第四話 初めてのおつかいと風の足音
古民家での新生活は、広さと、そして圧倒的な静けさと共に始まった。
あれほど芳樹を恐怖させたポルターガイスト現象は、あの日以来、嘘のように鳴りを潜めている。この家の霊たちは、新たなる支配者の前では、息を殺して震えているに違いなかった。芳樹は、自分がかつて幽霊を怖がっていたことなど、遥か遠い昔の出来事のように感じていた。より上位の、規格外の恐怖が隣で寝起きしているのだ。もはや、少々の怪奇現象では彼のSAN値は揺るがない。
問題は、もっと現実的な、そして切実な事柄だった。
「……腹、減った……」
がらんとした台所で、芳樹は腹を押さえながら呟く。引っ越しのドタバタで、食料は完全に底をついていた。大学の学食で済ませることもできるが、問題は、この家にいるもう一柱の同居人だ。
芳樹は、縁側で日向ぼっこをしている(ように見える)クトゥルフに、恐る恐る尋ねた。
「なあ……お前、腹とか減らないのか?」
クトゥルフは、ゆっくりと六つの瞳を芳樹に向けた。
《是。我が肉体は、恒星の熱量と深淵の暗黒物質を糧とする。だが、この惑星の有機物を摂取することに、やぶさかではない》
「……そうか。じゃあ、何か食うか?」
《是》
短い肯定。だが、芳樹には何を食べさせればいいのか、皆目見当もつかなかった。昨夜は、試しに台所の隅にあった干からびた昆布を与えてみたところ、彼女はそれを興味深そうに触腕でつまみ、美味しそうに(見えた)食べていた。だが、昆布だけでは栄養が偏るだろう。そもそも、神の栄養バランスなど、芳樹の知るところではないのだが。
まずは、人間の食料を買い出しに行かなければ。
芳樹は、ガレージに眠る愛車、SR400のキーを手に取った。幸い、この家には広大なガレージがついており、バイクの整備にはうってつけだった。
「俺、ちょっと麓の商店まで買い出しに行ってくる。お前は、ここで留守番しててくれ。いいな?」
芳樹は、念を押すようにクトゥルフに言い聞かせた。彼女は、こくりと、巨大な頭部を縦に振った(ように見えた)。
その反応に安堵し、芳樹はバイクに跨る。キックペダルを力強く踏み下ろすと、シングルエンジンが、心地よい鼓動を響かせて目を覚ました。砂利道をゆっくりと進み、公道へ。風が頬を撫でる。やはり、バイクは最高だ。この瞬間だけは、あの冒涜的な同居人のことを忘れられる――
そう思った、矢先だった。
ぐん、と。
バイクの後部が、不自然に沈み込んだ。まるで、大人の象が、いきなり後ろに乗ってきたかのような、物理法則を無視した重量の増加。
芳樹が、冷や汗を流しながら、サイドミラーを恐る恐る覗き込む。
そこには、当たり前のように、クトゥルフが鎮座していた。
彼女は、その巨体をどうやってバイクの小さなタンデムシートに収めているのか、芳樹には全く理解できなかった。おそらくは、四次元的な何かが作用しているのだろう。彼女は、芳樹の肩にそっと鉤爪のついた手を置き、六つの瞳で、前方を見据えている。
「うわあああああああああああっ!?」
芳樹の絶叫が、長閑な田園風景に木霊した。バイクは大きく蛇行し、危うく対向車線の軽トラックと正面衝突するところだった。
《契約通り、そばにいる》
脳内に、悪びれる様子の全くない、平坦なテレパシーが響く。そうだ、忘れていた。こいつは、永劫に俺のそばにいると誓ったのだ。物理的な距離を、ゼロにしようとしてくるのだ。
これでは、買い物どころか、大学にも行けない。
芳樹は、必死にバイクを立て直し、泣きながら家へと引き返した。
何か、方法を考えなければ。
家にこもり、腕を組んでうんうん唸る芳樹。その傍らで、クトゥルフは、ただ静かに彼を見つめている。
