第二十六話 戦いのあとのクリスマスケーキ
音が戻ってきた。最初に聞こえたのは、遠くで鳴り響く複数台のパトカーと消防車のサイレン。次に、すぐ近くで聞こえる、誰かの不安げな囁き声とすすり泣くような声。そして、自分自身の喉に張り付いたような荒い呼吸の音だった。
菊池芳樹はゆっくりと目を開けた。そこは壮麗な地獄のようだった。赤紫大学の聖チャペル。本来ならば清らかな祈りと、荘厳なパイプオルガンの音色に満たされているはずのその場所は、神々の気まぐれな闘争によって無残な骸を晒していた。祭壇は、まるで巨人の拳で殴りつけられたかのように粉々に砕け散っている。壁を彩っていたはずの美しいステンドグラスは、衝撃波によって微塵となり、床に色とりどりのガラスの砂となって降り積もり、オーロラの禍々しい光を反射してきらきらと不気味に輝いていた。天井には巨大な亀裂が走り、そこから、夜空に広がる赤紫色のオーロラが、まるで天の傷口から流れ落ちる膿のようにゆらゆらと差し込んでいる。空気は、オゾンの匂いと焼けた石の匂い、そして人間には名状しがたい、星々の彼方の冷たい虚無の匂いが混じり合っていた。
「……終わった、のか……?」
芳樹のか細い呟き。
彼の背後で、ハスターが忌々しげに舌打ちをした。その完璧な美貌には、疲労と、そして王としての尊厳を汚されたことへの深い屈辱の色が浮かんでいる。「フン……!あの道化め、最高の舞台だったなどと嘯きおって……まんまと、逃げおったか……!次に会った時こそは、その千の貌を、一つ残らず、我が風で削ぎ落としてくれるわ……!」彼の声は怒りに震えていたが、その奥には、これまで感じたことのない焦りのような響きがあった。
クトゥルフは何も言わない。彼女は、先ほどの力の一部解放によって、その膨大なエネルギーを著しく消耗したのか、巨大な体躯を覆う緑色の肌が、まるで電球が切れかけるように、僅かに明滅を繰り返していた。
やがて、チャペルの聴衆席で、人形のように固まっていた学生たちが、一人また一人と、長い悪夢から覚めたかのようにゆっくりと意識を取り戻し始めた。「……あれ……?」「……私、何を……?」「……なんだか、すごく怖い夢を、見ていたような……。大きな音がして、それで……」相田千夏が、混乱したようにこめかみを押さえている。彼女の手の中で、芳樹があげたキーホルダーが固く握りしめられていた。「……菊池くんが、誰かと戦ってて……?ううん、そんなはず、ないよね……」彼女の記憶は曖昧だった。だが、その魂には、あの悪夢の残滓が、消えない染みのように深く刻み込まれてしまったようだった。
この絶望的な状況をどう収拾するのか。友人たちの砕け散った日常をどう取り繕うのか。芳樹が頭を抱えかけたその時だった。チャペルの砕け散った扉の向こうから、ミ=ゴの一匹が音もなく姿を現した。「……戦闘、終了ヲ確認シマシタ。脅威レベル、低下。……現場ノ、後始末ヲ、開始シマス」
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ミ=ゴたちが呼び寄せた、宇宙的な「後始末」は、芳樹の想像を遥かに超えていた。彼らは、チャペルの中央に、奇妙な水晶と金属が融合した、アンテナのような装置を設置した。「時空間修復装置(簡易版)デス。コノ領域ニ発生シタ、物理的ナ損傷ヲ、隣接スル、可能性世界ノ、正常ナ時空間ト強制置換スルコトニヨリ、表層的ナ修復ヲ試ミマス」芳樹には、その原理など理解できるはずもなかった。
アンテナから、低く不快な振動が発せられると、チャペルの中の景色がぐにゃりと陽炎のように歪み始めた。芳樹の目の前で、砕け散った祭壇が、まるで逆再生の映像のように元の形へと戻っていく。だが、それは修復というよりは、無数の異なる可能性の祭壇の映像が、高速で重ね合わされていくかのようだった。ある祭壇は、少しだけ形が違う。ある祭壇は、全く違う材質でできている。その無数の可能性がちらつき、明滅し、やがて一つの「最も損傷の少ない可能性」に収束していく。数分後、チャペルは見た目上は完全に元通りになっていた。だが、その修復は完璧ではなかった。よく見ると、祭壇の十字架は、ほんの僅かに、人間の目では認識できない、非ユークリッド幾何学的な角度で歪んでいる。ステンドグラスに描かれた聖人の顔は、どこか冒涜的な、昆虫のそれに、見えなくもなかった。それは修復されたのではない。ただ、よりマシな悪夢で、最悪の悪夢を上塗りしただけなのだ。
