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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第四十一話 赤紫市消失

そのスイッチが押された瞬間、世界は死んだ。菊池芳樹は、その終焉の最初の産声を星辰タワーの最上階で聞いた。それは、音という空気を媒体として伝わる矮小な物理現象ではない。それは、空間そのものが断末魔を上げる軋みの音。時間という不可逆であるはずの概念が、その背骨を砕かれる音。


タワーの遥か地下深く。そして同時に芳樹のあの古民家の、さらに地下深く。二つの座標から巨大な光の柱が天を衝いた。光ではない。それは、この三次元空間に無理やりこじ開けられた高次元空間への裂け目、世界の傷口。傷口から溢れ出してきたのは、純粋なエネルギーの奔流だった。その光に色はない。だが、それを見た芳樹の脳の視神経は、そのあまりにも膨大な情報の奔流を処理しきれず、存在しないはずの全ての色を同時に認識した。赤、青、緑、黄。そして、人間の網膜では決して捉えることのできない、星々の彼方の色。芳樹は、その暴力的なまでの光の洪水に目を焼かれ、思わず腕で顔を覆った。


数秒か、あるいは数時間か。時間の感覚すらも麻痺した後。芳樹はおそるおそる目を開けた。そして、彼は自らが、もはや自分の知っている世界にはいないことを悟った。


星辰タワーの砕け散った窓の外。そこに広がっていたのは、彼が知っている赤紫市の風景ではなかった。空はまるで巨大な殴打痕のように、禍々しい赤紫色に染まっている。そこに浮かぶ雲はねじ曲がった苦悶の表情を浮かべた人間の顔の形をしていた。星々が瞬いていた。だが、それは北極星もオリオン座も存在しない、全く未知の星図だった。それぞれの星が放つ光は、どこか不吉で病的な色を帯びている。そして眼下の街並み。ビルや家々の輪郭が、まるで熱せられた蝋細工のようにぐにゃりと歪んでいる。直線は存在せず、全ての建物が人間の平衡感覚を狂わせる、冒涜的な角度で傾いている。地面はアスファルトではなかった。それはまるで巨大な生き物の皮膚のように柔らかく、そして時折心臓のようにゆっくりと脈動していた。


赤紫市は、物理的に地球から切り離され、どこか別の悪夢の次元へと完全に転移してしまったのだ。


---


星辰タワー、最上階。その狂った世界の中心で。御子神珠子は玉座から立ち上がり、その両腕を広げ、恍惚とした表情で、その変貌していく街を見下ろしていた。


「―――見なさい」彼女の乾いた、しかし神々しさすら感じさせる声が響き渡る。「―――これこそが、我が星辰グループが永きに渡り目指してきた、新世界の夜明け」「―――全ての不確定要素カオスが排除され、完全な秩序コスモスだけが存在する、美しき箱庭ですわ」


彼女がそう宣言した瞬間。「星の扉」から溢れ出した純粋な秩序のエネルギーが街に満ちていく。それは目に見えない、しかし抗いがたい精神の波動となって、市内に残された全ての人間の魂へと降り注いだ。


芳樹は見た。眼下の路上で何が起きているかを。それまで恐慌状態に陥り逃げ惑っていた人々が、ぴたりとその動きを止めた。そしてまるで、見えざる指揮者に操られるかのように、一斉に同じ方向を向き、天を仰いだ。彼らの顔から恐怖も絶望も全ての感情が抜け落ちていく。その瞳から光が消えていく。彼らはもはや個人ではなかった。星辰グループが管理する巨大なネットワークに、その精神を接続されたただの端末。感情のない、思考のない、完璧に統制された人形。


芳樹は、その中に見つけてしまった。千夏の姿を。門倉の姿を。彼らもまた、他の全ての人々と、同じように虚ろな瞳で天を仰いでいる。芳樹は叫んだ。「……やめろ……!やめてくれ……!」だが、その悲痛な声は誰にも届かない。


