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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第三十二話 我が家は戦場(マイホーム・ウォーゾーン)

その夜、菊池芳樹の家は世界の中心になった。それは、栄光や祝福の中心などでは断じてない。暴力と、狂気と、そして宇宙的な憎悪が渦巻く、混沌の坩堝の中心だった。


家の外は地獄だった。森の闇を切り裂いて、青白い魔術的なエネルギー弾が、曳光弾のように飛び交う。その光が、一瞬だけ、木々の間に潜む異形の兵士たちの姿を照らし出す。黒い強化戦闘服、その表面には、まるで生きているかのように、不気味な光を放つルーン文字が蠢いている。顔を覆う能面のようなマスクの奥からは、人間のものとは思えない、合成音声による冒涜的な詠唱が、途切れ途切れに響いてくる。星辰グループのサイバー魔術兵。彼らは、科学と魔術という、人類が積み上げてきた二つの叡智を、ただ純粋な破壊のためだけに、冒涜的に融合させた、忌まわしき存在だった。


その地を這う悪意に応えるかのように、空からは、別の種類の絶望が舞い降りていた。夜鬼ナイトゴーント。彼らは、音もなく夜空を滑空する。その、つるりとしたゴムのような顔のない貌。蝙蝠のような、しかし肉ではなく、闇そのものを固めて作られたかのような巨大な翼。彼らは、奇声を上げることもなく、ただその忌まわしい長い鉤爪で、地上の兵士たちを、まるで玩具でも攫うかのように掴み上げ、禍々しいオーロラが揺らめく、空の彼方へと連れ去っていく。


芳樹は、縁側のガラス戸一枚を隔てた、その悪夢のような光景を、ただ呆然と見つめていた。ドン!と、家の壁に流れ弾が着弾する。家全体が地震のように激しく揺れ、壁に掛かっていた時計が床に落ちて砕け散った。


芳樹は悲鳴を上げ、リビングの中央へと転がり込んだ。「な、な、なんだよ、これ……!戦争じゃねえか……!」彼の心臓は、破裂しそうなほど激しく鼓動していた。手足の先から急速に血の気が引いていく。これが恐怖。本物の死の恐怖。これまで神々を前にして感じてきた、畏怖や混乱とは、全く質の違う、純粋な生物としての生存本能が警鐘を乱打していた。


---


その恐怖に震える矮小な人間の前で。この家の神々は極めてマイペースだった。リビングの中央、炬燵を囲んで緊急作戦会議が開かれていた。「……どうすんだよ、これ!?みんな、どう思う!?」芳樹の悲痛な叫びに、最初に答えたのはハスターだった。彼は、ソファの上で優雅に足を組み、まるで自らの庭で下賤な虫けらどもが騒いでいるのを眺めるかのように、忌々しげに鼻を鳴らした。「フン。雑魚どもが、我が王宮の庭で騒ぎおって。不愉快、極まりない。……よし、人間よ。案ずるな。この私が直々に、あの者たちに王の威光というものを教えてやろう。一瞬で塵芥と化してくれるわ」


「いや、待て!そんなことしたら、家ごと吹き飛ぶだろ!」芳樹が慌てて制止する。


その隣で、クトゥルフは静かにその六つの瞳を閉じていた。《…………うるさい》彼女の脳内に響くテレパシーは、ただそれだけだった。《…………我が眠りの邪魔だ…………》彼女にとって、この家の外で繰り広げられている、人類の存亡をかけた(かもしれない)戦いは、ただの安眠を妨害する迷惑な騒音でしかないらしい。


そしてツァトゥグァは。「…………同感だ」炬燵の中からくぐもった声がした。「…………人間同士の戦争など、どうでもよい。……だが、この振動で、炬燵の中のポテチの袋が倒れた。……これは、許しがたい、冒涜である…………」


全くまとまらない。この家の神々は、誰一人として本気でこの状況を打開しようとはしていなかった。ドン!ドン!と、家の壁に再び衝撃が走る。家の外壁を覆っているはずの古代の結界が、徐々にその力を失い始めているのだ。芳樹は絶望的な気分になった。


だが、その時、これまで黙ってデータを分析していたミ=ゴが、その菌類の頭部を上げた。「……報告シマス。敵性勢力ノ戦力分析ガ完了シマシタ。星辰グループノ兵士ハ、対神話存在用ノ、特殊な魔術的装甲ヲ装備。我々ノ通常兵器デハ、有効打ヲ与エルコトハ困難デス。……マタ、空ヲ飛来スル、敵性生命体ハ、物理的攻撃ニ極メテ脆弱。……結論。各個撃破ヲ推奨シマス」


ミ=ゴのそのあまりにも冷静で的確な分析。それに最初に乗ったのは、意外にもハスターだった。「……フン。そのやかましい菌類の言うことも、一理あるか。……よかろう。ならば、まずはあの、空を無粋に飛び回る羽虫どもから掃除してやる!」彼はすっと立ち上がると、縁側のガラス戸を優雅に開け放った。


そして夜空に向かって、その美しい唇の端を吊り上げた。「――我が庭を荒らす、痴れ者どもよ。――風に、散るがいい!」彼が指を鳴らす。その瞬間、家の庭の上空に、小さな、しかし完璧な竜巻が発生した。竜巻は、空を飛び交っていた夜鬼たちを、まるで掃除機がゴミを吸い込むかのように次々と巻き込んでいく。夜鬼たちは、なす術もなく、その風の牢獄の中で引き裂かれ、千切れ、やがて黒い霧となって消え失せた。それは王の気まぐれな害虫駆除。だが、そのあまりにも強力すぎる風は、夜鬼だけでなく、家の屋根瓦や、芳樹が大切に育てていた、ベランダのプランター菜園のトマトまで、一緒に空の彼方へと吹き飛ばしていった。「あああああ!俺のトマトがああああ!」芳樹の悲痛な叫び。


