第二十八話 邪神たちの初詣
十二月三十一日、午後十一時四十分。菊池芳樹の家は、奇妙な静けさと、そして日本の家庭が持つ独特の年末の空気に包まれていた。テレビの画面では、国民的な歌番組がそのフィナーレを迎えようとしている。一年を締めくくる、華やかで、どこか感傷的なメロディーが、古民家の煤けた柱に優しく響いていた。
そのあまりにもありふれた、日本の大晦日の光景の中で。リビングの中央、炬燵を囲んで座るその面々は、ありふれている、という言葉からは最もかけ離れた存在だった。
「……ふむ。悪くない」
芳樹が、見様見真似で茹で上げた年越しそば。そのささやかな一杯を、ハスターは、まるで高級なフランス料理でも吟味するかのように優雅に箸でつまみ上げると、そう呟いた。彼の口元には、王としての尊厳を保とうとする僅かな矜持と、空腹には勝てないという素直な欲求が、絶妙なバランスで混在している。「まあ、王の一年の締めくくりとしては、あまりにも質素極まりないが……。この出汁の素朴な香りは悪くない。我が伴侶の、不器用なもてなしの心として、受け取ってやろう」その、どこまでも上から目線の、ツンデレな賛辞に、芳樹はもはやツッコミを入れる気力もなかった。
その隣で、クトゥルフは、未知の食文化に対する科学者のような真剣な眼差しで、そばの丼を見つめている。彼女は、まず一本の触腕を器用に伸ばすと、スープを、一滴だけ掬い取り、その先端でぺろり、と舐めた。そして、その六つの瞳をゆっくりと瞬かせ、脳内でその成分を分析しているようだった。
《……塩分濃度、一・二パーセント。……グルタミン酸、イノシン酸を、含有。……人間が、旨味と、認識する、成分構成に酷似。……理解した》
次の瞬間、彼女の体から、十数本の緑色の触腕がしゅるり、と伸び、それぞれが一本の箸のように器用にそばを掴むと、猛烈な、しかし決して音を立てない、効率的な動きで、その巨大な口(らしき場所)へと運び始めた。それはもはや食事ではなかった。有機物の効率的なエネルギー変換作業だった。
そして炬燵の中からは、黒い毛むくじゃらの手が一本だけ、にゅっと伸びてきていた。ツァトゥグァだ。彼は、炬燵から一歩も出るつもりがないらしい。芳樹は、深いため息をつくと、もう一つの丼を手に取り、その怠惰なる神の口元へと、まるで雛鳥に餌を与えるかのように、そばを運んでやった。「………………ん」炬燵の中から満足げな呻き声が聞こえてくる。
芳樹は、そんな混沌を極めた食卓の光景をぼんやりと眺めていた。数ヶ月前までは想像すらできなかった光景。馬鹿馬鹿しくて、迷惑で、そしてどうしようもなく温かい。
テレビの画面で、蛍の光が流れ始めた。旧年が終わる。芳樹はふと思いついた。この狂った日常の中で、一つくらいまともな日本の伝統行事を、こいつらにも経験させてやるのも悪くないかもしれない、と。「なあ、お前たち」彼は立ち上がると宣言した。「年が明けたら、初詣に、行くぞ」
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深夜零時半。赤紫神社へと続く長い参道は、新年を祝う大勢の参拝客でごった返していた。吐く息は白く、凍てつくような冬の夜気。だが、人々の顔には、新しい年を迎えたことへの高揚感と期待が浮かんでいる。その人間の温かい集団心理の奔流の中を。菊池芳樹の一行は、まるで川の流れに逆らう異形の岩石のように進んでいた。
芳樹は、寒さ対策と人目を避けるため、目深にフードを被っている。ハスターは、どこから持ってきたのか、漆黒のロングコートをその身に纏い、マフィアのボスのような威圧感を放っていた。そしてクトゥルフは。芳樹が無理やり着せた特注の巨大なダッフルコートのそのフードの奥で、六つの瞳を好奇心にきらきらと輝かせている。彼女にとって、この人間の奇妙な夜の祝祭は、全てが未知の体験なのだ。
