第二十九話 汝、病めるときも(In Sickness and in Health)
菊池芳樹は敗北した。それは、宇宙的恐怖の化身との対峙でもなければ、傲慢なる混沌の王との舌戦でもない。彼の、これまで培ってきた異常なまでの狂気への耐性を、いとも容易く打ち砕いたもの。そのあまりにもありふれた、しかし人類にとっては最強の敵の一つ。その名は、インフルエンザ・ウイルス。
「……う……あたま、いてえ……」
布団の中で、芳樹は呻いた。体温計が示した数字は三十九度二分。もはや冗談ではない。体の全ての関節が、まるで錆びついた機械のように軋み、悲鳴を上げている。頭は、巨大な万力で内側から締め付けられるかのように、ズキズキと痛む。喉は灼熱の砂漠と化し、僅かに息を吸い込むだけで激痛が走った。熱に浮かされた視界はぐにゃぐにゃと歪み、天井の木目が、まるで蠢く無数の蛇のように見えた。
彼は神々との数々の死闘を潜り抜けてきた。だが、今この瞬間、彼はただの無力で哀れな病人だった。千夏に連絡して助けを求めることも考えた。だが、この高熱の状態で、彼女にウイルスをうつすわけにはいかない。万事休す。芳樹は、最後の気力を振り絞り、枕元でこの世の終わりのように退屈している異形の同居人たちに向かって、か細い声を絞り出した。
「……だ、誰か……。た、助けてくれ……。看病、してくれ……」
それは、彼のこの家における最大の判断ミスであったことを、彼はまだ知らなかった。そのか弱い助けを求める声に、三柱の神々はそれぞれの形で即座に反応した。そして、芳樹の穏やかな療養生活は、地獄の人体実験へとその姿を変貌させたのだ。
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最初に、行動を起こしたのはクトゥルフだった。彼女は芳樹の苦しむ姿を、その六つの瞳でじっと見つめると、ゆっくりとその巨大な緑色の体を、彼の布団のすぐ隣へと移動させた。そして、一本のぬめりを帯びた触腕をそっと伸ばすと、熱で汗ばむ芳樹の額の上にぴたりと乗せた。ひんやり、と。その感触は驚くほど冷たく、そして心地よかった。まるで最高級の冷却シートのようだった。彼女は、その触腕を通じて、芳樹の体から余分な熱を物理的に吸収しているようだった。(……お、意外とまともな看病かも……)芳樹の朦朧とした意識の中に一筋の希望の光が差し込んだ。
だが、その希望は、次の瞬間、絶望へと変わることになる。《……よしき。……栄養を、摂取せよ》クトゥルフからテレパシーが届く。そして、彼女は別の触腕の先に何かをつまんで、芳樹の口元へと差し出してきた。それは、深海の底で採ってきたのであろう、ぼんやりと青白い光を放つ苔のような何かだった。
「……い、いらん……」芳樹はかろうじて首を横に振る。《……そうか。……ならば、これだ》次に、彼女が差し出してきたのは、まだぴちぴちと元気に跳ねている小魚だった。だが、その魚は、芳樹の知るどんな魚とも似ていなかった。その体は半透明で、内部の奇妙な螺旋を描く内臓が透けて見えている。そして、その巨大な一つ目からは知性的な光が放たれていた。《……ルルイエ近海で獲れる、深きものどもの主食だ。……滋養強壮に効く》
「いらないって、言ってんだろおおおおおっ!」芳樹は最後の力を振り絞って絶叫した。クトゥルフは、心なしか悲しそうに、その光る魚を引っ込めた。
次に、しゃしゃり出てきたのはハスターだった。「フン、痴れ者め。病人の扱いも知らんのか」彼はクトゥルフを一瞥すると、芳樹に向かって尊大に宣言した。「我が伴侶よ!光栄に思うがいい!この、王たるハスターが直々に、汝を看病してやる!」そう言うと、彼は指をぱちんと鳴らした。その瞬間、芳樹の殺風景な六畳間の風景が一変した。万年床だった布団が消え、その代わりに黄金の天蓋付きの巨大なベッドが出現した。壁には深紅のベルベットのカーテンがかかり、床にはふかふかの絨毯が敷き詰められている。芳樹の質素な病室は、一瞬にしてヨーロッパの王侯貴族が使うかのような、豪華絢爛で悪趣味な寝室へと変貌してしまった。
「ど、どうだ……。王の寝室は、心地よかろう……」ハスターは、自らが作り出したその空間に満足げに頷いている。だが、芳樹にとってはただ落ち着かないだけだった。そしてハスターの狂気の看病は、まだ始まったばかりだった。「病は気から、と言う。……ならば、汝のその弱った精神を、我が芸術で鼓舞してやろう!」彼はどこからか分厚い革張りの古書を取り出すと、芳樹の枕元に椅子を置き、そこに腰掛けた。そして朗々とその叙事詩の朗読を始めたのだ。「―――遥か、ヒアデス星団に、黒き星、沈む時……。カルコサの、双子の、太陽は、その光を、失い……」その芝居がかった、美しい声は、しかし芳樹の熱でガンガンと痛む頭には、ただの騒音でしかなかった。彼は全く休ませてくれる気がないらしい。芳樹は黄金の枕に顔を埋めた。