スーパーに連れて行くなど、論外だ。入店した瞬間に、店がパニックに陥る。
では、どうするか。
その時、芳樹の脳裏に、子供の頃に見た、あるテレビ番組の光景が蘇った。
幼い子供が、たった一人で、母親から頼まれたお使いに挑戦する、あの国民的番組。
――初めての、おつかい。
「…………これだ」
芳樹の目に、微かな光が宿った。相手は、神。それも、旧支配者と呼ばれる、宇宙的恐怖の象徴。だが、この地球の文化や常識については、生まれたての赤子同然だ。ならば、教育するしかない。
芳樹は、チラシの裏に、震える字で、三つの単語を書き付けた。
「いいか、よく聞け。これが、今日のミッションだ」
彼は、クトゥルフの眼前に、その紙を突きつける。そこには、「しょうゆ」「みそ」「とうふ」と書かれていた。
「これを、山の麓にある『安田商店』で買ってくるんだ。できるか?」
クトゥルフは、その紙を、六つの瞳でじっと見つめている。やがて、テレパシーが返ってきた。
《ショウユ……ミソ……トウフ……。了解した。目標、認識》
「よし! じゃあ、頼んだぞ!」
芳樹が言うと、クトゥルフは頷き、玄関へ……は向かわず、近くの壁に向かって、すっと体を通し、そのまま外へと消えていった。まるで、そこに壁など存在しないかのように。
「……壁、使えよな……」
芳樹は、一人ごちると、慌てて後を追いかけた。いくらなんでも、神様一人を、麓の商店に行かせるわけにはいかない。こっそりと後をつけ、監視するのだ。
安田商店は、芳樹が子供の頃から何も変わらない、古びた個人商店だった。店先には、色褪せた塩の看板がぶら下がり、店の中からは、人の良さそうな店主のおばあさんが、のんびりと店番をしているのが見える。
そこへ、クトゥルフが、ぬっと姿を現した。
おばあさんは、その異様な姿に、一瞬、目を丸くした。彼女の目には、クトゥルフの冒涜的な姿は、おそらく「緑色の肌をした、やたらと体格のいい、奇抜な格好の外国人女性」として映っているのだろう。認識阻害の力は、完璧に機能しているようだった。
「あらまあ……外国のお嬢さんかい? 何かご用?」
おばあさんの優しい問いかけに、クトゥルフは、芳樹から渡されたメモを、無言で差し出した。
「あらあら、日本語のメモかい。勉強熱心だねえ。えーっと、『しょうゆ』と『みそ』と『とうふ』だね。はいよ、ちょっと待っててね」
おばあさんが、店の奥へと消えていく。
電信柱の影から、その光景を固唾を飲んで見守っていた芳樹は、ほっと胸を撫で下ろした。
(いける! これなら、いけるぞ!)
だが、安堵したのも束の間だった。
店の奥から戻ってきたおばあさんは、醤油と味噌をカウンターに置くと、困ったような顔で言った。
「ごめんねえ、お嬢さん。豆腐は、今朝ので売り切れちゃったんだよ。また明日、入るんだけどねえ」
まずい、と芳樹は思った。
イレギュラーな事態だ。果たして、クトゥルフに、この状況が理解できるだろうか。
クトゥルフは、カウンターに置かれた二つの品と、空っぽの豆腐のケースを、六つの瞳で交互に見比べている。
やがて、彼女はゆっくりと芳樹のいる方角を向き、テレパシーを送ってきた。
《よしき。トウフが、ない。ミッションの遂行、不可能》
(だよな! そうなるよな! もういい、それで帰ってこい!)
芳樹が、必死にジェスチャーで「OK! 戻れ!」と伝えようとした、その時。
クトゥルフは、おもむろに店の外を指さした。
《……よしき。あれは、トウフか?》
彼女が指さしていたのは、店の前に設置されている、四角くて白い、郵便ポストだった。
(違う! 断じて違う!)
