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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第三十六話 怠惰なる賢者と星の智慧

時は無慈悲に進む。菊池芳樹の家のリビング、その壁にミ=ゴが設置した巨大なモニターには、冷徹なデジタル数字が、一秒、また一秒とその命を削っていた。


――168:00:00――


一週間。百六十八時間。一万と八十分。それは、世界の終わりまでのカウントダウン。家の地下深く、「星の扉」の封印に付着した、星辰グループのナノマシンが、その古代の、複雑怪奇な術式を、猛烈な速度で解析し、侵食していく。その進行状況を示す、禍々しい赤いゲージが、モニターの隅でゆっくりと、しかし確実に右へと伸びていた。リビングの空気は鉛のように重かった。焦燥。それは目に見えない毒の霧のように部屋の中に満ち満ちていた。


「……くそっ!どうにもならんのか!」


ハスターが苛立たしげに床を蹴る。だが、その神の一撃を受けても、ミ=ゴの有機合金で補強された床は、微かに脈動するだけでびくともしない。「敵の本拠地が分からねば、この王たる私の力も振るいようがないではないか!」彼の言う通りだった。敵は星辰グループ。だが、その巨大な複合企業のどこに本当の中枢があるのか。どこにあの鋼塚や御子神珠子が潜んでいるのか。それが分からなければ、この圧倒的な神々の力も宝の持ち腐れだった。


ミ=ゴもまた、その菌類の頭部を力なく振っていた。「……不可能デス。星辰グループノ主要施設ハ、全て強力ナ、魔術的防壁ニヨッテ、覆ワレテイマス。我々ノ科学的探査技術デハ、ソノ内部ヲ、スキャンすることは、できまセン。……まるで、情報ノブラックホールデス」科学も神の力も通用しない。ただ座して、世界の終わりを待つしかないのか。芳樹の心の中を、冷たい絶望が支配し始めていた。


その時、彼はふと思い出した。この家には、いるのだ。クトゥルフよりも、ハスターよりも遥かに古く。この地球の歴史の、その始まりから終わりまでを全て、その眠たげな瞳で見てきたであろう存在が。芳樹は、わらにもすがる思いで部屋の中心、その混沌の玉座へと向き直った。


「…………ツァトゥグァ」


彼は炬燵の中の黒い毛玉に向かって呼びかけた。「……何か、知らないのか?あの『星辰グループ』って、やつらのこと。……お前なら、何か知ってるんじゃないのか……?」


炬燵の中から返事はなかった。ただ、穏やかで、そしてどこまでも深い寝息が聞こえてくるだけだった。「おい、起きろ!ツァトゥグァ!世界の危機なんだぞ!」芳樹が炬燵布団を揺する。すると中から心底迷惑そうな、そして億劫そうな声が響いてきた。「…………知っておる」その一言に、リビングにいた全員の視線が一斉に炬燵へと集中した。


「な、なんだと!?」ハスターが叫ぶ。「知っているなら、なぜ黙っていた、この怠惰な毛玉め!」「…………聞かれなかったからだ」あまりにもマイペースなその答え。芳樹は懇願した。「頼む、教えてくれ!今、俺たちには情報が必要なんだ!」だが、ツァトゥグァの答えは無慈悲だった。「…………面倒だ。……却下する」「そこを、なんとか!」「……我の眠りを、妨げるな。……うるさい」


芳樹は絶望した。だが、彼は諦めなかった。彼は知っている。この怠惰なる神を動かす、唯一の方法を。彼は台所へと走った。そして数分後。彼は一つの完璧な祭壇を炬燵の前へと作り上げていた。それは、コンビニで買える最高級の厚切りポテトチップス(サワークリームオニオン味)。芳醇な香りを放つ燻製チーズ。そして氷でキンキンに冷やされた瓶入りのジンジャーエール。それだけではなかった。彼は、自分の部屋から最新式の携帯ゲーム機と、その充電器、そして人間をダメにすると噂の低反発ビーズクッションまで持ってきた。物質的な欲望のフルコース。


だが、ツァトゥグァは、その至れり尽くせりの供物を見ても、その半開きの瞳を僅かに動かしただけだった。「………………くだらん」彼のその一言は、人類の文明が生み出した全ての娯楽を根源から否定する響きを持っていた。「……我は、既に、銀河が生まれ、死んでいく様を、幾度となく、見てきた。……恒星が奏でる音楽を聞き、ブラックホールが紡ぐ詩を読んできた。……汝ら、人間が作り出す矮小な刺激など、我が永劫の退屈を紛らわすには、到底足りぬわ……」「……我を動かしたくば、それ相応の対価を、用意するがいい……」


対価。芳樹は途方に暮れた。この宇宙的スケールの引きこもりを満足させられる対価など、一体どこにあるというのか。その時、彼の脳裏に、一つの記憶が稲妻のように閃いた。あの秋の夜。ツァトゥグァと二人で古文書を解読した、あの夜。彼は、確かに言っていた。『――古代の神々は、供物よりも、未知なる、『物語』や、『概念』を喜ぶことがある――』未知なる物語。この宇宙の全てを知り尽くした神にとって、未知なる物語とは一体なんだろうか。


芳樹は覚悟を決めた。彼は、全ての供物を片付けると、ツァトゥグァの前に正座した。そして語り始めた。自分自身の物語を。


「…………俺は、菊池芳樹。……日本の、ごく普通の地方都市で生まれた。……父さんは、普通のサラリーマンで、母さんは、普通の主婦。……子供の頃は、特に取り柄もなくて、運動も勉強もそこそこ。……ただ、昔から、機械をいじるのが好きだった……」