---


しかし。扉から溢れ出してきたのは、秩序のエネルギーだけではなかった。御子神珠子のその完璧な計算の中に、一つだけ致命的な誤算があった。「星の扉」は、彼女が考えていたような単純なエネルギーの蛇口などではなかったのだ。それは、異なる宇宙へと繋がる裂け目。そしてその裂け目の向こう側。そこは、彼女が夢想したような完璧な秩序の世界などでは断じてなかった。そこはただ純粋な混沌と飢えだけが支配する、冒涜的なる次元だった。


その世界の住人たちが、この新しい餌場を見逃すはずもなかった。赤紫色の空に新たな裂け目が走る。そこからぬるりと、冒涜的なる怪物たちがこの世界へと侵入を始めてきた。それは、地球上のどんな生物とも似ていなかった。あるものは無数の眼球が埋め込まれた巨大な肉の塊。あるものはガラス細工のように透き通った体を持つ、昆虫と植物の合成生物。あるものは特定の形を持たない影そのものが意思を持ったかのような、不定形の捕食者。彼らは歓喜の奇声を上げながら地上へと舞い降り、そして手当たり次第に人形と化した人間たちを襲い始めた。


それは、まさに地獄絵図だった。御子神珠子の歪んだ理想郷は、彼女が創造したその瞬間に、彼女の理解を超えた混沌によって汚され、喰らい尽くされようとしていたのだ。


星辰タワーの内部もまた、三つ巴の地獄と化していた。クトゥルフとハスターは、星辰グループの兵士たちと戦いながらも、次々とタワーの壁を突き破って侵入してくる異次元の怪物にも対処しなければならなかった。最上階の会長室では、鋼塚が、「会長の理想の世界を汚す塵芥どもめ!」と、その鋼鉄の拳で侵入してきた肉塊の怪物を迎え撃っている。


芳樹は、その混沌の渦の中心で、この街で起こっていることの本当の意味を理解した。星辰グループは、人類を救うためではなく、自分たちの歪んだ理想のために世界を造り変えようとしていた。そして、そのために開いたパンドラの箱が、世界そのものを終わらせる本当の厄災を呼び込んでしまったのだ。


彼の心の中を絶対的な無力感が支配する。「自分に何ができる?この神々と怪物と狂信者たちが入り乱れる地獄の中で、自分という矮小な人間一人に、一体何ができるというのだ」その時、彼の耳の通信機からノイズ混じりのミ=ゴの声が届いた。その声は、いつもとは違う明確な絶望の色を帯びていた。


『――報告シマス。……赤紫市ヲ覆ウ時空断層、完全ニ安定化シマシタ。……外部ノ地球宇宙カラノ、物理的及ビ精神的干渉ハ、完全ニ不可能。……我々ハ……コノ狂ッタ次元ニ完全ニ閉ジ込メラレマシタ――』


最後の希望が潰えた。秩序を押し付ける支配者。世界を喰らう怪物。そして為す術もなく人形と化していく友人たち。四方を敵に囲まれた完全なる絶望。「……終わった……」芳樹は、その場に膝から崩れ落ちた。「……もう、どうしようも、ない……」


彼の瞳から光が消えかけたその瞬間。彼の脳裏に、一つの言葉が稲妻のように閃いた。かつてツァトゥグァと解読した、あの古文書の一節。


『――混沌の主が、戯れに遺した、世界の綻び――』


綻び。この完璧な絶望の中に、ある唯一の綻び。星辰グループの秩序の支配。異次元の怪物の混沌の侵食。そのどちらの力もまだ及んでいない場所。この狂った次元の中で唯一、元の地球の法則をかろうじて保っている聖域サンクチュアリ。それはツァトゥグァが言っていたもう一つの言葉。


『――この土地は、“アイツ”の、お気に入りの遊び場だからな――』


そうだ。奈々瀬拓人。あの道化は、自らの最高の観客席であるあの場所だけは、まだ手付かずに残しているはずだ。芳樹の心の中に最後の希望の火が灯った。彼は顔を上げた。その瞳には再び戦士の光が宿っていた。彼は通信機に向かって叫んだ。それは敗走の命令ではなかった。新たなる戦いへの始まりを告げる鬨の声だった。


「――みんな、聞け!家に帰るぞ!あそこが、俺たちの最後の砦だ!――」

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