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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第三十八話 鋼鉄の塔への潜入(ダイブ・イントゥ・バベル)

その日は、冬の低い太陽が、まるで病み上がりの患者のように力なく地上を照らす、灰色の朝だった。菊池芳樹は、鏡に映る自分自身の姿を、これが最後の姿になるかもしれないという、漠然とした、しかし確かな予感を胸に、じっと見つめていた。そこに映っているのは、どこにでもいる、ごく普通の大学生だった。少しだけ寝癖のついた黒髪。睡眠不足で、目の下にはうっすらと隈が浮いている。着ているのは、量販店で買ったリクルートスーツ。今日の潜入作戦のための、完璧な擬態。


だが、その平凡な外見の、その下で。彼の心臓は、まるで壊れかけのエンジンのように、不規則で激しいビートを刻んでいた。掌には、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。これから、自分は死地へと向かうのだ。彼は、スーツの内ポケットにそっと手を忍ばせた。そこに収められているのは、ミ=ゴと夜を徹して作り上げた、腕時計型の潜入用ガジェット。そして、その装置の中央にはめ込まれた、小さな緑色の結晶体。クトゥルフの神格エネルギーの一部を封じ込めたお守り。その結晶体から、微かな、しかし確かな温もりが、彼の指先へと伝わってくる。それは、まるで暗闇の中でそっと握られた、彼女の手のように感じられた。


芳樹は、深呼吸を一つした。そして玄関のドアを開ける。「…………行ってくる」誰に言うでもなく、そう呟いた。リビングの暗がりから、三柱の神々の視線が、彼のその小さな背中に突き刺さっているのを、彼は感じていた。返事はなかった。ただ、彼の脳内に、一つだけ短いテレパシーが届いた。《…………死ぬなよ、よしき…………》クトゥルフのその言葉を胸に。芳樹は、二度と振り返ることなく、灰色の冬空の下へと、その一歩を踏み出した。


---


星辰グループ本社タワー。それは、赤紫市の中心部に、まるで天を衝く一本の黒い墓標のようにそびえ立っていた。ガラスと黒い鋼鉄で構成された、その摩天楼。その表面には、雲一つない冬の空が、まるで歪んだ鏡のように映り込み、見る者の方向感覚を狂わせる。芳樹は、その巨大な建造物を下から見上げた。その先端はあまりにも高く、霞んで見えない。まるで、人間の傲慢さと狂気を、そのまま天へと突き立てた、バベルの塔。


彼は、他のリクルートスーツ姿の学生たちの群れに紛れ込み、「企業インターンシップ説明会」という、あまりにも平和で、ありふれた名目で、その自動ドアをくぐった。その瞬間、芳樹は、自分が全く別の世界へと足を踏み入れたことを肌で感じた。外の喧騒が嘘のように消え失せる。そこは音のない世界だった。床は、磨き上げられた一枚岩の黒い大理石。壁も天井も、継ぎ目のない滑らかな白い金属でできている。空気は、濾過され、殺菌され、完璧な温度と湿度に保たれている。そこには、埃も匂いも、生活感という不確定要素も一切存在しない。


そして何よりも異様なのは、そこにいる社員たちだった。彼らは皆、寸分の狂いもない完璧な仕立ての、灰色の制服に身を包み、まるでアンドロイドのように無表情で無駄のない動きで働いている。彼らの間に会話はない。笑い声もない。ただ、キーボードを叩く規則正しいタイピングの音と、空調の低いハミングだけが、その巨大で静謐な空間に響き渡っていた。ここは、星辰グループが目指す究極の理想郷。感情という非効率的なバグを排除された、完璧なる秩序の世界。そのあまりにも美しく、そしてあまりにも死んだ光景に、芳樹は吐き気を覚えた。


彼の耳の奥。人間の耳垢に完璧に擬態した、ミ=ゴ製の超小型通信機から、冷静な電子音声が響いてきた。『――心拍数、上昇。アドレナリン、過剰分泌ヲ確認。……深呼吸シテクダサイ、芳樹サン。アナタハ、今、完璧ナ、一般人デス――』芳樹は、その言葉にかろうじて自分を取り戻した。


---


説明会が始まった。ホログラムの映像と合成音声による、完璧な、しかし魂の一切感じられないプレゼンテーション。芳樹は、その退屈な時間の隙を見て、そっと会場を抜け出した。トイレに行くふりをして。彼の孤独な戦いが始まった。彼の網膜には、ミ=ゴが外部からハッキングで送り込んでくる、このタワーの三次元マップが、ARとして表示されている。目的地は最上階。対神話存在結界を制御するメイン・コントロールルーム。


「……まず、監視カメラヲ、回避シマス。……前方、三十メートル。T字路ヲ、右」


ミ=ゴの冷静なナビゲーション。芳樹は息を殺し、壁に身を隠しながら進んでいく。だが、このタワーの警備システムは、ただの科学技術だけではなかった。廊下の壁に埋め込まれた青白い水晶。それは魔術的なオーラを感知するセンサーだった。『――警告。魔術探知機、接近。……アナタガ、所持シテイル、『神格エネルギーユニット』が、反応スル可能性アリマス――』