そして最後に、ツァトゥグァ。彼は炬燵からのそり、と這い出すと、芳樹のベッド(ハスターが作り出した黄金のベッド)へとやってきた。そして心底面倒くさそうに、こう呟いた。「…………人間は、寝ていれば、治る」それだけを言うと。彼は、芳樹の布団の中に、もぞもぞと潜り込んできた。ひんやり、と。彼の毛むくじゃらの体は、不思議と冷たく、そして柔らかかった。熱で火照った芳樹の体には、それは最高級の冷却枕のように心地よかった。(……お、こいつが一番まともかも……)芳樹の意識が安堵に遠のきかけたその時。彼は気づいた。ツァトゥグァの体から発せられるあの「聖なる怠惰のオーラ」が、いつもより遥かに強力になっていることに。そのオーラは、芳樹の肉体だけでなく、その精神の奥深くまで侵食してくる。病と戦おうとする免疫力が弱まっていく。生きようとする意志が希薄になっていく。(……もう、いいか……。熱があっても……。このまま眠って……。全てが、終われば楽になれる……)彼の生命力が根こそぎ奪い去られていく。それは安らかな眠りではなかった。緩やかな死、そのものだった。
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クトゥルフの冒涜的な食事療法。ハスターの騒々しい芸術療法。そしてツァトゥグァの精神を蝕む睡眠療法。神々の混沌とした看病のフルコース。そのあまりにも過酷な状況に、芳樹のか弱い人間の肉体と精神は、ついに限界を迎えた。朦朧とする意識の中、彼は最後の力を振り絞り、弱々しく、しかしはっきりと呟いた。「…………もう、いい…………。……頼むから、ほっといて、くれ…………」
その拒絶の言葉。それを聞いた瞬間。あれほど騒々しかった部屋が、水を打ったように静まり返った。神々の動きが止まる。ハスターは、朗読していた叙事詩の途中で言葉を失い、どこか傷ついたような表情で芳樹を見つめている。クトゥルフは、芳樹の額に乗せていた触腕を、まるで感電でもしたかのようにさっと引っ込めた。ツァトゥグァも、布団の中から、のそりと出て行くと、いつもの炬燵の中へと戻っていった。芳樹は、ようやく手に入れた静寂の中で、ゆっくりとその重い意識を手放していった。
夜。芳樹は悪夢にうなされていた。熱に浮かされた脳が見せる混沌とした夢。奈々瀬拓人の嘲笑う顔が浮かんでくる。お前は一人だ、と彼が囁く。お前は神々に利用され、最後は狂って死ぬのだ、と。暗い、暗い奈落の底へ、どこまでも落ちていく感覚。もうだめだ。そう思った、その時。ふ、と。誰かが自分の手をそっと握っていることに気づいた。その手はひんやりと冷たく、しかしどこか優しく、そして力強かった。悪夢の中で溺れていた、彼の意識を繋ぎとめる、唯一の錨。
芳樹は必死にその重い瞼をこじ開けた。熱で滲む視界。月明かりだけが差し込む薄暗い部屋。黄金のベッドは、いつの間にか元の安物の布団に戻っていた。そして、その布団のすぐ枕元。巨大な影が静かに座っていた。クトゥルフだった。彼女は、その巨大な体躯を、窮屈そうに、しかし完璧な正座の姿勢で折りたたみ、ただ黙って芳樹のことだけを見つめていた。彼女の六つの瞳が、暗闇の中で、まるで遥か彼方の星雲のように淡い光を放っている。その瞳に宿っているのは、いつもの無機質な好奇心ではなかった。それは、芳樹にはまだ正確に理解できない、しかしどこか心配するような、そんな温かい色のようだった。彼女は、芳樹の手をその触腕でそっと握りしめていた。ただ、それだけ。彼女はそのまま一晩中、動くことなく、芳樹のそばに座り続けていた。
翌朝。芳樹が目を覚ました時。嘘のように熱は下がっていた。あれほど体を苛んでいた痛みも、倦怠感も消えている。朝の柔らかい日差しが、障子を通して部屋を明るく照らしていた。芳樹はゆっくりと体を起こす。そして気づいた。隣でクトゥルフが、まだ自分の手を握ったまま静かに座っていることに。芳樹が目を覚ましたのに気づくと。彼女は、はっとしたように、その触腕をさっと引っ込めた。そして何事もなかったかのようにすっと立ち上がると、そのまま部屋から出て行ってしまった。芳樹は、その巨大な背中をただ黙って見送っていた。彼の心の中には、これまでに感じたことのない温かい感情が満ちていた。メチャクチャな看病だった。だが、最後に自分を救ってくれたのは、間違いなく彼女のその不器用な優しさだったのだと、彼は確信していた。芳樹の彼女に対する感情が、また一つ新しい名前を得た、瞬間だった。
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数日後。芳樹が完全に回復した、ある日の昼下がり。リビングで珍しい光景が広がっていた。クトゥルフが、部屋の隅でぐったりと丸くなっているのだ。彼女の緑色の巨大な体は、まるで古いテレビのように、その輪郭がぶれ、そして時折ノイズが走ったかのように明滅している。芳樹が心配して声をかけると。彼の脳内に届いたテレパシーは、ひどい雑音混じりで途切れ途切れだった。《……よ……き……。……なんだか……。……調子が……zzzz……悪い……》それは、ただの風邪では、ないようだった。彼女のその神としての存在そのものが、不安定になっている。芳樹の新たなる受難の幕が、今再び上がろうとしていた。