ハスターが空を制圧したのと同時に。クトゥルフが地を制圧し始めた。彼女は家の中に座ったまま、その六つの瞳を再び閉じた。そして彼女の巨大な精神の波動が、まるで津波のように家の外へと広がっていく。その人知を超えた精神攻撃は、星辰グループのサイバー魔術兵たちの、そのヘルメットの僅かな隙間から、彼らの脳髄へと直接侵入していった。森の闇の中で、兵士たちの動きがぴたりと止まる。そして次の瞬間、彼らのヘッドセットから狂気の絶叫が響き渡った。「あ……ああ……!目が、目が、たくさん、ある……!」「いあ!いあ!いあ!くとぅるふ、ふたぐん……!」「違う!俺は、俺じゃない!俺は、一匹の深きものだ!海へ、帰るんだ!」彼らの脆弱な人間の精神は、クトゥルフのその宇宙的真実のほんの一欠片を垣間見ただけで、完全に崩壊したのだ。彼らは互いに銃口を向け、撃ち合いを始め、あるいは自らの頭を木に何度も何度も叩きつけ始めた。それは、あまりにも静かで、あまりにも効率的で、そしてあまりにも残酷な殲滅だった。芳樹は、その狂気のオーケストラを聞きながら、ただ青い顔で震えていることしかできなかった。


そしてツァトゥグァ。彼は相変わらず炬燵の中から一歩も動いていなかった。だが、彼のその聖なる怠惰のオーラは、家の敷地全体へと広がっていた。家の結界を突破し、敷地内へと侵入しようとした数名の兵士。彼らはそのオーラに触れた瞬間、全ての敵意と目的意識を失った。「……あれ……?俺、何しに来たんだっけ……?」「……なんか、もうどうでもいいな……。戦うの面倒くさい……」「……ああ、眠い……。ここの苔、気持ちよさそう……」彼らはその場に武器を放り出すと、地面に大の字になって眠りこけてしまったのだ。それは戦意を喪失させる究極のパッシブ・スキル。最も省エネで、そしてある意味最も効果的な防衛だった。


---


神々の圧倒的な力の前に、星辰グループの第一波は、いとも容易く撃退された。だが、敵もただの烏合の衆ではなかった。森の奥深くから第二波が姿を現す。彼らは先ほどの部隊とは装備が違っていた。その手にした巨大なバズーカのような兵器。その砲身には禍々しい、しかしどこか神聖な黄金のルーン文字が刻まれている。「――対神話存在用、特殊兵装、『ノーデンスの槍』、発射準備!」兵士の一人が叫ぶ。その砲口から放たれたのはただの砲弾ではなかった。それは純粋な秩序と人類の善意のエネルギーが凝縮された光の槍。旧支配者たちの混沌とした存在そのものを中和し、消滅させるための神殺しの兵器。光の槍は、家の結界を、まるで熱いナイフがバターを切るかのように、いとも容易く貫通した。そして家の庭先に着弾する。轟音。衝撃波が芳樹の体を吹き飛ばした。芳樹は受け身も取れず、リビングの床を転がる。


そして彼が顔を上げた時。彼は見た。庭先に置いてあった一つの小さな植木鉢。それはクリスマスの日に千夏が彼にプレゼントしてくれたポインセチアの鉢植えだった。彼のこの狂った日常の中で、唯一平凡で、そして温かい思い出の象徴。その植木鉢が、光の槍の衝撃波によって粉々に砕け散っているのを。赤い花弁が、まるで血のように飛び散っているのを。


その瞬間。菊池芳樹の心の中で、何かがぷつりと切れる音がした。恐怖は消えていた。絶望も消えていた。彼の心を支配したのは、ただ一つ。静かで、冷たく、そしてどこまでも深い怒りだった。彼はゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはやいつもの気弱な大学生の光は宿っていなかった。それは、自らの聖域を土足で踏み荒らされた獣の瞳だった。


「…………てめえら…………」


彼の唇から、低い呻き声のような言葉が漏れる。


「…………人が、大切にしてる、植木鉢を…………」

「………………割りやがったな…………ッ!」


彼はリビングの惨状を見渡した。そして振り返ることなくガレージへと向かう。その背中は、いつもよりほんの少しだけ大きく見えた。彼は、ガレージの壁に掛けられていた年季の入った鉄製の工具箱を手に取った。そのずっしりとした重みが彼の手に馴染む。それは、彼が物心ついた時からずっと共にあった相棒だった。


「……俺の家に、手ぇ出したこと、後悔させてやる……!」


芳樹のモノローグが、彼の心の中で虚しく響いた。(もう逃げてばかりは、いられない。……ここは、ただの家じゃない。……俺と……俺たちの帰る場所なんだから!)彼はリビングへと戻ると、ミ=ゴに向かって叫んだ。「おい、菌類野郎!お前が前にくれた、宇宙合金と、バイクの余ったパーツ、全部、よこせ!」


彼は、もう守られるだけの主人公ではなかった。自らの手で自らの城を守ることを決意した、一人の戦士だった。

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