芳樹は、首がもげるほど、横に振る。
《では、あれか?》
次に彼女が指さしたのは、道路の向かいにある、豆腐屋の……看板だった。
(惜しい! すごく惜しいけど、違うんだ!)
《……理解不能。トウフの定義、不明瞭》
クトゥルフは、完全に混乱しているようだった。彼女は、手当たり次第に、四角くて白いものを指さし始めた。通り過ぎる軽トラック、近くの家の塀、電信柱についている変圧器……。
そのたびに、芳樹は、物陰から「違う、違う!」と、血の涙を流しながら無言のジェスチャーを送り続ける。
おばあさんは、そんな奇行を繰り返すクトゥルフを、ただただ、困惑した顔で見守っている。
このシュールで、絶望的な光景は、近所の豆腐屋のおじさんが、配達の帰りに通りかかり、「ああ、お豆腐なら、うちにまだあるよ!」と声をかけるまで、十分近くも続いたのだった。
なんとか三つの品を買い揃え、家に帰還したクトゥルフ。
芳樹は、心身ともに疲れ果てていた。だが、目の前には、人生で(おそらく)初めてのおつかいをやり遂げた、一体の邪神がいる。
彼は、自然と、その巨大な頭部(らしき場所)に手を伸ばし、わしわしと撫でていた。
「……すごいじゃないか。ありがとうな、助かったよ」
その時、芳樹は、確かに感じた。
クトゥルフの六つの瞳が、ほんの一瞬だけ、嬉しそうに、そして誇らしそうに、輝いたように見えたのだ。
彼らの間に、ほんの少しだけ、確かに、絆のようなものが芽生えた瞬間だった。
その夜。
芳樹は、大学のレポートの作成に追われていた。昼間の騒動で、全く手をつけていなかったのだ。
静かな部屋に、キーボードを叩く音だけが響く。クトゥルフは、部屋の隅で、まるで巨大な置物のように、静かにしている。今日の出来事に満足したのか、あるいは疲れたのか。
穏やかな時間。このまま、何事もなければいい。
そう思った、矢先だった。
びゅう、と。
家の外で、突如として、激しい風が吹き荒れ始めた。古い木造の家が、ガタガタと嫌な音を立てて揺れる。ただの風ではない。その音には、明確な意思と、不吉な意志が宿っているようだった。
風の音に混じって、声が聞こえた。
まるで、舞台役者のように、朗々と、そして尊大に響き渡る、男の声。
『――見つけたぞ、クトゥルフ! そして、その傍らに侍る、定命の者よ!』
芳樹は、弾かれたように窓の外を見た。
雲間から覗く、満月。その月明かりを背に、古民家の屋根の上に、黄色い衣を纏った、長身の人影が立っているのが見えた。
その瞬間、部屋の隅で静かにしていたクトゥルフの雰囲気が、一変した。
彼女の体から、明確な敵意と、宇宙的な憎悪が、まるで黒いオーラのように立ち昇る。彼女は、ゆっくりと立ち上がり、屋根の上の人影に向かって、臨戦態勢をとった。
屋根の上の人影――ハスターは、眼下のクトゥルフを一瞥すると、興味なさそうに鼻を鳴らし、その視線を、部屋の中で呆然とする芳樹へと向けた。
そして、信じられないほど優雅な動作で、恭しくお辞儀をしてみせた。
『我が名はハスター。お初にお目にかかる、未来の我が伴侶よ』
「……は……? はんりょ……?」
芳樹の、間抜けな声が、風の唸りの中に消えていく。
クトゥルフとハスターのにらみ合い。その中心で、一人の大学生が、ただただ、震えている。
彼のSAN値と、そして、なぜかラブコメゲージが、同時に振り切れそうになっていた。