参道の両脇には、屋台がずらりと並び、煌々と裸電球の光を放っている。その光と喧騒と、そして甘い匂いの洪水に、神々はそれぞれの反応を示した。
最初の混沌は、「おみくじ」の売り場で起きた。ハスターは、王の余興とでも言うように、巫女からおみくじを受け取ると、その筒を、まるでカクテルをシェイクするバーテンダーのように優雅に、そして無駄に何度も振った。そして出てきた一本の棒。そこに書かれていた番号は「一番」。「フン、当然だ。王たる私が一番以外を引くはずがないだろう」彼が、巫女から受け取ったおみくじの結果は―――「大吉」。
「フハハハハ!見よ、人間よ!この星の神々とて、この私の偉大さを認めざるを得ないようだな!」
ハスターは高らかに笑った。だが、その得意満面の表情は、おみくじに書かれた詳細な運勢を読んだ次の瞬間、凍り付くことになる。『――願望:他者の助けを得て、叶う。驕る心を、捨てなさい』『――商売:利益を独り占めせず、分け与えれば、吉』『――学問:分からないことは、素直に人の教えを乞いなさい』そこに書かれていたのは、彼の王としてのプライドを根源から否定するような、謙虚さと協調性を説く、言葉のオンパレードだった。ハスターは、わなわなと震え、その美しい顔を屈辱に歪ませた。
「……なんだ、これは……!この私に謙虚になれだと……!?ふざけるなッ!」
彼は、その大吉のおみくじをくしゃくしゃに握り潰すと、神社の木に結びつけるのではなく、近くのゴミ箱へと叩きつけた。
一方、クトゥルフは。彼女は、その巨大な鉤爪のついた手で器用におみくじの棒を一本取り出した。その番号は「十三番」。不吉な数字。そして巫女が差し出してきたおみくじの結果は―――「大凶」。芳樹は青ざめた。だが、クトゥルフは、その絶望的な結果を前にしても全く動じていなかった。彼女は、その六つの瞳で、紙に書かれた「災いを呼ぶ」「病に倒れる」「全てを失う」といった不吉な言葉の羅列をじっと見つめている。芳樹は、彼女のその平坦な精神の表面下に、一つの純粋な疑問が浮かんでいるのを感じ取っていた。(……なぜ、人間はこのような矮小な事象を、『凶』と呼び、恐れるのだろうか……?)
次の瞬間、彼女の手に握られたおみくじの紙が、まるで数千年の時を一瞬にして経過したかのように、ぱらぱらと風化し、茶色い塵となって崩れ落ちていった。彼女は、芳樹に向かってテレパシーを送ってきた。《……案ずるな、よしき。……この宇宙において、我よりも凶々しい存在などありはしない。……故に、このような矮小な呪いは、我には届かぬ》そのあまりにもスケールの大きすぎる慰めの言葉。芳樹は、ただ乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。
その後も、神々の奇行は続いた。甘酒の屋台では、クトゥルフが、その温かく甘い米の発酵飲料の味をいたく気に入り、屋台の巨大な寸胴鍋を空にする勢いで、おかわりを要求し、店主を困惑させた。破魔矢の売り場では、ハスターが、「魔を祓うだと?この私、自身が魔王の一柱なのだが、これを私が持つことは自己矛盾に当たるのではないか?」と、巫女のアルバイトの女子大生に延々と哲学的な問答を仕掛けていた。芳樹は、その全ての後始末に追われ、新年早々、その精神をすり減らしていた。
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やがて一行は、長い行列の末に、ようやく神社の本殿へとたどり着いた。巨大な賽銭箱。その向こう側には、ライトアップされた荘厳な社が鎮座している。芳樹は、作法を教えながら、神々と並んで賽銭箱の前に立った。「いいか、まずお賽銭を入れる。……お前らは金持ってないから、俺がまとめて入れとく。……そして二回頭を下げて、二回手を打つ。そして最後にもう一回頭を下げるんだ。……お願い事は、手を合わせてる時に、心の中で念じるんだぞ」
