第二十七話 大掃除と家の秘密
十二月三十日。クリスマスという名の悪夢のような祝祭が過ぎ去り、街は、まるで何事もなかったかのように年末の気ぜわしい空気に包まれていた。菊池芳樹の心の中には、未だあの聖夜の戦いの残滓が、消えない染みのようにこびりついていたが、世界は、彼の感傷などお構いなしに、新しい年へと向かってせわしなく時を刻んでいる。
古民家の中は、混沌としていた。戦いの後片付けと、神々の気まぐれな破壊活動のせいで、家の中はもはや人が住む環境とは言い難い状態だった。床には、ハスターが憂さ晴らしに巻き起こした突風で散乱した、レポート用紙やポテチの袋が舞い、壁には、クトゥルフが実験的に錬成した謎の粘液が付着している。芳樹は、その惨状を前に、一つ深呼吸をした。そしてリビングの中央に立ち、この家の無責任で規格外の住人たちに向かって、高らかに宣言した。
「――聞け、お前たち!本日これより、年末厄払い大作戦を、決行する!」
「要するに、大掃除だ!今年のうちに、この家の物理的な汚れも、溜まりに溜まった宇宙的な厄介事も、全部綺麗さっぱり洗い流して、新年を迎えるぞ!」
彼のその悲壮なまでに前向きな宣言。それに対する神々の反応は、予想通り芳しくなかった。「フン、王たる私が掃除だと?我が宮殿は、常に塵一つなく清浄であるべきだが、それは下僕の仕事であろう」ハスターは、ソファの上で優雅に足を組み、爪を磨きながら鼻を鳴らす。
《ソウジ……。ソレハ、先日、我ガ破壊シタ、アノ、騒々シイ機械ノコトカ?》
クトゥルフは、先日、彼女自身がその構造を理解するために分解・再構築し、最終的にブラックホールのような吸引力を持つ、危険な暗黒物質へと変貌させてしまった、最新式のサイクロン掃除機のことを言っているらしい。そしてツァトゥグァは。炬燵の中から、返事すらなかった。おそらく、その意識は既に、数億光年先の眠りの銀河を旅しているのだろう。
芳樹は、こめかみに青筋を浮かべた。「……いいか、よく聞け。これは命令だ!この家は俺の家だ!そしてお前らは居候だ!家主の命令が聞けないというなら、今すぐ出て行ってもらう!この極寒の年の瀬に、な!」その捨て身の脅し文句が、ようやく神々の重い腰を上げさせた。
かくして、人類史上最も冒涜的で、最も危険で、そして最も非効率的な大掃除が、その混沌の幕を上げたのだった。
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まず、芳樹は、それぞれの神の特性に合わせて役割を分担した。ハスターには、その風を操る能力を活かして、家中のホコリやゴミを一箇所に集めるように命じた。「フン、仕方あるまい。我が伴侶がそこまで言うのであれば、この王が直々に風の御業を見せてやろう」ハスターは尊大にそう言うと、リビングの中央で、すっと息を吸い込んだ。
そして次の瞬間。ゴオオオオオオオオオオオオッ!彼の口から放たれたのは、そよ風などという生易しいものではなかった。それは、全てを薙ぎ払い、吹き飛ばす暴風。家の中を小型の台風が通過したかのようだった。畳の上に積もっていたホコリが舞い上がる。それはいい。だが、その暴風は、ホコリだけでなく、畳そのものを床から引き剥がし、障子を木っ端微塵に吹き飛ばし、そして壁にかかっていた、芳樹の数少ない家族写真の額縁すらも、無慈悲に叩き落として粉砕した。
「うわあああああっ!加減しろ、馬鹿!」
芳樹の悲痛な叫びに、ハスターは慌てて風を止める。だが、彼の顔には悪びれる様子など微塵もない。「フン、我が力を完全に制御するのは難しいのだ。……だが、見よ。ホコリは完璧に部屋の隅に集まったぞ」彼の指し示す先。そこには、確かにホコリやゴミが小さな山を作っていた。だが、そのホコリの山は、次の瞬間、ハスターが再び起こした微風によって、ふわりと舞い上がり、リビングの反対側で掃除機と格闘していたクトゥルフの、その巨大な頭部へと正確に降り注いだ。
《………………》
緑色のぬめりを帯びた神の頭が、一瞬にして埃まみれの灰色と化した。クトゥルフの六つの瞳が、ゆっくりとハスターへと向けられる。その瞳には、絶対零度の静かな怒りが宿っていた。ハスターは「フン」とそっぽを向いた。それはあまりにも子供じみた嫌がらせだった。
一方、そのクトゥルフ。芳樹は彼女に、「人間社会の道具を使いこなす練習だ」と言い含め、ミ=ゴに修理してもらった、あの最新式のサイクロン掃除機を渡していた。彼女は、その奇妙な機械の構造を理解しようと試みていた。彼女は掃除機を、その巨大な鉤爪のついた手で器用に分解し、そして再び組み上げていく。その手際は、もはや熟練の技術者のようだった。
だが、彼女の再構築は元の設計図を完全に無視していた。彼女は、掃除機の内部回路に、自らの触腕の一部を、まるで神経回路のように接続し、その動力源であるモーターに、自らのコズミックなエネルギーを直接流し込み始めたのだ。
ブウウウウウウウウウウウウン!
