第四十話 天を衝く塔、地に満ちる神々
音が砕け散った。それは、ただのガラスが割れる音ではなかった。世界そのものを覆っていた一枚の巨大な鏡が、粉々に砕け散る音。あるいは、凍てついていた時間の流れが、その枷を破壊され、再び奔流となって溢れ出す音。星辰タワーを卵の殻のように覆っていた白金の対神話存在結界が、菊池芳樹のその命を懸けた一撃によって、内側から完全に崩壊したのだ。
制御室の巨大なクリスタルの柱が、甲高い悲鳴のような共振音を響かせながら無数の亀裂を走らせ、その内部に閉じ込めていた冒涜的なまでのエネルギーを、光の粒子として四方八方へと撒き散らす。その光の奔流の中で、芳樹は確かに聞いた。長い長い沈黙を破って、耳の奥の通信機から届いた仲間たちの声を。
『――結界、完全消滅!……全軍、突入セヨ!――』
ミ=ゴの冷静な、しかしどこか歓喜に震えているかのような、その号令。それは、この絶望的な戦況を覆す反撃の狼煙だった。芳樹は、その場にへなへなと座り込んだ。疲労と安堵。そして、これから始まるであろう本当の地獄を前にした最後の静寂。彼のすぐ目の前では、クトゥルフの神格エネルギーの直撃を受け、システムがショートした鋼塚が、火花を散らしながら再起動を試みている。だが、もはや芳樹は一人ではなかった。彼はやり遂げたのだ。仲間たちが来る。その確信だけが、彼の、かろうじて保っていた意識を繋ぎとめていた。
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そして、神々の進撃は始まった。それは、人間の戦争などという矮小な概念では、到底表現できない**神話的スケール**の蹂躙だった。
まず、動いたのは空。それまで星辰タワーの遥か上空、成層圏の近くで待機していたハスターが、その身を投げ出した。彼は落下しながら、その全身から黄金の嵐を解き放つ。彼の周囲の大気が唸りを上げ、一つの巨大な渦となって彼を中心に回転を始める。それは、もはやただの竜巻ではなかった。**神の怒りそのものが具現化した、天を衝く巨大な破壊の柱**。そして、その嵐の中から無数の異形の影が姿を現した。バイアクヘー。星々の間を駆ける忌まわしき神々の乗騎。カラスのようでもあり、モグラのようでもあり、そして腐敗した人間のようでもある、その冒涜的なる合成獣の群れが、ハスターを王として戴き、星辰タワーの上層階へと突撃を開始する。
「―――待たせたな、我が伴侶よ!」
嵐の中心からハスターの朗々とした声が響き渡る。「―――この黄衣の王が直々に迎えに来てやったぞ!せいぜい我が華麗なる戦いぶりを、目に焼き付けるがいい!」バイアクヘーの群れが、強化ガラスをまるで薄紙のように突き破り、タワーの内部へと侵入していく。ハスター自身は、その竜巻と共にタワーの最上階、その外壁へと激突した。轟音。王の怒りの一撃は、鋼鉄と魔術で固められたタワーの壁をいとも容易く粉砕した。
次に、動いたのは地。タワーの麓で待機していたミ=ゴの数機の小型円盤が、一斉にその砲門を開いた。放たれたのは光線ではなかった。空間そのものを歪ませる重力弾。あるいは敵の精神を直接揺さぶる不協和音の衝撃波。ミ=ゴの援護射撃が、タワーの地上エントランスを守る星辰グループの防衛部隊の陣形を切り裂いていく。
そして、その援護を受けて。これまで炬燵の中から一歩も動かなかったあの怠惰なる神が、その真価を発揮した。ツァトゥグァは、芳樹の家の炬燵の中に座ったまま、その意識のほんの一欠片だけを戦場へと飛ばしていた。だが、それだけで十分だった。星辰タワーの麓。頑強なアスファルトで舗装されていたはずの地面が、まるで黒い粘土のように、その性質を変え始めた。それは瞬く間に黒く、重く、そして冷たい底なしの沼へと変貌していく。その沼の表面からは、まるで死者の腕のように無数の黒い不定形の触手が伸び、敵の増援として駆けつけようとしていた装甲車両のキャタピラに絡みつき、その巨体を地中深くへと引きずり込んでいく。「な、なんだ、これは!?」「地面が沈む!」兵士たちの悲鳴が響き渡る。ツァトゥグァは、芳樹の家の炬燵の中で一つ大きなあくびをすると、こう呟いた。「…………ここまで、来てやったのだ。…………感謝、しろよ。人間……」