芳樹は、ポケットからなけなしの五百円玉を取り出すと、チャリン、と賽銭箱へと投げ入れた。そして隣に立つ神々と共に深く頭を下げる。柏手を打つ。パン、パン、と乾いた音が冬の澄んだ空気に響き渡った。
芳樹は静かに目を閉じ、手を合わせた。彼の願い事。それはシンプルだった。(――神様。……あんたがどこのどんな神様かは知らないけど……。どうかお願いします。……今年は……もう少しだけでいいから平穏な日々が続きますように。……そして……)彼はそっと目を開け、隣に立つ異形の同居人たちの横顔を見た。(……こいつらと、来年もまたこうして馬鹿なことやってられますように……)
そのささやかな願いを心の中で念じたその時だった。彼の脳内に流れ込んできた。隣に立つ神々の、そのあまりにも純粋で、あまりにも身勝手な「願い」が。それは、彼らの精神がこの神聖な場所に共鳴し、そのガードが緩んだせいか。あるいは、芳樹自身の精神が彼らに近づきつつあるせいなのか。
最初に流れ込んできたのは、ハスターの、傲慢で、しかしどこか切実な願い。《――この星の矮小なる神々よ!よく聞くがいい!我が願いは、ただ一つ!我が伴侶が、この王たる私の真の偉大さを、心の底から理解し、自らの意志で我が足元にひざまずくことである!》
次に聞こえてきたのは、いつの間にか芳樹のコートのポケットの中に潜り込んでいた、ツァトゥグァの究極に怠惰な願い。《………………世界が、永遠に怠惰で満たされ……我が眠りが、決して妨げられませぬように……。……そして、あの家の炬燵が、永遠に暖かでありますように…………》
そして最後に。クトゥルフの心。そこから流れ込んできたのは、明確な言葉ではなかった。それは、イメージと感情の奔流。芳樹、という名前のイメージ。そばにいる、という温かい感覚。なくしたくない、という切実な想い。そして何よりも強く、芳樹の心を打ったのは。――ひとりじゃない――という、数億年の孤独の果てに、ようやく見つけた小さな光を慈しむかのような、純粋で、そして少しだけ切ない感情の奔流だった。
芳樹は、その言葉にならないメッセージに、寒さとは違う理由で胸が熱くなるのを感じていた。お参りを終え、静まり返った帰り道。空から白いものがちらつき始めた。雪だった。新しい年を祝福するかのように静かに舞い降りてくる雪。芳樹がその雪を見上げていると。彼の着ているコートの袖が、くい、と優しく引かれた。見ると、クトゥルフが、その緑色の触腕の先で、彼の袖をそっと掴んでいた。彼女は何も言わない。ただ、その六つの瞳でじっと芳樹の顔を見上げているだけだった。芳樹も何も言わなかった。ただ、その触腕を振り払うことなく、そのまま並んで歩き続けた。
その時、芳樹は気づいた。ここ数日ずっと、家の地下から響いてきていた、あの不気味な心臓の脈動音が、いつの間にか完全に止んでいることに。まるで、彼のささやかな願いが、あの星の扉を一時的に宥め、すかしたかのように。
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数日後。芳樹はベッドから起き上がれなくなっていた。体は火のように熱く、関節は軋むように痛む。宇宙的恐怖にも、神々の精神攻撃にも、耐え抜いてきた彼の強靭な精神力。だが、その肉体はごく普通のインフルエンザのウイルスには勝つことができなかったらしい。彼の新たなる受難の幕は、こうしてあまりにも平凡に、そして唐突に上がったのだった。




