第三話 コズミック的物件探し
菊池芳樹の人生において、後部座席がこれほどまでに広大で、同時に息苦しいと感じられたことはなかった。
黒塗りの高級車――おそらくはドイツ製であろうその車は、まるで深海を滑る潜水艇のように、音もなく滑らかにアスファルトの上を進んでいく。上質な本革のシートは、彼の安物のジーンズには不釣り合いなほどに柔らかい。しかし、彼の体の自由は、その快適さとは裏腹に、極限まで制限されていた。
彼の左半身には、冒涜的なる神、クトゥルフのぬめりを帯びたゴム状の巨体が、むっちりと密着していた。車内の空間に合わせて無理やり体を折りたたんでいるせいで、本来どこにあるべきなのか分からない彼女(?)の関節が、時折芳樹の肋骨を不穏に圧迫する。鼻をつくのは、革製品の匂いと、遥か太古の深海の香りが混じり合った、悪夢のような芳香だ。
そして、助手席から振り返る、あの不動産屋の男の胡散臭い笑顔。
「いやはや、お客様。それにしても、素晴らしいオブジェをお持ちで。まるで生きているかのようですなあ。最近のハイパーリアリズムというやつですか?」
男は、芳樹の隣に鎮座する、この宇宙的恐怖の化身を、本気で前衛的な芸術作品か何かだと思い込んでいるようだった。脳が、理解不能な情報を、都合よく捻じ曲げて解釈しているのだ。芳樹には、もはやそれを訂正する気力もなかった。
「……ええ、まあ、そんなとこです」
力なく頷く芳樹に、不動産屋は満足げに笑いかける。
「お任せください! 必ずや、お客様と、この素晴らしい芸術品にふさわしいお住まいを見つけてご覧にいれますとも!」
かくして、一人の人間と一体の邪神による、絶望的な物件探しツアーは、こうして始まったのだった。
最初に案内されたのは、大学からもほど近い、ごく普通のワンルームアパートだった。
「まずは手堅いところで、こちらの『メゾン赤紫』! 駅徒歩十分、南向きで日当たりも良好ですよ!」
不動産屋が朗らかにドアを開ける。ごく一般的な、何の変哲もないアパートの一室だ。だが、問題はそこへ至るまでの道のりにあった。
「……あの、すいません。入れないんですけど」
芳樹は、アパートの玄関の前で立ち尽くしていた。彼の背後では、クトゥルフが、その巨体をつっかえさせていた。まるで、瓶の中に無理やり詰め込まれようとしている、巨大なタコのように。
彼女の肩幅(らしき部分)は、日本の標準的なドアの規格を、遥かに超越していたのだ。
クトゥルフは、芳樹の「入れ」という命令を忠実に守ろうと、ぬるり、むぎゅ、と体をねじ込む。ミシミシ、とドアのフレームが、悲鳴のような音を立てて歪んでいく。
「ああああ! やめろ! 壊れる! ていうか弁償させられるのこっちなんだぞ!」
芳樹の悲痛な叫びに、クトゥルフはぴたりと動きを止め、六つの瞳で不思議そうに彼を見つめ返した。
不動産屋は、その惨状を目の当たりにしても、笑顔を崩さない。
「いやあ、これは失敬! オブジェの搬入には、少々手狭でしたかな! 次へ参りましょう、次へ!」
そのポジティブさは、もはや狂気の域に達していた。
次に案内されたのは、市街地を一望できる、高層のデザイナーズマンションだった。
「こちら、最上階の角部屋! 壁一面がガラス張りになっておりまして、開放感は抜群ですよ!」
部屋は、確かに洒落ていた。だが、芳樹は、先ほどからクトゥルフの様子がどこかおかしいことに気づいていた。彼女は、車から降りてからというもの、どこか落ち着きがなく、その巨体をそわそわと揺らしている。
そして、ガラス張りの部屋に足を踏み入れた瞬間、彼女は明確な拒絶反応を示した。
《……帰る》
脳内に、短いテレパシーが響く。それは、芳樹が初めて聞く、彼女の弱音のような響きを持っていた。
「どうしたんだよ、急に」
クトゥルフは、ガラスの壁に映り込む自らの姿、そして芳樹の姿を、六つの瞳で警戒するように睨みつけている。芳樹は、はっと気づいた。
彼女は、鏡の中から、この世界へやってきたのだ。
彼女にとって、このガラス張りの部屋は、無数の「扉」に囲まれた、落ち着かない空間なのかもしれない。あるいは、自らが閉じ込められていた、異次元の牢獄を想起させるのかもしれない。
芳樹は、不動産屋に「ちょっと、ガラスが多すぎて落ち着かないんで…」と、苦しい言い訳を告げた。
三件目は、「ペット可」を謳う、少し古びた木造アパートだった。
人の良さそうな大家のおばあさんが、にこにこと笑顔で出迎えてくれる。
「あらあら、学生さんかい。うちはね、ワンちゃんでもネコちゃんでも、家族と一緒なら大歓迎だよ」
「あ、ありがとうございます……」
芳樹が安堵しかけた、その時だった。車の後部座席から、クトゥルフが、その冒涜的な全身をぬるりと地上に降ろした。
大家のおばあさんの笑顔が、顔面に張り付いたまま、凍りついた。
彼女の目は、信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、口は半開きのまま、かすかに震えている。
「……あの、うちは……許可してるのは……小型犬か……猫まででして……」