そして最後に。最も恐ろしく、そして最も冒涜的なる侵攻が始まった。星辰タワーの地下深く。そこには、この巨大な建造物の全ての水を賄う巨大な貯水槽があった。その静かな水面がにわかに黒く濁り始めた。まるで一滴のインクを水に落としたかのように、その黒は急速に広がっていく。そしてその水は、もはやただの水ではなかった。それは、塩の香りと深淵の匂いを帯びた**ルルイエの聖水**。その黒い水の中から一本、また一本と緑色の巨大な触腕が姿を現した。クトゥルフ。彼女は、タワーの配水管という配水管を、自らの体の一部を送り込むための血管として利用したのだ。タワーの内部。トイレの便器から、スプリンクラーの放水口から、給湯室の蛇口から、緑色の触腕が溢れ出し、兵士たちに襲いかかる。それは、もはや戦闘ではなかった。巨大な生物の体内に侵入してしまった哀れな細菌を、白血球が駆除していくかのような一方的な捕食。星辰タワーは、内側からクトゥルフという巨大な神に喰われ、そして同化されようとしていた。
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その頃、タワーの最上階。制御室では、芳樹がシステムショートから回復した鋼塚と再び対峙していた。クトゥルフの力を使い切ってしまった芳樹は、もはや丸腰だった。
「……小僧、よくも、やってくれたな」
鋼塚の合成音声には、初めて明確な怒りの色が宿っていた。彼がその鋼鉄の拳を振り上げ、芳樹にとどめを刺そうとした、その瞬間。ゴオオオオオオッ!部屋の天井が轟音と共に吹き飛んだ。瓦礫と粉塵の雨の中、風と共に舞い降りてきたのは、黄金の衣を纏ったハスターだった。彼は、芳樹と鋼塚の間に割って入ると、その美しい顔に不敵な笑みを浮かべた。
「――貴様の相手は、この私だ。――二度も、我が伴侶に、指図するな、鉄屑が」
ハスターと鋼塚。因縁の第二ラウンドが始まろうとしていた。だが、鋼塚にはもはや勝機はなかった。彼の足元の床から。ずぶり、と。緑色の巨大な触腕が、まるで巨大な植物の芽のように突き出し、芳樹の体を壊れ物を扱うかのように優しく包み込み、安全な場所へと退避させたのだ。芳樹は、そのひんやりとした、しかしどこまでも頼もしい感触に包まれながら、安堵の息をついた。彼は、もう一人ではなかった。
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その頃。タワーのさらに上階。会長室。御子神珠子は、巨大なモニターに映し出される、その阿鼻叫喚の地獄絵図を表情一つ変えることなく、静かに見つめていた。彼女のその白濁した瞳には、焦りも恐怖もない。ただ冷徹な計算だけがそこにあった。「…………計算外の、混沌。……ですが、これもまた、想定の範囲内」「……『星の扉』の覚醒が、少しだけ早まるだけの、ことですわ」彼女は、玉座の肘掛けに隠されていた一つの紅いスイッチに、その皺だらけの指を伸ばした。
そしてタワーの中層階。吹き抜けの手すりに腰掛け、眼下の戦場を、まるでオペラでも鑑賞するかのように楽しげに眺めている一人の美青年がいた。奈々瀬拓人。彼は、どこからか取り出したポップコーン(のような、虹色に輝く未知の物質)を口に運びながら、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。「ああ、素晴らしい!最高だ!これだよ、僕が、見たかった混沌は!頑張れ、頑張れ、僕の愛しき役者たち!」
そして、御子神珠子の指が紅いスイッチを押し込んだ。その瞬間。タワー全体が、これまでとは比較にならないほど激しく振動した。地下深くから強大なエネルギーが溢れ出し始める。「星の扉」が、外部からの刺激によって強制的にこじ開けられようとしていた。赤紫市、全体の空が異次元の光に完全に包まれていく。
本当の終焉は、今まさに始まろうとしていた。




