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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第三十七話 人間(きりふだ)の覚悟

その言葉がリビングの空気を凍てつかせた。ミ=ゴのあまりにも冷静で、あまりにも無慈悲なその結論。


『――純粋ナ、『人間』。……ソレモ、魔術的資質ヲ、一切、持タナイ、ごく、平凡ナ、一般人ニ対シテハ、結界ハ、反応シナイ――』


その瞬間、リビングにいた全ての、人ならざる者たちの視線が、一本の槍のように菊池芳樹へと突き刺さった。それは期待の視線ではなかった。もっと複雑で、そして重い感情の奔流だった。ハスターの黄金の瞳。そこには、王としての屈辱と、そして自らの無力さを矮小な人間に託さねばならないことへの焦燥が渦巻いていた。クトゥルフの六つの深淵の瞳。そこには、言葉にならない、静かで、しかしどこまでも深い懸念と、そして芳樹のそのあまりにも脆い存在そのものを慈しむかのような、庇護の感情が揺らめいていた。


部屋の空気が重い。まるで深海の水圧がこの六畳間に再現されたかのように、芳樹は呼吸すらままならなかった。芳樹が一人で潜入する。その作戦内容が、誰の口から発せられるでもなく、しかし絶対的な結論として、その場の全員の共通認識となっていた。


芳樹の全身が震えていた。それは武者震いなどという勇ましいものではない。純粋な恐怖だった。自分のちっぽけな人間の体。銃で撃たれれば死ぬ。殴られれば骨が折れる。神々の戦いを間近で見てきたからこそ分かる。自分という存在のあまりの脆弱さが。そんな自分が、あの鋼鉄の怪物、鋼塚が待ち構え、そしてあの得体の知れない老婆、御子神珠子が支配する、敵の本拠地、星辰タワーへとたった一人で乗り込む。正気の沙汰ではなかった。それはもはや作戦などではなく、自殺行為そのものだった。


「―――ふざけるなッ!!」


その重い沈黙を破ったのはハスターの怒声だった。彼はソファから立ち上がると、芳樹の前に仁王立ちになった。「正気か、貴様ら!この小僧一人を死地に、行かせるなどと!我がこの王たるハスターが断じて許さん!」そのあまりにも尊大で、あまりにも不器用な庇い立ての言葉。芳樹は驚いて顔を上げた。


「……ハスター……」

「勘違いするなよ、人間!貴様の身を案じているわけではない!貴様は我が伴侶!我が所有物だ!その所有物が我が知らぬところで、下賤な人間どもの手によって傷つけられるなど、我が王としてのプライドが許さんと言っているのだ!」


クトゥルフもまた、その巨大な体躯を動かし、芳樹の前に立ちはだかるように座った。彼女の脳内に響くテレパシーは静かだったが、ハスターの怒声よりも遥かに重く、そして絶対的な拒絶の意志を含んでいた。《………………却下する》《…………よしきを、一人で、行かせることは、契約違反に相当する。……我は、永劫に、汝の、そばに、在ると誓った。……故に、この作戦は、認められない…………》


神々のその頑なな反対。それは芳樹の心を少しだけ温かくした。だが、同時に彼の肩にさらに重い重圧がのしかかった。こいつらは俺のことを心配してくれている。だが、他に方法がないのだ。世界の終わりまでのカウントダウンは今も刻一刻と進んでいる。自分が、行くしかない。自分がやらなければいけない。そのあまりにも重すぎる責任感と、そして死の恐怖。芳樹の心は、その二つの巨大な万力に挟まれ、軋みを上げていた。


彼はもはや耐えきれなかった。「………………頭、冷やしてくる」彼はそれだけを言い残すと、リビングを飛び出し、夜の闇の中へと逃げ込んでいった。


---


当てもなく彷徨った。冬の夜の空気はガラスのように冷たく、芳樹の肺を刺した。彼は無意識のうちに大学のキャンパスへと足を向けていた。そこはかつて、彼が「平凡な日常」を送っていた場所。そして今や、その日常のほとんどを失ってしまった、彼にとっての失われた楽園パラディス・ロスト


深夜のキャンパスは死んだように静まり返っていた。講義棟の窓の明かりは全て消え、まるで巨大な墓石のように闇の中にそびえ立っている。芳樹はベンチに腰を下ろし、ただぼんやりとその光景を眺めていた。ここに戻ってくれば、何か答えが見つかるかもしれない。そんな淡い期待はすぐに裏切られた。この静寂は、彼の心を癒すどころか、むしろ彼の孤独をさらに際立たせるだけだった。もう逃げ出したい。神々も、星辰グループも、奈々瀬拓人も、何もかも捨てて、どこか遠い街へ行ってしまいたい。そんな弱い心が彼の頭を擡げ始めたその時だった。


