第三十五話 嵐のあとの修繕日和
夜が明けた。東の空が、まるで巨大な傷口から血が滲むように、鈍い灰色の光に染まっていく。その希望とも絶望ともつかない黎明の光が、菊池芳樹の家の無残な骸をゆっくりと照らし出した。
そこはもはや、「家」と呼べる場所ではなかった。それは、嵐が過ぎ去った後の漂着物と瓦礫の集合体。あるいは、巨大な獣がその巨体で暴れ回った後の巣穴の残骸。リビングだった場所には巨大な穴が空き、そこから、昨夜の戦いの爪痕が生々しく残る荒れ果てた庭が見えた。壁は、衝撃波で吹き飛び、かろうじて残った柱は、黒く焼け焦げ、不吉な角度に傾いている。床には、畳の残骸と、砕け散ったガラスと、そして正体不明の金属片が、まるで悪趣味なモザイク画のように散乱していた。
芳樹は、唯一奇跡的に無事だった、年代物のヤカンで沸かしたぬるいインスタントコーヒーをマグカップで啜りながら、その絶望的な光景をただ呆然と見つめていた。彼の心の中を支配していたのは、悲しみや怒りではなかった。もっと現実的で、そして切実な絶望。(……これ、どうすんだよ……)彼の脳裏を、現実的な数字が駆け巡る。修繕費。リフォーム代。あるいは、建て替え費用。保険など、降りるはずもない。火災保険の契約書に、「旧支配者とサイバー魔術兵の戦闘による家屋の損壊」などという項目は、存在しないのだ。彼のなけなしの預金残高。ツァトゥグァの気まぐれな錬金術によって得た、あの泡のような大金。それらを全て注ぎ込んだとしても、この完全なる破壊を元に戻すことなどできるのだろうか。
芳樹は、深いため息をついた。その人間の矮小な苦悩をよそに。この家の神々はそれぞれの形で、この惨状を受け入れていた。ハスターは、かろうじて形を保っていたソファの上に王のようにふんぞり返り、自らの美しい指先を眺めている。「フン。我が王宮にしては、些か見苦しい有様となったな。だが、これもまた、我が武勇伝を飾る、一つの勲章。歴史の一ページよ」彼は、この家の半壊を、自らの戦いの結果として、むしろ誇らしげに思っているようだった。クトゥルフは、リビングの中央に巨大な体躯を横たえ、天井に空いた大穴から見える朝の空を、その六つの瞳でただじっと見つめている。彼女の、その広大な意識の中では、この物理的な世界の破壊などさざ波ほどの出来事に過ぎないのかもしれない。そしてツァトゥグァは。彼は、この大惨事の中で、唯一奇跡的に無傷で残った炬燵の中で、いつもと変わらず幸せそうに寝息を立てていた。
芳樹の心の中で、何かがぷつりと切れる音がした。絶望が一周して怒りに、そしてその怒りは、やがて奇妙な決意へと昇華されていった。「…………もう、いい」彼はマグカップを床に置くと、ゆっくりと立ち上がった。「ぐだぐだ、してても、始まらない。……やるぞ」彼はリビングの中央に仁王立ちになると、この家の無責任で規格外の住人たちに向かって、高らかに宣言した。「――自分たちの家は、自分たちで直す!これより、菊池家、第一回、コズミック・リフォームを、開催する!」
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その狂気の計画は、まず設計から始まった。芳樹は、ガレージから埃をかぶった製図用の巨大な紙を引っ張り出してくると、その上に家の新しい設計図を描き始めた。だが、それはもはやただの家の設計図ではなかった。彼は、この苦い経験を元に、この家をただ修復するのではなく、一つの難攻不落の「要塞」へと作り変えようとしていたのだ。大学で学んだ建築力学の知識。それに、門倉の魔導書から盗み見た、古代の防衛術式の幾何学模様が書き加えられていく。
『――玄関:ショゴス式落とし穴(改良版)。侵入者を捕食後、その生体エネルギーを家の予備電源として転用する循環システムを導入』
『――廊下:ハスター式突風集束ダクト。王の御心次第で、侵入者を家の外まで吹き飛ばすリターン・トゥ・ sender機能を搭載』
『――リビング:対神話存在用複合装甲壁。ミ=ゴの有機合金と、ショゴスの粘弾性細胞、そして神社の、お守り(気休め)を積層構造に』
その設計図は、人間の正気と建築基準法の両方を完全に無視した、狂気の産物だった。芳樹は、その完璧な設計図を神々の前に叩きつけた。「いいか、これに従って作業を進める!文句は言わせん!」神々は、その設計図に描かれた、あまりにも悪趣味で、あまりにも冒涜的な、しかしどこか芸術的ですらあるアイデアに、一瞬だけ言葉を失った。そして、ハスターが最初にその沈黙を破った。「……フン。……なかなか面白い余興では、ないか。……よかろう。この王が直々に、貴様のその狂った設計に付き合ってやろう」
かくして、人類史上最も冒涜的なる家屋の修繕作業が、その混沌の幕を上げたのだった。
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まず、芳樹は、指揮官として、それぞれの神に役割を分担させた。