芳樹はポケットから小さな革袋を取り出した。中に入っているのは、門倉の魔導書の記述を元に、芳樹が自作したお守り。乾燥させたハーブと、鴉の羽、そして芳樹自身の爪の欠片を混ぜ合わせた、気配を晦ますためのチャフ。彼は、それを一握り取り出すと、換気口へとそっと投げ込んだ。フワリ、と舞い上がる灰色の粉。魔術センサーの青白い光が一瞬だけ赤く点滅し、そして再び元の色へと戻った。なんとか切り抜けた。芳樹は安堵の息をつく。


次なる障害は、空中を巡回する自律型の監視ドローンだった。それは、昆虫のような多関節のアームを持ち、その先端には、常に赤い光を放つカメラアイが取り付けられている。隠れる場所はない。芳樹の心臓が早鐘を打つ。『――待機。……今、外カラ、援護シマス――』ミ=ゴの声。次の瞬間、芳樹のすぐ横にある巨大な窓ガラスが、びゅう、と強い風を受けて、ガタガタと激しく揺れた。ハスターだ。彼は、この超高層ビルの遥か上空で待機し、ほんの僅かな風の渦を作り出して一点に集中させたのだ。その突然の異常な音に、監視ドローンはぴたりと動きを止め、そのカメラアイを窓ガラスへと向けた。その一瞬の隙。「――イマデス!走ッテ!」芳樹は全力で走った。心臓が破裂しそうだった。なんとかドローンの死角へと滑り込む。


そして、最後の難関。最上階へと続くエレベーターホールへと通じる分厚い鋼鉄の扉。そこには、指紋認証と網膜スキャン、そして魔術的な紋様が刻まれた三重のロックがかかっていた。『――コレハ、手強いデスネ。……ハッキングニ三分ホド、時間ガ、カカリマス。……ソレマデ、アナタハ、物理的ナ、バイパス回路ヲ、構築シテクダサイ――』ミ=ゴが、芳樹の網膜に複雑な電子回路の設計図を表示する。芳樹は、腕時計型のガジェットから細いワイヤーと精密ドライバーを取り出すと、認証パネルのカバーを開けた。無数の配線。冷や汗が彼の額を伝う。一本でも間違えれば警報が鳴り響き、全てが終わる。彼は、震える指先で慎重に配線を繋ぎ変えていく。


その時だった。廊下の向こう側から足音が聞こえてきた。規則正しい金属的な足音。サイバー魔術兵の巡回だ。芳樹の心臓が凍り付く。間に合わない。だが、その時。足音は、芳樹のいる通路の手前でぴたりと止まり、そして踵を返し、別の方向へと去っていった。『――フン。王ノ気マグレニ感謝スルガイイ――』通信機からハスターの不機嫌そうな、しかしどこか誇らしげな声が聞こえた。彼が、風を操り、廊下の向こう側で何か物音を立てて、兵士の注意を逸らしてくれたのだ。芳樹は、最後の配線を接続した。カチリ、という小さな音。鋼鉄の扉が音もなく横にスライドした。


---


ついにたどり着いた。最上階へと続くエレベーター。芳樹は安堵の息をついた。だが、その安堵こそが最大の罠だった。彼の行動は全て敵に見透かされていたのだ。彼はエレベーターに乗り込み、「最上階」のボタンを押す。扉が閉まる。エレベーターは上昇を始めた。だが、その動きがどこかおかしい。上昇しているはずなのに、体がふわりと浮き上がるような感覚がない。むしろ逆に、内臓が圧迫されるような、下降していく感覚。芳樹は青ざめた。エレベーターは上ではなく、下へと向かっていたのだ。猛烈な速度で地下深くへと落下していく。


やがて長い長い落下の後、エレベーターは急停止した。チーン、という間抜けな到着のアナウンス。そして扉が開かれる。その向こう側にあったのは、目的の制御室ではなかった。そこは、体育館のようにだだっ広い、しかし窓一つない、がらんとした地下の巨大な格納庫のような場所だった。


そしてその格納庫の中央。腕を組み、まるで王が凱旋する将軍を出迎えるかのように、一人の鋼鉄の巨人が立っていた。鋼塚。「――ようこそ、菊池芳樹くん。――君のような、矮小なネズミが入り込むことは、全て計算通りだ――」その合成音声が響き渡った瞬間。芳樹の耳の通信機がブツリ、という音を立てて沈黙した。強力なジャミング。彼は完全に孤立した。


鋼塚はゆっくりと芳樹に歩み寄る。「――君には、我らが創る、『新世界の礎』と、なってもらう。……君自身が、あの『星の扉』を、安定して制御するための、唯一無二の生体キー(プライム・アダプター)として、な――」絶望。ここまで来て、全てが敵の掌の上だったという事実。芳樹は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


その絶望の淵に沈む芳樹の前に。格納庫の暗がりから、もう一人意外な人物が姿を現した。星辰グループの灰色の制服に身を包み、鋼塚の隣に、まるで有能な秘書のように静かに控えている、その人物。それは、奈々瀬拓人だった。


彼は、鋼塚には気づかれないように、その美しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべると、芳樹にだけ見えるように、その唇を動かした。声はない。だが、その唇の動きは、はっきりとこう語っていた。


『――やあ、困ってる、みたいだね。……助けて、あげようか?――』


混沌の道化師は、この絶望的な舞台の上で、最も楽しそうに微笑んでいた。

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