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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第三十九話 裏切りの道化師(ジョーカー・イン・ザ・ホール)

絶望には、色も音も匂いもない。それは、ただ純粋な虚無。菊池芳樹は、その絶対的な虚無の冷たい中心にいた。星辰グループ本社タワー、その地下深く。窓一つない、だだっ広い格納庫。彼の体は、魔術的なエネルギーを帯びた、金属製の枷によって壁に拘束されていた。


目の前には、鋼鉄の巨人、鋼塚が、まるで巨大な墓石のように静かにたたずんでいる。彼の単眼のカメラレンズが、時折赤い光を明滅させ、芳樹の生命反応を無機質にスキャンしていた。耳に装着されていたはずの、ミ=ゴ製の超小型通信機は、強力なジャミングによって完全に沈黙している。仲間たちの声はもう聞こえない。彼は完全に孤立した。そして何よりも、彼の心を絶望の淵へと叩き落としていたのは、鋼塚が告げたあの言葉だった。『――君のような、矮小なネズミが入り込むことは、全て計算通りだ――』自分の覚悟も、仲間たちの援護も、全て敵の掌の上で踊らされていたに過ぎなかった。自分は、ただ敵を油断させるための、哀れな囮。そして自分自身が、「星の扉」を制御するための生体キーとして利用される。芳樹は唇を噛み締めた。悔しさよりも先に、込み上げてきたのは、自分自身の無力さに対するどうしようもない絶望感だった。


その重苦しい沈黙を破ったのは、第三者の声だった。「――やあ、困ってる、みたいだね。……助けてあげようか?――」


芳樹ははっと顔を上げた。格納庫の暗がりから音もなく姿を現したのは、奈々瀬拓人だった。彼は、星辰グループの機能美だけを追求した灰色の制服に身を包んでいた。そのあまりにも完璧な美貌は、この無機質な空間の中で異様なほど際立って見えた。


鋼塚がその鋼鉄の頭部を奈々瀬へと向ける。「……奈々瀬コンサルタント。……ここは、君の管轄では、ないはずだが」

「まあ、そう言わないでくれたまえ、鋼塚執行官」奈々瀬は優雅に肩をすくめた。「僕は、ただ、この物語の主演男優が、こんな序盤で退場してしまうのは、あまりにも退屈だ、と思っているだけさ。……会長も、そうお考えのはずだよ」


鋼塚は、しばし沈黙した。彼の単眼のレンズの奥で、高速な思考が行われているのが分かった。やがて、彼は合成音声で告げた。「……会長への状況報告を行う。……五分間だけだ。……その間に、このネズミが逃げ出すようなことがあれば、君の責任問題として、上に報告させてもらう」それだけを言うと、鋼塚は、その重々しい金属音を響かせながら格納庫の出口へと向かい、その分厚い隔壁の向こう側へと消えていった。残されたのは芳樹と、そして千の貌を持つ道化師だけだった。


---


奈々瀬は、まるで自分の書斎を歩くかのようにゆっくりと芳樹に近づいてくる。そして、その美しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。「さて、と。……君は、僕がなぜ星辰グループに協力しているか、不思議に思っているだろう?」「…………」芳樹は答えない。ただ憎悪に満ちた瞳で彼を睨みつけるだけだ。


「答えは、簡単さ。……退屈、だからだよ」奈々瀬は心底楽しそうに続けた。「御子神珠子……あの老婆が目指す世界。……感情も、思考も、統制された、完璧な秩序の世界。……想像しただけで、あくびが出る。……そんな完璧で、予測可能な世界など、僕にとっては地獄そのものだ」「それに比べて、君たちはどうだい?」彼の瞳が愉悦に細められる。「予測不能な混沌。……不器用な絆。……滑稽なまでの愛。……ああ、素晴らしい!君たちのそのちっぽけな物語は、僕にとって、最高のエンターテイメントなのさ!」「だから、助けてあげる。……勘違い、しないでくれよ?僕は、君の味方じゃ、ない。……ただ、君たちの喜劇が、こんな陳腐で退屈な悲劇で終わってしまうのは、見ていられないだけさ」


彼は、芳樹の拘束を指先で軽く触れた。その瞬間、魔術的なエネルギーを帯びていた金属の枷が、まるでただのブリキの玩具のように、ぱきん、という乾いた音を立てて砕け散った。「これは、僕からの、ほんの気まぐれ。……そして、先行投資だよ。……君が、この先、僕を、もっともっと楽しませてくれることへの、ね」彼は、芳樹の胸ポケットに、一枚のカードキーと、小さなマイクロチップを滑り込ませた。「そのカードキーで、このタワーのほとんどの扉は開く。……そして、そのチップには、最上階の制御室へと続く隠しルートのデータが、入っている。……警備員の巡回ルートも、おまけでつけておいたよ」


奈々瀬は、芳樹の耳元で囁いた。「――さあ、行くんだ、僕の、愛しき、道化師ピエロくん。……君の物語のクライマックスは、まだこれからだろう?――」その言葉を最後に、彼はまるで幻のように、格納庫の闇の中へと溶けるように消えていった。


