第三十話 彼の記憶、星辰の夢(ほしのさだめのゆめ)
菊池芳樹がインフルエンザという人類の普遍的な厄災から生還して、数日後の昼下がり。古民家には嵐の後のような、穏やかで気だるい平穏が訪れていた。芳樹はすっかり回復した体で、大学の後期の課題レポートに取り組んでいる。そのありふれた日常の光景の中で、彼は一つの静かな異変に気づいていた。
クトゥルフの様子がおかしいのだ。
リビングの片隅で、彼女はいつものように、巨大な体躯を窮屈そうに折りたたみ、置物のように静かにしている。だが、その存在そのものが、どこか不安定だった。彼女のぬめりを帯びた緑色の肌。その輪郭が、時折古いテレビの映像のようにぶれ、そしてノイズが走ったかのように、ざらついた粒子となって明滅する。
芳樹が彼女に話しかけても、脳内に届くテレパシーは、ひどい雑音混じりで途切れ途切れだった。《……よ……zzzz……き……。……なんだか……。……世界の……法則との……同期が……zzzz……うまくいか……ない……》
それは、ただの風邪や病気などという生易しいものではなかった。ハスターは、その現象を「存在の希薄化」と呼んだ。「フン、あの痴れ者め。所詮は異界の神。この惑星の矮小な物理法則に、その巨大すぎる存在を無理やりねじ込んでいるのだ。時折、その接続にエラーが生じてもおかしくはない。……放っておけば、そのうちこの次元から弾き出され、消えるだけだ」彼のその突き放したような言葉は、しかしその裏側に、隠しきれない焦燥の色を滲ませていた。
ミ=ゴも、その菌類の頭部から無数の触角を震わせ、深刻な電子音を発した。「……極メテ、危険ナ状態デス。彼女ノ存在ヲ、コノ三次元空間ニ固定シテイル、何ラカノ『錨』ガ、弱マッテイル可能性ガアリマス。錨ガ失ワレレバ、彼女ノ存在ハ、高次元空間ヘト拡散シ、霧散スルデショウ」
錨。その言葉に、芳樹ははっとした。自分が、そうなのではないだろうか。
「ずっと、そばにいてほしい」という、あの馬鹿げた、しかしあまりにも強力な魂からの願い。その契約こそが、この宇宙的存在を、かろうじてこのちっぽけな地球の上に繋ぎとめている、唯一の楔。自分がインフルエンザで衰弱していた時。その契約の力が弱まったせいで、彼女の存在もまた不安定になったのではないだろうか。
芳樹は決意した。今度は、自分が彼女の錨になるのだ、と。
その日の夜、クトゥルフは、ついにその巨大な体を支えきれなくなり、まるで眠りに落ちるかのように、リビングの床にゆっくりとその身を横たえた。芳樹は毛布を何枚も彼女の体にかけると、その巨大な頭部(らしき場所)のすぐ隣に座布団を敷き、そこに座った。自分がそうしてもらったように。今度は自分が一晩中、彼女のそばにいるのだ。
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深夜。古民家は静寂に包まれていた。芳樹は睡魔と戦いながら、じっとクトゥルフの様子を見守っていた。彼女の体の明滅は、ますます激しくなっている。そして芳樹は感じていた。彼女の不安定な精神波が、まるで嵐のように部屋中に吹き荒れているのを。その人知を超えた精神の嵐に、芳樹のか弱い人間の意識が徐々に同調していく。眠ってはいけない。そう思えば思うほど、彼の瞼は重くなっていく。やがて、彼の意識は、まるで巨大な渦に吸い込まれるかのように、ゆっくりと引きずり込まれていった。
そこは、彼女の夢の中。あるいは、彼女の記憶の深淵だった。
最初に彼が、見たのは光だった。いや、それは光ではない。人間の網膜が認識できる可視光線などという矮小なものではない。それは、色彩が音として聞こえ、音が匂いとして感じられる、共感覚的な情報の奔流だった。紫色の和音。緑色の轟音。赤色の囁き。
彼は航行していた。自らの翼で。それは肉体的な翼ではない。精神と意思だけで構成された光の翼。巨大な生きている星雲がすぐそばを流れていく。その星雲は歓喜の歌を歌っていた。遠くでブラックホールが断末魔の悲鳴を上げながら死んでいく。その死は美しい鎮魂歌を奏でていた。彼は見ていた。クトゥルフの視点で。故郷の星、ゾスを旅立つ、その記憶を。
やがて前方に、一つの惑星が見えてくる。青くはない。赤く燃え盛る灼熱の星。原始の地球。彼は、その灼熱の大気圏へと突入していく。大気は硫黄の匂いがした。大地はまだ固まっていないマグマの海だった。空には、今とは違う配置の星々と、そして巨大な二つの月が浮かんでいる。粘菌状の巨大な植物が蠢き、恐竜以前の、まだ名もなきおぞましい原生生物たちが互いを喰らい合っている。生命の混沌。クトゥルフは、その荒々しい若い星を見て、満足げだった。ここは新しい自分の王国にふさわしい、と。