重機担当は、ハスター。 彼は尊大な文句を言いながらも、その風を操る神の力で、人間には到底持ち上げることのできない巨大な梁や柱を、まるで羽のように軽々と持ち上げ、芳樹が指示する正確な位置へと配置していく。その光景は、あまりにもシュールだった。日本の伝統的な古民家の建材が重力を無視して宙を舞い、まるで、見えざる巨人の手がプラモデルでも組み立てるかのように、家の骨組みを再構築していく。時折、ハスターが力を入れすぎて、梁が、ありえない速度で回転し、危うく芳樹の頭を掠めることもあったが、作業は驚異的な速度で進んでいった。
精密作業担当は、クトゥルフ。 彼女は、その無数の緑色の触腕を、それぞれ全く別の工具へと変貌させていた。ある触腕の先端は、高速で回転するドリルに。ある触腕の先端は、釘を寸分の狂いもなく打ち込むハンマーに。ある触腕の先端は、ミリ単位の精度で木材を切断するノコギリに。彼女は、まるで一体の万能工作機械。そのあまりにも有機的で、あまりにも冒涜的な工具の集合体が、芳樹の設計図通りに、家の細部を完璧に作り上げていく。その光景は、効率的であればあるほど、人間の尊厳を根源から揺さぶる恐ろしいものだった。
材料と技術を提供するは、ミ=ゴ。 「地球ノ、木材や、コンクリートハ、非効率的デス。我々ノ技術ヲ提供シマショウ」彼らが宇宙船から持ってきたのは、もはや建材というカテゴリーには収まらない、未知の物質だった。壁材として使われたのは、自己修復機能を持つ半透明の有機的なパネル。それは触れるとほんのりと温かく、そしてまるで生きているかのようにゆっくりと脈動していた。断熱材として、壁の間に充填されたのは、黒く湿った菌類の集合体。それは、外部からの衝撃や音を完全に吸収し、消化してしまう生きた防音壁だった。家は、徐々に古民家の形を保ちながらも、その内部構造は巨大な異星の生命体のそれへと変貌していった。
左官と仕上げを担当したのは、ショゴス。 彼は、その不定形の原形質の体を、壁の亀裂や柱の隙間に、まるで水が染み込むかのように流し込んでいく。そしてその表面は、数秒後には元の木材や土壁と全く見分けのつかない、完璧な擬態を完了させる。彼は、究極のパテであり、最高のペンキだった。時折、彼が擬態した壁の表面に、無数の緑色の瞳が浮かび上がり、一斉に瞬きをすることもあったが、芳樹はもうそれくらいのことでは驚かなくなっていた。
そしてツァトゥグァは。彼は炬燵の中から時折顔を出すと、心底面倒くさそうに、しかし驚くほど的確なアドバイスを送ってきた。「…………その柱。……コンマ、三度、傾いておるぞ。……それだと、いずれ、家全体の時空が歪む」彼のその怠惰な神の視線は、人間には到底知覚できない高次元の歪みすらも見通しているらしかった。
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数日後。菊池家のコズミック・リフォームは完了した。そこに建っていたのは、日本の古民家の形を保ちながらも、その細部からは言い知れぬ冒涜的なオーラが滲み出す、奇怪な要塞だった。壁は微かに脈動し、窓ガラスは僅かに非ユークリッド幾何学的に歪んでいる。だが、それは間違いなく、彼らの新しい家だった。
疲れ果てた一同は、新しくなった檜の香りがする縁側に並んで座っていた。芳樹が近所のコンビニで買ってきた安物のアイスを皆で黙々と食べる。ハスターは、ガリガリ君のソーダ味を、王の威厳を保ちながら齧っている。クトゥルフは、ピノの一粒一粒を触腕で器用につまみ上げ、味わっている。夕日が、彼らの奇妙なシルエットを長く地面に伸ばしていた。そこには、種族も目的も何もかもが違う、バラバラな存在たちが、ただ同じ時間を共有している、奇妙で、しかし確かな「家族」の光景があった。
その穏やかな沈黙の中で。クトゥルフがふと、自分の食べていた最後の一粒のピノを芳樹の口元へと差し出した。芳樹は一瞬ためらった。だが、彼はその不器用な優しさの意味をもう知っていた。彼は、ありがとう、と小さく呟くと、その一粒のチョコレートアイスを口に含んだ。甘い味がした。
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そのあまりにも穏やかで、あまりにも脆い平和な時間を切り裂くように。甲高い警告音が家の中から鳴り響いた。それはミ=ゴがリビングに設置した、家の防衛モニターから発せられていた。一同がリビングへと駆け込むと。モニターには、家の地下深く、「星の扉」の封印の三次元構造図が表示されていた。複雑な幾何学模様と古代のルーン文字が組み合わさった光のマンダラ。だが、その美しい封印の表面に、無数の黒い点が蠢いていた。鋼塚が残していったナノマシンだ。
「――警告。敵性ナノマシン、第一次解析ヲ完了。封印術式ノ脆弱部ニ対シ、侵食ヲ開始シマシタ――」
ミ=ゴの冷静な電子音声が告げる。束の間の平和は終わった。家の修復は、敵の侵攻を遅らせるためのわずかな時間稼ぎに過ぎなかったのだ。モニターの隅に、新たなるウィンドウが開かれる。そこには無慈悲なデジタル数字が表示されていた。封印が完全に破られるまでの推定残り時間。
―――168:00:00―――
彼らに残された時間は、わずか一週間。新たなる絶望のカウントダウンが、今静かに始まった。