---


芳樹は走った。奈々瀬が残していった隠しルート。それは、星辰タワーの華やかで無機質な表の顔とは、全く違う裏の顔だった。むき出しの配管が蠢く巨大なダクトの中。無数のサーバーが低い唸りを上げるデータセンターのメンテナンス用の通路。芳樹の頭の中は混乱していた。奈々瀬拓人。あの男は、敵なのか、味方なのか。いや、違う。彼はそのどちらでもない。彼はただの観客なのだ。自分たちが絶望し、苦しみ、そして足掻く、その様を特等席で眺めているだけの、悪趣味な観客。芳樹の心の中に、新たな怒りが込み上げてきた。


だが、今はその感情に浸っている時間はない。彼はただ走る。仲間たちが外で待っている。自分がこの結界を破壊しなければ、全てが終わる。だが、彼の心のどこか片隅で。一つの冷たい疑念が鎌首を擡げていた。これは本当に大丈夫なのか?あの奈々瀬拓人が、何の見返りも求めずに自分を助ける?ありえない。これはきっと、彼が描いた新たなる脚本の一ページに過ぎないのではないか。自分は彼の掌の上で踊らされているだけなのではないか。


その疑念は、彼がついに最上階の制御室へとたどり着いた、その瞬間、確信へと変わった。


そこは、神の仕事場とでも言うべき空間だった。部屋は巨大なドーム状になっており、その壁面全てがモニターとなっていた。そこには、赤紫市のありとあらゆる情報がリアルタイムで表示されている。交通量、電力消費量、そして全ての市民のバイタルデータ、果てはその脳波のパターンまで。星辰グループは、この街を完全に監視し、支配していたのだ。


そして、その部屋の中央。天を衝くように、一本の巨大なクリスタルの柱がそびえ立っていた。それは、ただの水晶ではなかった。その内部には、まるで銀河が閉じ込められているかのように、無数の光の粒子が渦巻き、脈動している。柱の表面には、古代のルーン文字と未来の電子回路が、冒涜的に融合した紋様が、浮かび上がっては消える。ぶううううううん、という魂の芯を直接震わせるような低いハミング。これこそが、対神話存在結界の心臓部。芳樹は息を呑んだ。


だが、彼がそのあまりにも荘厳で冒涜的な光景に見惚れていたのはほんの一瞬だった。彼は気づいた。そのクリスタルの柱の前に、一つの巨大な人影が立っていることに。鋼塚。彼は、まるで最初からそこで待っていたかのように、静かに芳樹の方を振り返った。


「―――道化に、踊らされたな、小僧」


その合成音声には、僅かな嘲笑の色が混じっていた。「奈々瀬拓人は、君を助けると同時に、その情報を私にも流していた。……彼が望んだのは、この舞台だ。……この制御室という、クライマックスの舞台で、君と私が再び対峙し、そして君が絶望する、その光景だ」「貴様の役割は、ここで終わりだ」


芳樹の最後の希望は打ち砕かれた。通信は回復しない。仲間もいない。そして、目の前には最強の番人。絶体絶命。鋼塚は、ゆっくりとその鋼鉄の腕を振り上げた。その拳が唸りを上げる。芳樹は死を覚悟した。


だが、その刹那。彼の脳裏に蘇る。仲間たちの顔。そして自らの腕に巻かれた腕時計。最後の切り札。彼は叫んだ。それは、もはやただの人間の声ではなかった。それは、一人の矮小な存在が、自らの魂を触媒として、遥か彼方の神へと呼びかける、祈りの言葉。


「―――今だ、くとぅるふっっ!!―――」


その叫びに呼応するように。芳樹の腕の腕時計型ガジェットが、まばゆい緑色の光を放った。封じ込められていた、クトゥルフの神格エネルギーが解放される。それは結界そのものを破壊するほどの力ではない。だが、この閉鎖された空間の中で、鋼塚のその科学と魔術のハイブリッドであるサイバネボディを、一時的にショートさせ、過負荷で麻痺させるには、十分すぎる力だった。


「なっ……!?」


鋼塚の動きが止まる。その全身からバチバチ、と激しい火花が散る。芳樹は、その千載一遇の好機を逃さなかった。彼は最後の力を振り絞り、走った。そしてその腕に宿した神の力の全てを込めて。腕時計型ガジェットを、巨大なクリスタルの柱のその心臓部へと叩きつけた。


その瞬間。彼の耳の通信機から、ノイズ混じりの、しかし確かな声が届いた。『――目標、制御コアに、内部より、接触!……結界、崩壊シークエンスを、開始します!――』ミ=ゴの冷静な声。


次の瞬間、芳樹の目の前で、巨大なクリスタルの柱が、まるで一枚の巨大なガラスのように、甲高い悲鳴を上げて砕け散った。そして、星辰タワーの外壁を覆っていた白金のエネルギーフィールドが、天を衝く巨大な鏡が砕け散るかのように、粉々に崩壊していく。


反撃の狼煙は上がった。

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