彼は語った。初めて補助輪なしで自転車に乗れた日の高揚感。夏休みの宿題の工作で作ったビー玉のからくり装置。高校生になって、アルバイトで貯めた金で初めて買った中古の原付バイク。大学に合格し、この赤紫市で一人暮らしを始めた日の不安と期待。それは英雄譚でも神話でもない。何の変哲もない、一つの矮小な人間の人生の記録。そのあまりにも平凡で、あまりにも退屈なはずの物語。それを聞いていたツァトゥグァのその琥珀色の瞳が。数億年ぶりに初めて明確な「好奇心」の色に輝いた。(…………なんだ、これは…………)彼の広大な意識の中を、一つの純粋な驚きが駆け巡っていた。(……この人間は、何を語っているのだ……?……宇宙の法則にも、神々の系譜にも、関係がない。……ただひたすらに、矮小で、非論理的で、そして無意味な、感情の羅列。……喜び、悲しみ、怒り、達成感、そして、孤独。……なんだ、この不確定要素カオスの塊は……。……なんと不可解で……なんと滑稽で……そして…………)(…………面白い…………)


芳樹が自らの半生を語り終えた時。ツァトゥグァは心底満足したかのような深いため息をつくと、こう言った。「………………よかろう。……その奇妙な物語の対価として、我が知る真実を、話してやる…………」


---


ツァトゥグァは語り始めた。その声は、いつもの眠たげな響きとは違う、遥か太古の風の音のような荘厳な響きを帯びていた。「星辰グループ。……その源流は、遥か昔。……汝ら人間がまだ毛皮を纏い、洞窟で暮らしていた時代にまで遡る」「当時、この惑星には、ヒュペルボレアと呼ばれる大陸があった。……そこに住んでいた人間たちは、我を神として崇めていた。……まあ、我は、ただ眠っていただけなのだがな」「だが、その末裔の一部が、我が教えを歪めて解釈した。……我は、ただ、『万物は、やがて静謐なる無へと還る。……それが、宇宙の究極の安らぎである』と教えただけだ。……だが、彼らは、それを、『絶対的な秩序による、世界の統治こそが、人類を救済する道である』と捻じ曲げたのだ」


芳樹は息を呑んだ。「奴らの目的は支配だ。……だが、それは単純な物理的な支配ではない。……もっと根源的な、精神の支配だ」「彼らは、『星の扉』のその莫大なエネルギーを利用し、この惑星に住む全ての知的生命体の感情と思考を完全に統制しようとしている。……怒りも悲しみも喜びも、愛すらもない。……ただ完璧な秩序だけが存在する、静的な『箱庭の世界』。……それこそが、星辰グループが目指す究極の理想郷よ」「そして、その狂った理想を実現するための、中枢。……奴らの本拠地は……」


ツァトゥグァはそこで一度言葉を切った。「……この赤紫市の中心部にそびえ立つ、あの忌まわしき黒い墓標。……星辰グループ、本社タワーだ」


真実が明かされた。敵の本拠地が割れた。リビングの空気が一変する。ハスターがその美しい顔に王の怒りを滾らせ、立ち上がった。「ならば、話は早い!今すぐあの鉄の墓標へと乗り込み、愚かなる人間どもに真の王の裁きを下してくれようぞ!」クトゥルフもまた、その巨大な体躯から静かだが圧倒的な破壊のオーラを放ち始めていた。


だが、その二柱の神の勇ましい進軍を止めたのは、ミ=ゴの冷静な電子音声だった。「――お待ちください。……それは不可能です」「なんだと、菌類め!この私を止めるか!」「不可能、デス。……我々ノ探査結果ニヨレバ、星辰タワーハ、極メテ強力ナ、『対神話存在結界』ニヨッテ、覆ワレテイマス。……ソレハ、我々ノヨウナ、高次元存在ノ存在そのものを、コノ三次元空間カラ、抹消スルタメノ、防御システム。……モシ、我々ガ、アレニ接近スレバ、一瞬ニシテ、原子レベルニ分解サレ、存在ヲ消去サレルデショウ」


神々の動きが止まった。ハスターの顔から怒りが消え、驚愕と屈辱の色が浮かぶ。クトゥルフの破壊のオーラがすっと消え失せる。彼らの、その宇宙を揺るがすほどの絶対的な力が、完全に封じられてしまったのだ。


ミ=ゴは続けた。その言葉は、新たなる、そして究極の絶望をもたらした。


「…………デスガ、アノ結界ニハ、一ツダケ、致命的ナ欠陥ガアリマス」

「…………ソレハ、純粋ナ、『人間』。……ソレモ、魔術的ナ、資質ヲ、一t切、持タナイ、ごく平凡ナ、一般人ニ対シテハ、全ク、反応シナイ、トイウコトデス」


その言葉。その瞬間。リビングにいた全ての、人ならざる者たちの視線が。ハスターの黄金の瞳が。クトゥルフの六つの深淵の瞳が。ミ=ゴの無数の触角が。そしてツァトゥグァの半開きの琥珀色の瞳が。まるでスローモーションのように、ゆっくりと、部屋にたった一人しかいない、その存在へと静かに集まっていった。


菊池芳樹。


彼は、その全ての視線を一身に浴びながら、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。彼が、この絶望的な状況を打開するための、唯一の鍵。唯一の「切り札」であることに気づいて。

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