それが、彼女の最後の言葉だった。
おばあさんは、ゆっくりと白目を剥くと、糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
芳樹は、天を仰いだ。
(もう無理だ……終わった……俺は、この邪神様と、公園で野宿する運命なんだ……)
完全に心が折れた芳樹を乗せ、高級車は再び走り出す。芳樹は、もはや窓の外の景色を見る気力もなく、座席に深く体を沈めていた。
その時、それまで陽気な態度を崩さなかった不動産屋が、ふと、何かを思い出したように、ぽつりと呟いた。
「……そういえば、一つだけ……本当に、一つだけ、ございますな」
「……?」
「広さだけは、無駄にある物件が。まあ、少々……いえ、かなり、ワケあり、でしてね」
「ワケあり……?」
芳樹は、その言葉に、一縷の望みを繋いだ。もはや、この際、幽霊が出ようが、殺人事件の現場だろうが、どうでもよかった。この三メートルの神様が受け入れられるのなら、どんな物件でも構わない。
「行きます! そこ、お願いします!」
芳樹の力強い返事に、不動産屋は、これまでで最も深い、不気味な笑みを浮かべた。
「かしこまりました。お客様ならきっと、気に入ってくださると思っておりましたよ」
車は、市街地を離れ、鬱蒼とした木々が両脇に迫る、山道へと入っていった。
車一台がやっと通れるような、舗装もされていない砂利道。その終着点に、その家は、まるで巨大な獣がうずくまっているかのように、ひっそりと、しかし圧倒的な存在感で建っていた。
屋根は苔むし、柱は黒ずみ、障子は破れて久しい。だが、その広さは、芳樹がこれまで見てきたどんな物件とも比較にならなかった。だだっ広い庭、長い縁側、そして、蔵までついている。
「……すげえ、広い……」
芳樹が呆然と呟く。
「でしょう」と不動産屋が言う。「以前は、民俗学者の先生がお一人で住んでおられましてね。ですが……ある日、庭から奇妙な土偶のようなものを掘り出してから、気がふれてしまい、どこかへ失踪してしまったのですよ。それ以来、この家は『出る』と噂になりましてね。誰も住み着かなくなったのです」
男が、重い木製の引き戸をガラリと開ける。
その瞬間、家の中から、冷たい空気が、まるで溜息のように溢れ出してきた。
芳樹が恐る恐る足を踏み入れると、その「現象」はすぐに始まった。
誰もいないはずの台所から、皿が宙を舞い、壁に叩きつけられて割れる音がする。二階からは、少女のような、甲高い笑い声が聞こえてくる。廊下の向こうの暗闇で、何かが蠢く気配がする。
典型的なポルターガイスト現象。芳樹の背筋が、ぞわりと凍りついた。
「ひいぃぃぃっ!」
芳樹が悲鳴を上げて逃げ出そうとした、その時だった。
彼の後ろから、静かに家の中へ入ってきたクトゥルフが、家全体を、その六つの瞳で、ゆっくりと見渡した。
そして、脳内に、静かだが、絶対的な威厳に満ちたテレパシーが響き渡った。
《――静まれ、下劣なる残響よ。真なる混沌が、今ここに宿った》
その一言が、全てだった。
ぴたり、と。
家の中の、全ての物音が止んだ。皿が割れる音も、笑い声も、蠢く気配も、まるで最初から何もなかったかのように、完全に消え失せた。
水を打ったような静寂。それは、先ほどのポルターガイスト現象よりも、遥かに恐ろしく、そして神聖な静けさだった。この家に巣食っていた程度の低い霊たちは、自分たちとは比較にすらならない、圧倒的な上位者の存在を悟り、恐怖のあまり沈黙したか、あるいは、その存在そのものが消滅させられてしまったのだ。
不動産屋は、その現象の本当の意味など知る由もなく、ただきょとんとした顔で言った。
「おや? 静かになりましたねえ。お客様との相性が、よほど良かったと見えますな! いやあ、これならお祓い代も浮きますし……特別に、家賃は月一万円で結構ですよ!」
「……いちまんえん……」
芳樹は、その言葉を、呆然と繰り返すことしかできなかった。
かくして、芳樹は、ありえないほどの幸運――あるいは、抗いがたい宇宙的な強制力によって、この広大な古民家を、新たな住処として手に入れた。
広々とした畳の部屋で、クトゥルフは心なしかのびのびと手足を伸ばしている。芳樹は、その隣で、疲れ果てて大の字に寝転がっていた。
(家賃一万は、めちゃくちゃ助かるけど……絶対におかしい。何かに『お前たちは、ここに住め』って、無理やり導かれてるみたいだ……)
そんなことを考えていると、ふと、部屋の隅にある、開けっ放しになった押入れが目に入った。その奥に、前の住人が残していったのであろう、一つの古びた木箱が置かれているのが見えた。
好奇心に駆られた芳樹は、体を起こし、その木箱へと手を伸ばす。
ギィ、と嫌な音を立てて、蓋が開く。
中に入っていたのは、二つの奇妙な品だった。
一つは、星の模様が描かれた、黄ばんだ絹の布切れ。
そして、もう一つは、動物の骨か何かでできた、不気味な装飾の笛だった。
芳樹が、その笛を、何気なく手に取った、その瞬間。
家の外で、突風が、まるで誰かの咆哮のように、びゅう、と吹き荒れた。




