一枚の小さな錆びついた鍵が残されていた。
「……鍵……?」
芳樹は恐る恐るその鍵を拾い上げる。
そして、机の引き出しの鍵穴へと差し込んでみた。
カチャリ、と軽い音を立てて鍵が回る。
引き出しが開いた。
中には、一枚の羊皮紙のような古びた紙切れが入っていた。
そこには、震えるような文字で、こう書かれていた。
『――扉は、真実を語る者に開かれる――』
『――合言葉は、「象は赤い」――』
「……象は、赤い……?」
意味が分からない。
芳樹が、その謎のメッセージを前に首を捻っていた、その時。
背後から尊大な声がした。
「フン、下らん謎解きか。……そんなもの、この王たる私の前では無意味だ」
ハスターだった。
彼は苛立ちを隠そうともせずに、再びコンクリートの壁の前に立っていた。
「合言葉?真実?笑わせる。……この世の真実とはただ一つ!この私、ハスターが全てを支配する、ということだ!」
彼はそう叫ぶと、先ほどよりもさらに強大な黄金のオーラをその両手に集中させ始めた。
「異質な素材?時空間の歪み?知ったことか!我が真の力を思い知るがいい!」
彼は、その神の力の全てを込めて、壁へと拳を叩きつけようとした。
「あ!やめろ、ハスター!」
芳樹が叫んだ、その瞬間。
壁がまるで生きているかのように、その性質を変えた。
コンクリートの冷たい無機質な表面が、ぶよぶよとした柔らかい肉のような質感へと変化したのだ。
ハスターの渾身の拳は、その弾力のある肉壁にずぶりとめり込み、その破壊のエネルギーは全て吸収されてしまった。
そして、その肉壁は、まるで巨大な口のようにハスターの腕に絡みつき、彼を壁の中へと引きずり込もうとしたのだ。
「なっ……!?離せ、この下等な肉塊めが!」
ハスターが必死に抵抗する。
芳樹は、そのあまりにもグロテスクで冒涜的な光景に悲鳴を上げそうになった。
その時、部屋の隅で、それまで微動だにしなかった黒い毛玉が動いた。
ツァトゥグァだった。
彼は心底面倒くさそうに、一つ大きなあくびをすると、その短い前足で近くの床をぽんと叩いた。
それだけだった。
だが、その瞬間、ハスターを飲み込もうとしていた肉壁の動きがぴたりと止まった。
そして、まるで急速に腐敗していくかのように、その色を失い、ぼろぼろと崩れ落ちていった。
ハスターは解放され、忌々しげに自らの腕に付着した粘液を払い落としている。
ツァトゥグァは、再び元の体勢に戻ると、壁に向かって一言だけ呟いた。
「…………うるさい」
どうやら、彼の眠りを妨げた壁の動きが、彼の逆鱗に触れたらしい。
部屋には、しばしの静寂が訪れた。
芳樹は改めて、自分がとんでもないメンバーと一緒に閉じ込められてしまったことを実感していた。
こいつらがいれば、どんな密室トリックも力技で破壊されてしまう。
だが、その破壊が更なる混沌を招く。
一体、どうすればいいのか。
彼はもう一度、メモに書かれた合言葉を見つめた。
『象は赤い』。
真実を語る者に、扉は開かれる。
その時、芳樹の脳内に一つの可能性が閃いた。
まさか。
彼は恐る恐る、部屋の何もない壁に向かって呟いてみた。
「…………象は、赤い…………?」
何も起こらない。
やはり違うのか。
そう、思ったその時。
壁の向こう側から、くぐもった、しかし明らかに苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。
それは、まるで巨大な象が鼻を詰まらせたような、奇妙な響きを持っていた。
『―――違う!そうじゃない!もっと魂を込めて、真実を叫ぶのだ!―――』
芳樹は確信した。
この部屋の外に「誰か」がいる。
そして、その「誰か」は、この茶番劇の主催者であり、そして、この混沌とした状況に頭を抱えている哀れな存在なのだ、と。
芳樹は意を決して、もう一度、今度は腹の底から叫んだ。
「―――象は、赤いッ!!―――」
その瞬間、芳樹の目の前の壁が、まるで最初からそこには何もなかったかのように、すっと消え失せた。
その向こう側には、見慣れた我が家の廊下が広がっていた。
そして、その廊下の隅で。
巨大な石の象のような頭部を持ち、しかし、その体は奇妙にずんぐりとした冒涜的なる神。
チャウグナー・フォーンが、その石の額に手を当て、まるでひどい頭痛をこらえるかのように蹲っていた。
その口元からは、低く呻くような声が漏れていた。
『…………もう二度と……。二度と、こんな面倒な神々を相手にゲームなど仕掛けるものか…………。……胃が痛い…………』
芳樹は、そのあまりにも人間臭い神の嘆きを聞きながら、ただ苦笑するしかなかった。
どうやら、今回もまた、自分たちはとんでもない厄介事に巻き込まれていただけらしい。
彼は、未だ状況を理解していないハスターとクトゥルフを促し、そして炬燵の中で再び眠りにつこうとしているツァトゥグァを半ば引きずるようにして、その奇妙な立方体の部屋から脱出したのだった。




