表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
31/50

第三十一話 星の扉を叩く音

菊池芳樹の心に、ようやく脆く、そしてかけがえのない平穏が戻りつつあった、冬の日の午後。クトゥルフの存在の希薄化という宇宙的規模の体調不良は、あの一夜の夢と記憶の共有を経て、嘘のように回復していた。彼女の緑色の肌の輪郭は、再びこの三次元空間に、くっきりとその存在を焼き付け、そのテレパシーは明瞭に芳樹の脳へと届くようになっていた。


だが、その出来事は、芳樹と彼女の間に、一つの決定的な変化をもたらしていた。彼はもはや、彼女をただの迷惑で恐ろしい同居人としては見ることができなくなっていた。彼は知ってしまったのだ。彼女のその冒涜的なる巨大な肉体の、そのさらに奥深く。そこに横たわる数億年という、人間の知覚では測定すら不可能な、永劫の孤独の重さを。彼は、彼女の夢の一部となった。そして、彼女もまた、彼の日常の一部となった。それは、契約者と神という関係性を超えた、もっと原始的で、そしてかけがえのない魂の結びつきだった。


そんな穏やかな午後の静寂を切り裂いたのは、けたたましい電子音だった。芳樹のスマートフォン。画面に表示された名前は、「門倉健」。電話の向こうから聞こえてきたのは、彼の血相を変えた絶叫だった。


『――た、大変だ、菊池くん!』


その声は、いつものオカルト的な興奮ではなく、本物の恐怖と焦りに上ずっていた。


『――市の郷土資料館に保管されていた、あの、『開かずの間の鏡』が……!』

『―――何者かに、盗まれたらしいんだ!―――』


鏡。あの人間の恐怖を喰らい、悪夢の世界を創り出した、呪われたアーティファクト。「盗まれたって……。ただの泥棒じゃないのか?」『違う!断じて違う!犯人は、金目のものには一切手をつけていない!盗まれたのは、あの鏡と、そしてこの赤紫市の土地にまつわる、いくつかの呪物や古文書だけなんだ!これは間違いなく、何らかの巨大な魔術的な儀式を目的とした犯行だ!』


門倉の、その確信に満ちた言葉。芳樹の胸の内を冷たい予感が駆け巡った。奈々瀬拓人。あの道化の仕業か?いや、違う。彼のやり口は、もっと陰湿で、もっと人の心を弄ぶものだ。こんな直接的な物理的な窃盗など、彼が好む脚本では、ないはずだ。では、一体誰が?芳樹の心に、新たな敵の影が、その輪郭を現し始めていた。


---


その予感が現実のものとなるのに、そう時間はかからなかった。数日後の昼下がり。古民家の静かな午後の空気を切り裂いて、数台の車のエンジン音が近づいてくる。芳樹が訝しげに縁側から外を覗き込むと。家の砂利敷きの庭先に、三台の黒塗りの高級外車が音もなく滑り込んできていた。その黒く磨き上げられた車体は、この古びた日本の原風景の中で、あまりにも異質で不吉な存在感を放っている。


それぞれの車から、まるで寸分違わぬタイミングで、黒いスーツに身を包んだ屈強な男たちが降りてきた。彼らの動きには一切の無駄がない。そのサングラスの奥の瞳は、感情というものを完全に消し去っているようだった。芳樹の家のリビングでは、その異様な来訪者たちに、神々がそれぞれの反応を示していた。ハスターは、ソファの上で足を組み、まるで領地に無断で侵入してきた不届き者を見下す王のように、冷たい侮蔑の視線を送っている。クトゥルフは、ただ黙って、その六つの瞳で人間たちの行動を分析している。


芳樹は覚悟を決めた。彼は、玄関の引き戸をがらりと開けると、その黒い壁の前に立った。「……何か御用でしょうか」男たちの中の一人が、一歩前に進み出た。「菊池芳樹様でいらっしゃいますね。……我々の主人が、あなた様と直接お話をされたいと申しております」その丁寧な、しかし有無を言わせぬ口調。男が後部座席のドアを開けると、中から、一人の老婆がゆっくりとその姿を現した。その老婆は、まるで数百年の時を生きてきたミイラのように深く皺が刻まれ、その体は枯れ木のように細かった。だが、その背筋は驚くほどまっすぐに伸びている。彼女は、最高級の絹で仕立てられた黒い和服をその身に纏っていた。そして、その白濁した瞳の奥には、人間離れした冷徹な知性の光が宿っていた。


「……お初にお目にかかります。菊池芳樹様」


老婆の声は乾いてか細かったが、その一言一言が奇妙な重みと説得力を持っていた。「わたくし、『星辰せいしんグループ』の会長を、務めさせていただいております、御子神珠子みこがみたまこ、と申します」