「…………菊池くん?」


背後からかけられた声。芳樹は驚いて振り返った。そこに立っていたのは相田千夏だった。彼女は厚手のコートにマフラーを巻き、少しだけ心配そうな顔でこちらを見ていた。「……こんな時間に、どうしたの?眠れないの?」「うん、まあ、そんなとこ。……最近、なんだか、変な夢ばかり、見るから」千夏はそう言うと、芳樹の隣にそっと腰を下ろした。彼女はクリスマスのあの夜の記憶をほとんど失っているはずだった。だが、その魂には、まだ悪夢の残滓が燻り続けているのだろう。


「……菊池くんが、なんだか、すごく大変なことと戦ってるような夢。……私には何もできなくて、ただ見てるだけしかできないの。……すごく無力な気分になるんだ」彼女は自嘲するように笑った。


芳樹は何も言えなかった。彼女のその夢は、あながち間違いではないのだから。静寂が二人を包む。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。やがて千夏は、芳樹の追い詰められた表情を見つめると、核心には触れずに、ただ優しく励ますように言った。


「……詳しいことは、何も分からないけど……。でもね、菊池くんは、一人で全部背負いすぎだよ。……もっと周りを頼って、いいんだよ」「…………」「……でもね、私信じてるから」彼女はまっすぐに芳樹の瞳を見た。「菊池くんが、何かすごく大きくて大変なことと戦ってるんだとしても。……それは、きっと何か正しいことのためなんだって、信じてる。……菊池くんはそういう人だもん」


その言葉。何の根拠もない。何も知らないからこその、純粋な信頼の言葉。その言葉が、芳樹の心の一番硬く凍り付いていた部分をゆっくりと溶かしていった。そうだ。俺は、何のために戦うんだ?自分の命が惜しいから?それもある。だが、それだけじゃない。俺が守りたいものはなんだ?


芳樹の脳裏に二つの日常が浮かび上がった。一つは、今目の前にいる千夏が当たり前のように信じている、この「平凡で、穏やかで、正しい世界」。そしてもう一つは。あの家に帰れば待っている、メチャクチャで、迷惑で、混沌としていて、しかしどうしようもなくかけがえのない、「非凡な、狂った、日常」。どちらか一つを選ぶなんてできない。俺は、その両方を守りたいのだ。千夏が笑っていられる、この世界を。そして神々が馬鹿なことをやっている、あの家を。それこそが、俺の本当の願い。そのためなら。このちっぽけな命一つくらい懸けてやっても、いい。


芳樹の心の中で何かが固まった。恐怖は消えていない。だが、その恐怖よりも遥かに大きな覚悟が、彼の魂の中心に灯った。「…………ありがとう、相田さん」「……もう、大丈夫だ」彼は静かに言った。


---


家に戻った芳樹の姿は、家を飛び出していった時の彼とは別人だった。その瞳には、もはや迷いも恐怖もなかった。ただ静かな、そして揺るぎない決意の光だけが宿っていた。彼はリビングでまだ言い争いを続けていた、ハスターとクトゥルフの前に立った。そしてまっすぐな目で告げた。「俺が、行く」そのたった一言。だが、その響きは以前とは全く違っていた。「……いや、俺が、行かなきゃ、ダメなんだ」「……俺は弱いし、ヘタレだ。……けど、俺は、お前たちの『仲間』で、千夏さんたちの『友達』だ。……だから、俺が守りたいものを守るために、俺にしかできないことをやる」「……これは、俺の戦いだ」


そのあまりにもまっすぐな覚悟。それは神々の頑なな心をも動かした。ハスターは何も言わなかった。ただ深くため息をつくと、「……死ぬなよ、我が伴侶」と小さく呟いただけだった。クトゥルフは、その触腕を伸ばし、芳樹の頬にそっと触れた。《…………分かった。……ならば、我も、共に行こう。……汝の、魂と、共に…………》


新たなる作戦が練られ始めた。芳樹が「人間」であることを活かして、敵の懐に潜入し、内部から結界を破壊する。その瞬間に外で待機していた神々が一斉に突入する。


作戦決行前夜。芳樹はガレージでミ=ゴと共に、潜入用の特殊なガジェットの開発に没頭していた。それは腕時計型の小さな装置だった。だが、その内部には、ミ=ゴの超科学と、芳樹の狂気のアイデアが詰め込まれていた。小型の電磁パルス発生器。粘着ジェルの射出機構。そして、その装置の中央。そこには、一つの小さなクリスタルを接続するためのスロットが設けられていた。その設計図のスロットの横には。芳樹の力強い文字でこう書かれている。


『――対結界用・神格エネルギー伝導ユニット(クトゥルフ様専用)――』


彼は一人では行かない。彼は、彼女のその宇宙的な力の一欠片を自らの腕に宿して、敵の城へと乗り込むのだ。それは、彼らの絆の証。そして、この絶望的な戦いを勝利へと導くための、唯一の希望の光だった。

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