第三十三話 からくり屋敷へようこそ
菊池芳樹の心の中で、何かが死んだ。それは、恐怖だったかもしれない。あるいは諦観だったかもしれない。自分はただの無力な大学生なのだという、惨めで、しかしどこか心の安寧を保っていた、自己認識だったのかもしれない。
千夏からもらった、ポインセチアの植木鉢が粉々に砕け散った、あの瞬間。彼の心を満たしていた、冷たい恐怖の霧は完全に晴れ、その代わりに、心の最も深い場所、魂の核とも言うべき場所から、静かで、冷たく、そしてどこまでも純粋な、灼熱の怒りのマグマが噴き出した。
彼は、もはや震えていなかった。ガレージから年季の入った鉄製の工具箱を手に、リビングへと戻ってきた彼の姿は、いつもとは明らかに違っていた。その猫背気味だった背筋はまっすぐに伸び、そのどこか頼りなげだった瞳には、研ぎ澄まされた鋼のような光が宿っていた。彼は、家の外で繰り広げられる神々の宇宙的な闘争には目もくれない。彼はリビングの中央に仁王立ちになると、この家の規格外の住人たちに向かって、これまで出したこともないような、低く、そして有無を言わせぬ、力強い声で命じた。
「――聞け」
そのたった一言に、ハスターも、クトゥルフも、ミ=ゴすらもが、思わずその動きを止めた。「俺に考えがある。家の外のデカいやつらは、お前たちに任せる。だが、この家の中の防衛は俺がやる。俺の指示に従え」それは懇願ではなかった。命令だった。この家の主としての、初めての絶対的な命令だった。
ハスターが、その王としてのプライドを刺激され、何か言い返そうとした。「フン、人間ごときが、この私に、指図を……」だが、彼の言葉は最後まで紡がれることはなかった。芳樹がゆっくりと彼を振り返ったからだ。その瞳。それは、もはや彼の知っている、あの気弱な人間の瞳ではなかった。そこには、自らの聖域を土足で踏み荒らされた獣の怒りと、そして自らの牙と爪だけで全てを引き裂かんとする、冷徹な覚悟が宿っていた。ハスターは、その瞳に圧され、思わず言葉を飲み込んだ。クトゥルフは、ただ黙って、その六つの瞳で芳樹のその変貌をじっと見つめている。彼女のその広大な意識の中では、驚きと、そしてこれまで感じたことのない、ある種の期待のような感情が渦巻いていた。
芳樹は、神々の承諾を待つことなく、再びガレージへとその身を翻した。彼の戦いが今、始まろうとしていた。
---
ガレージは、彼の聖域であり、そして混沌の工房と化した。芳樹は、まず床に巨大な設計図を広げた。それは、この古民家の正確な見取り図。彼は、そこに油に汚れた指で、次々と赤い線を書き込んでいく。それは、もはやただの建築図面ではなかった。侵入者の動線を予測し、その心理的な死角を突き、最も効果的にその戦意を削ぐための殺戮の設計図。
彼の頭脳は、これまでにないほど冴え渡っていた。大学で学んだ、建築力学、材料力学、流体力学。そして、この狂った日常の中で、彼が蓄積してきた冒涜的なる知識。ミ=ゴがもたらした、異星の超科学。門倉先輩が残していった、禁断の魔導書の断片的な魔術理論。それら本来ならば決して交わるはずのない、全ての知識が、彼の怒りという触媒によって、その頭脳の中で冒涜的な化学反応を起こし、次々と新たな狂気のアイデアを産み出していく。
「ミ=ゴ!お前の宇宙船にある、自己修復機能を持つ、有機合金と、高粘度の接着ジェルを、ありったけ、持ってこい!」
「ハスター!お前の風の力を、一点に、収束させるためのダクトを作る!家の壁に穴を開けるぞ!」
「クトゥルフ!お前の精神攻撃……。そのエネルギーを照射できる装置を作る。お前の力の一部を、この結晶体に込めろ!」
芳樹の矢継ぎ早な指示。神々は、最初こそ戸惑っていたが、やがてその鬼気迫る芳樹の情熱に引きずられるように、彼のその狂った計画に加担し始めた。ガレージは異様な熱気に包まれた。床には、見慣れた鉄パイプや木材の隣に、ぬめりを帯びた有機的な宇宙合金が転がっている。作業台の上では、芳樹が使い慣れた半田ごてを手に、ミ=ゴが提供した、青白い光を放つエネルギー結晶体に、複雑な電子回路を接続している。そして、その傍らには門倉の魔導書のコピーが開かれていた。芳樹は、そこに描かれた、冒涜的なる幾何学紋様を理解はしていなかった。だが、彼はそれを、まるで複雑な回路図か、あるいは機械の設計図のように、そのパターンと構造だけを正確に読み解いていたのだ。彼は科学と魔術を区別しない。彼にとって、それはどちらも世界の法則を記述した、ただの設計図に過ぎなかった。その常識を逸脱した柔軟な思考こそが、彼の真の才能だった。
---
数時間後。菊池芳樹謹製、「冒涜的ホームセキュリティシステム」の第一段階が完成した。それは、人間の正気と物理法則を、同時に粉砕するための、悪意に満ちたからくり屋敷だった。