星辰グループ。芳樹もその名は知っていた。日本の経済を裏で牛耳っていると噂される巨大な複合企業。その事業内容は多岐に渡り、その全貌は誰も知らない。そんな大企業のトップが、なぜこんな辺鄙な山奥のボロ屋に。御子神珠子は、芳樹の困惑などお構いなしに、本題を切り出した。「単刀直入に申し上げます。……この土地を、我々にお譲りいただけませんでしょうか」彼女は、隣に控えていた秘書らしき男に目配せをした。男は芳樹の前に一つのアタッシュケースを差し出す。蓋が開かれる。その中には、隙間なくびっしりと一万円の札束が詰め込まれていた。芳樹は息を呑んだ。億、という単位の現金。これだけの金があれば。もうアルバイトなどしなくてもいい。大学を辞めて、世界中を旅することもできる。平凡で穏やかな人生を手に入れることができる。芳樹の心がほんの一瞬だけ揺らいだ。


だが、彼はすぐに首を横に振った。この老婆の目的は、ただの土地ではない。彼女のその白濁した瞳の奥が、この家のそのさらに地下深くを、見透かしているのを芳樹は感じていた。


「……お断りします。……この家は、俺の大切な家なので」


芳樹のその静かな、しかし断固とした拒絶の言葉。御子神珠子は、それを聞いても表情を一切変えなかった。「……そうですか。……それは残念ですわ」彼女は深いため息をつくと、ゆっくりと車へと戻っていく。「……ですが、菊池様。……我々も、『計画』をこれ以上遅らせるわけには参りませんの。……どうかそのことだけは、お忘れなきよう……」その不吉な捨て台詞だけを残して。黒塗りの高級車は来た時と同じように、音もなく去っていった。芳樹は、そのあまりにも不気味な訪問者たちの残していった、重い余韻の中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


---


その夜。嵐は唐突にやってきた。芳樹の家の周囲の森の木々が一斉にざわめき始める。月明かりに照らし出されたその影の中から、一体また一体と異形の人影が姿を現した。黒い強化戦闘服に身を包み、その顔は不気味な能面のようなマスクで覆われている。星辰グループの私兵部隊だった。だが、彼らはただの人間ではなかった。その戦闘服の表面には、青白い光を放つ古代のルーン文字が刻まれ、その手にしたアサルトライフルの銃口からは、硝煙の代わりに魔術的なエネルギーの火花が散っている。科学と魔術が冒涜的に融合した、サイバー魔術兵。彼らは完璧な統率の取れた動きで、芳樹の家を包囲していく。


だが、その完璧な包囲網に、全く別の方向から亀裂が入った。空からだった。夜空を切り裂いて、数体の冒涜的なる飛行生物が奇声を上げながら降下してきたのだ。それはまるで、人間と蝙蝠と昆虫を混ぜ合わせて悪意でこねくり回したかのような、忌まわしき姿。有翼の夜鬼ナイトゴーント。彼らは、明らかに奈々瀬拓人が、この混沌をさらに掻き乱すためだけに送り込んできた道化だった。


夜鬼たちは星辰グループの兵士たちへと襲いかかる。そして兵士たちもまた、その冒涜的なる侵入者たちに銃口を向ける。芳樹の家の庭は、一瞬にして三つ巴の地獄の戦場と化した。魔術的なエネルギー弾が夜空を飛び交い、夜鬼の鉤爪が兵士たちの装甲を切り裂く。絶叫と轟音。芳樹は、家のリビングでその悪夢のような光景をただ呆然と見つめていた。


ツァトゥグァが心底面倒くさそうに呟いた。「…………言った、であろう、人間。……厄介なことに、なった、と……」これまで続いてきた、ドタバタで、しかしどこか牧歌的だった日常は、この夜、完全に終わりを告げた。自分たちのささやかな居場所を守るため、芳樹と邪神たちは、否応なく二つの巨大な勢力との全面戦争へとその身を投じることになったのだ。


芳樹のモノローグが、彼の心の中で虚しく響いた。(ふざけんなよ……。なんで、俺の家が、世界の中心みたいに、なってるんだ……!)


その叫びと同時だった。ドクン、と。家の真下から低く重い脈動音が響き渡った。それは以前、大晦日の夜に聞いたあの音。だが、その響きは以前とは比較にならないほど力強く、そして早くなっていた。まるで永い眠りについていた何かが、外の騒乱に刺激され、その巨大な心臓を高鳴らせているかのように。封印されていた、「星の扉」が、外からの刺激に反応し、今まさに目覚めようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