掃除機が唸りを上げた。それは、もはや家電製品の出す音ではない。まるでジェットエンジンか、あるいは異次元の門が開くかのような冒涜的な共振音。そして彼女がスイッチを入れた瞬間。ゴオオオオオオオオオオッ!掃除機の吸引ノズルの先端に、小さな、しかし完璧な黒い球体が出現した。**ミニチュアのブラックホール**だった。ブラックホールは、凄まじい吸引力で、周囲のあらゆるものを吸い込み始めた。ハスターが集めたホコリの山が一瞬で消える。畳の上の座布団が、芳樹の読みかけの漫画雑誌が、そしてテレビのリモコンが、悲鳴のような甲高い音を立ててノズルの中へと吸い込まれていく。
「うわあああああっ!やめろ、クトゥルフ!家が、家が、吸い込まれる!」
芳樹の絶叫。クトゥルフは、その自らが産み出してしまった混沌の化身を、六つの瞳で不思議そうに見つめているだけだった。この大惨事は、ミ=ゴが自律型の掃除ドローンを使って、掃除機の電源ケーブルを物理的に切断するまで続いた。後に残されたのは、奇妙なほどに綺麗になった床と、家の中からいくつかの大切なものが永遠に失われてしまったという悲しい事実だけだった。
そんな地獄絵図のような大掃除の中で。唯一完璧にその役割を果たしている者がいた。ショゴスだ。彼は、芳樹の「綺麗にしろ」という単純な命令を忠実に実行していた。黒く不定形の体でリビングの床をぬるりと這い回り、その原形質の粘膜で全ての汚れを完璧に拭き取っていく。そしてその体は、壁を、天井を、まるで重力を無視したかのように自在に這い上がっていく。テケリ・リ、テケリ・リ、という、あの忌まわしき鳴き声と共に。その光景は、効率的であればあるほど、冒涜的で恐ろしかった。芳樹は、自分の家が、巨大な未知の生物の消化器官の中にでもいるかのような錯覚に陥りそうになった。
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一階の掃除がなんとか一段落した頃には、既に日は傾き始めていた。芳樹は疲労困憊の体を引きずり、これまで見て見ぬふりをしてきた最後の未開拓領域へと、その歩を進めた。床下と天井裏だ。彼は、懐中電灯を手に、台所の床下収納の蓋を開けた。ひんやりとした、カビ臭い空気が顔を撫でる。彼はその暗闇の中へと体を滑り込ませた。
そして気づいた。この家の基礎構造が、明らかに、おかしいことに。柱の位置が、建築力学の常識を完全に無視しているのだ。家を支えるはずの大黒柱が、なぜか家の中心から大きくずれている。その代わりに、何本もの太い柱が、まるで何かを囲むかのように円形に配置されている。それは、家を支えるための構造ではなかった。まるで何か巨大で強力なものを内側から抑え込み、封じ込めるための**「檻」**のような構造だった。
不気味な予感に背中を押されるように、彼は今度は天井裏へと向かった。埃と闇と静寂に支配された空間。彼は懐中電灯の光で、その闇を切り裂いていく。そしてついにそれ、を発見した。家の屋根を支える、最も太い梁。その黒光りする表面に、無数の紋様がびっしりと刻み込まれていたのだ。それはただの装飾ではなかった。人間の脳の視神経を直接攻撃してくるかのような、冒涜的な幾何学紋様。見ているだけで頭痛とめまいがし、三半規管が狂わされ、空間認識能力が麻痺していく。それは、文字であり、数式であり、そして呪いだった。この家そのものが、巨大な封印装置であることを示す設計図。そして芳樹は、もう一つの決定的な異常に気づいた。不動産屋からもらった、この家の間取り図。それと実際の家の構造が、微妙に、しかし決定的に食い違っているのだ。壁の向こう側。そこには、あるはずのない小さな空間が存在している。二階の廊下の突き当たり。そこには、どこにも繋がっていない三段だけの短い階段が存在している。この家は、三次元的な辻褄が合っていない。まるで高次元の存在が、我々の理解できる三次元空間に無理やりその一部を押し込んでいるかのようだった。
その時だった。階下からミ=ゴの電子音声が聞こえてきた。「芳樹サン。少々ヨロシイデスカ。コノ家ノ地下深クカラ、極メテ異常ナエネルギー反応ヲ感知シマス」芳樹がリビングへと戻ると。ミ=ゴが、高感度のジオメトリック・スキャナー――地中探査機のような装置を操作していた。そのモニターに映し出されていたのは、この家の地下構造の三次元モデル。そしてその中心。囲炉裏の真下の、遥か地下深く。一つの巨大な球状のエネルギー体が、表示されていた。それは静かに、しかし確かに脈動していた。ドクン、ドクン、と。まるで巨大な心臓のように。
そのモニターの光を炬燵の中から眺めていたツァトゥグァが。これまで聞いたこともないような重々しい、そしてどこか諦観を帯びた声で呟いた。
「………………それが、“星の扉”だ」
「…………遥か昔。……混沌の奴……ナイアーラトテップが、この次元に飽きて、気まぐれにこじ開けていった、別の宇宙への裂け目よ……」
芳樹は、その言葉に愕然とした。自分たちは、とんでもない危険物の真上で、毎日飯を食い、眠っていたのだ。奈々瀬拓人がこの土地に執着する理由も、ここにあったのだ。
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大晦日の夜。芳樹は一人リビングで、テレビから流れる除夜の鐘の音を聞いていた。ゴオオオオオオン…………。百八つの煩悩を祓うという、その荘厳な響き。その最後の、一打が鳴り響いた瞬間だった。ドクン、と。家の真下から、低く重い脈動音が響き渡った。それは鐘の音に共鳴したかのようだった。まるで永い眠りについていた何かが、今その目覚めの時が近いことを告げるかのように。芳樹の体と家の柱が微かに震える。
新たなる年の始まりは、新たなる絶望の始まりでもあった。