まず、玄関。侵入者を重量センサーが感知した瞬間。床板が音もなく下方にスライドする。その下には深い落とし穴。そしてその穴の底で待ち構えているのは、あの不定形の混沌、ショゴスだ。芳樹は彼にこう命じておいた。「――落ちてきたものは、全部、お前の餌だ。好きにして、いいぞ――」
次に、長い廊下。一見、何も変わらない。だが、その壁や天井には、無数の小さな穴が隠されている。赤外線センサーが侵入者を捉えた瞬間、その穴からミ=ゴ製の高粘度接着ジェルが、四方八方から噴射される。それは侵入者を瞬時に拘束し、身動きを取れなくする。そして動けなくなった哀れな獲物に向かって、廊下の突き当たりに設置された巨大なダクトから、ハスターの風の力が圧縮され叩きつけられる。
そして、リビングへと続く襖と障子。そこには芳樹の最高傑作が仕掛けられていた。彼は魔導書に描かれていた、見る者の理性を直接攻撃するという、冒涜的なる幾何学紋様をスキャナーで取り込み、データ化した。そして、ミ=ゴのホログラム投影技術と、クトゥルフの精神エネルギーを封じ込めた増幅結晶を組み合わせることで、一つの装置を作り上げた。「SAN値直葬プロジェクションマッピング」。侵入者が襖に手をかけた瞬間。その目の前にこの世のものとは思えない、冒涜的なる光の紋様が投影される。それを見た者は、幸運ならば気を失い、不運ならば永遠にその精神の均衡を失うことになるだろう。
そして、それら全てのトラップを統括するのが、天井裏に設置された芳樹の司令室だった。彼は、そこに自律式の偵察ドローンを配置した。そのドローンの正体は、ミ=ゴが面白半分で置いていった、あの脳髄シリンダー。その中身は古代ギリシャ、ペロポネソス戦争で天才的な戦術を駆使したという、名もなきスパルタの戦術家の脳。彼は天井裏を飛び回りながら、家の内外の戦況を冷静に分析し、最適なタイミングで最適なトラップを作動させる、このからくり屋敷の頭脳となるのだ。ミ=ゴの翻訳機を通して、彼の古代ギリシャ語による戦況報告が、芳樹のヘッドセットに響く。
『――おお、ゼウスよ!敵の重装歩兵部隊、我が巧妙なる伏兵の罠へと向かっております!――』
---
その準備が完了した直後だった。家の外の結界がついに破られた。星辰グループの精鋭サイバー魔術兵の数名が、壁を爆破し、家の中へと雪崩れ込んできたのだ。「突入!目標は地下に眠る、『扉』!抵抗する者は全て排除せよ!」隊長の号令。
だが、彼らを待ち受けていたのは、神々の抵抗ではなかった。一人の人間の青年が作り上げた、悪意と狂気の迷宮だった。
最初に玄関から突入した二名の兵士。彼らは次の瞬間、悲鳴を上げる間もなく床下に消えた。穴の底から、テケリ・リ、という忌まわしき鳴き声と肉が咀嚼される湿った不快な音が響き渡った。廊下へと進んだ別の部隊。彼らは壁から噴射された粘着ジェルにその動きを封じられ、そして正面から叩きつけられた暴風によって壁の一部となった。
「な、なんだ、この家は!?」
「罠だ!気をつけろ!」
そしてリビングの襖へと手をかけた最後の部隊。彼らの目の前に冒涜的なる光の紋様が咲き乱れた。「ぐ……ああ……!目が……!俺の頭の中が……!星が、星が、落ちてくる……!」彼らはその場に崩れ落ち、口から泡を吹き、完全にその意識を手放した。
芳樹は司令室のモニターを見ながら、冷静にトラップを作動させていく。その顔には、もはやいつものヘタレな大学生の面影はなかった。それは自分の城を守る指揮官の顔だった。侵入部隊を完全に撃退し、芳樹は大きく息をついた。疲労と、そしてこれまで感じたことのない、高揚感が彼の全身を満たしていた。
家の外での戦闘を終え、リビングへと戻ってきたクトゥルフとハスター。彼らは、その家の惨状と床に転がる無力化された兵士たちの姿を見て、驚きと感心の入り混じった視線を芳樹へと向けた。ハスターは鼻を鳴らした。「……フン。なかなか悪趣味な仕掛けでは、ないか。……少しは楽しませてくれる」クトゥルフは、芳樹の頭にそっとその触腕を乗せた。《…………よく、やったな。……我が、伴侶よ…………》芳樹は初めて、神々に守られるだけではなく、彼らと「共に、戦った」のだ。
だが、その安堵と達成感は、次の瞬間粉々に打ち砕かれることになる。
ドンッ!
というこれまでの衝撃とは比較にならない、巨大な轟音。家のメインゲートである玄関の扉が。内部のトラップではなく、圧倒的な物理的な力によって、外側から粉々に吹き飛ばされた。舞い上がる土煙。その向こう側。玄関だった場所の瓦礫の上に、一つの巨大な人影が立っていた。その男の肉体は、その九割が鈍色に輝く鋼鉄のサイバネティクスでできていた。芳樹が作り上げた全てのトラップを正面から突破し得る、規格外の侵入者。その来訪は、この戦いがまだ序盤に過ぎないことを物語っていた。