場面が変わる。暗く冷たい水の底。太平洋の遥か深淵。クトゥルフは、そこに自らの夢の都を創造していた。それは人間の建築様式とは全く異なる法則で成り立っていた。非ユークリッド幾何学。彼女が念じるだけで、海底の泥の中から、冒涜的なる黒緑色の巨大な建造物が、ありえない角度でそびえ立っていく。直線は存在しない。全ての柱は螺旋を描き、全ての壁は緩やかに湾曲している。直角であるはずの角は、見る者の脳を直接揺さぶり、鋭角にも鈍角にも見える。その巨大都市、ルルイエの光景は、見る者の理性と三半規管を狂わせる、壮麗で冒涜的な芸術だった。
やがて都は完成する。無数の眷属たちが彼女を讃え、ひれ伏していた。半人半魚の深きものども。飛行する有翼の夜鬼。そして彼女の忠実なる大祭司、クトゥルフの星の落とし子たち。彼女は、その巨大な石の玉座で、その光景を見下ろしていた。栄華の絶頂。だが芳樹は、感じていた。彼女のその視点から見える風景の中に潜む絶対的な孤独を。彼女を讃える者は無数にいる。だが、彼女と同じ視線で世界を見る者は誰一人としていない。彼女は、王であり、神であり、そしてただ一人だった。
場面が変わる。永い永い時が過ぎた。星辰が傾き、彼女の力が失われていく。世界が徐々に色褪せ、音が遠のいていく感覚。古き神々との戦い。あるいはただ宇宙の法則そのものによる封印。眷属たちは、一人また一人と彼女の元を去っていった。巨大で静まり返ったルルイエ。その誰もいない玉座の間で、彼女はただ一人座っていた。やがて、彼女は自らの意識を閉じることを決意する。再び星辰が正しき位置に巡ってくる、その遥かなる未来まで。永劫の眠り。ここからが彼女の本当の孤独の始まりだった。
夢の中で、彼女は意識だけの存在となった。時間は意味を失う。一秒が一億年にも感じられ、一億年が一瞬にも感じられる。彼女の思考が徐々に摩耗し、風化していく。喜びも悲しみも、怒りも憎悪も、全ての感情が悠久の時の中で擦り減り、ただの色のない砂粒となって、意識の底へと沈殿していく。残ったのは、ただ一つ。「待つ」という漠然とした感覚だけ。何を待つのか。誰を待つのか。それすらも、もはや定かではない。ただひたすらに待つ。暗く冷たく、そしてどこまでも静かな意識の海の中。一人きりで。
その永遠とも思える静寂の闇の中へ。一つの声が届いた。それは小さくか弱く、しかしどこまでも温かい、人間の声だった。
「……お前、ずっと、一人だったのか……?」
「……寂しかった、のか……?」
その声は、数億年の間閉ざされていた、彼女の心の扉を優しくノックした。闇の中で、クトゥルフの風化した意識が、数億年ぶりに明確な輪郭を取り戻し始める。そして、彼女は問いかけた。その闇の中に差し込んだ一筋の光に向かって。《…………汝は、誰だ…………?》
その問いに、現実の世界で芳樹が答えた。彼は眠りながら、うわ言のように、はっきりと呟いた。
「――俺は、菊池芳樹だ」
「――お前の、そばにいるって、約束しただろ……。くとぅるふ――」
その言葉。現実の世界で眠りについていたクトゥルフの、その六つの瞳が、ゆっくりと、そして確かに開かれた。彼女は、その昏い瞳で、自らの手を握りながら眠っているちっぽけな人間の、その寝顔をじっと見つめていた。彼女の心の中に、数億年ぶりに孤独以外の新しい感情が産声を上げた瞬間だった。
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翌朝。芳樹が目を覚ました時。クトゥルフは完全に回復していた。彼女の体の明滅は完全に収まり、その存在は以前よりも遥かに力強く、この地球の法則の上に根を張っているかのようだった。芳樹は夢の中での出来事を断片的に覚えていた。彼は全てを理解した。彼女の計り知れない孤独を。彼女の心の奥底にある渇望を。そして、自分という矮小な存在が、彼女にとってどれほどの意味を持つのかを。彼女は、ただの迷惑な同居人でも、宇宙的恐怖の化身でもない。自分と同じように孤独を感じ、温もりを求める一人の存在なのだ。二人の間に、契約者と神という関係を超えた、対等で、そしてかけがえのないパートナーとしての絆が明確に結ばれた朝だった。
その穏やかな朝の静寂を切り裂くように。けたたましい電子音が鳴り響いた。芳樹のスマートフォン。画面に表示された名前は、「門倉健」。電話の向こうから聞こえてきたのは、彼の血相を変えた絶叫だった。
『――た、大変だ、菊池くん!』
『――市の郷土資料館に保管されていた、あの、『開かずの間の鏡』が……!』
『―――何者かに、盗まれたらしいんだ!―――』
物語は、次なる混沌へと、その扉を開けようとしていた。