物理的な修復と並行して。クトゥルフが精神的な後始末を行っていた。彼女は、その六つの瞳を静かに閉じる。すると、芳樹は感じた。彼女の意識が、まるで冷たく、そして広大な霧のようにチャペル全体に広がっていくのを。その人知を超えた巨大な精神は、未だ混乱の中にいる学生たちの、一人一人の柔らかな脳髄へと、優しく、しかし抗いがたく侵入していく。
芳樹は見た。クトゥルフの精神のその触手が、千夏の記憶に触れるのを。そこには恐怖の記憶があった。奈々瀬に操られた無力感。芳樹が、自分たちを守るために叫んだ、あの悲痛な声。そして目の前で繰り広げられた、神々の冒涜的なる戦いの光景。クトゥルフの意識は、その記憶の前で、ほんのごく僅かな時間、ためらったように見えた。それは未知の生物の生態を観察するような、純粋な好奇心か、あるいは別の、芳樹にはまだ理解できない感情の揺らぎか。
だが、次の瞬間、彼女は、その記憶を冷たい霧で覆い隠していく。そしてその代わりに、新しい偽りの記憶を巧みに植え付けた。――このチャペルで、大規模なガス漏れ事故があった。そのショックで、みんな一時的にパニックに陥り、集団で恐ろしい幻覚を見ていたのだ――それは、少し雑な上書きだった。だが、人間の弱い精神は、理解不能な恐怖よりも、理解可能な不幸を信じたがるものだ。学生たちは、やがて、「ああ、そうか、ガス爆発だったのか」「怖かったね」と互いに囁き合い、偽りの安堵にその身を委ねていった。
芳樹は、その光景をただ黙って見つめていた。自分の大切な友人たちの記憶が、目の前で改竄されていく。その言い知れぬ罪悪感。そして、彼は疲れていた。自分の叫びが、神々の力を増幅させたことなど、彼は気づいていない。ただ魂を根こそぎ抜き取られてしまったかのような、途方もない疲労感だけが、彼の全身を支配していた。
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家に帰ると。リビングの炬燵の上には、ありえないほどの大量のクリスマスケーキが山のように置かれていた。近所のコンビニで売れ残っていたであろう、全てのケーキがそこにあるかのようだった。炬燵の中からツァトゥグァの眠たげな声がした。「…………おかえり。……やけに、うるさい、戦いだったな」「…………約束通り、ケーキは確保しておいたぞ。……褒めて、もよい」彼なりの労いの言葉なのだろう。
疲れ果てた芳樹、クトゥルフ、ハスター、そしてなぜか後片付けの報告に来ていたミ=ゴの一匹。一人の人間と、四体の人ならざる者たちによる、奇妙で静かなクリスマスパーティーのやり直しが始まった。
ハスターは、屈辱に唇を噛み締めながら、ヤケ食いのようにケーキを口へと運んでいる。「……あの、道化め……!次に会った時は、必ず……!この私が直々に、宇宙の塵へと還してくれる……!」クトゥルフは、無言で黙々とケーキを食べていた。先ほどの力の解放で失われた、膨大なエネルギーを、その糖分で補給しているのだ。
そして芳樹は。彼はフォークを手に持ったまま、ただぼんやりとケーキの白いクリームを見つめていた。食べることができなかった。罪悪感が彼の喉を締め付けていた。千夏たちを危険に巻き込んでしまった。奈々瀬が、見せた、あの平凡で幸せな日常の幻。自分は、あれを蹴って、この混沌を選んだのだ。その選択は本当に正しかったのだろうか。千夏たちの幸せを、自分が奪ってしまったのではないだろうか。
そんな、彼の心の闇に気づいたのか。隣に座っていたクトゥルフが、ふっと動きを止めた。彼女は、自らのフォークで、自分の分のケーキの上に乗っていた、真っ赤な一粒のイチゴを器用に掬い取った。そしてそのイチゴを無言で芳樹の口元へとそっと差し出した。芳樹は驚いて、彼女の六つの瞳を見つめ返した。その瞳には、言葉はなかった。ただ静かな労りのような色が宿っているだけだった。芳樹はためらいながらも、ゆっくりと口を開け、そのイチゴを受け入れた。口の中に甘酸っぱい味が広がる。それはただのイチゴの味だった。だが、そのあまりにも普通で、あまりにも優しい甘さが、彼のささくれだった心の、一番柔らかな部分にじんわりと染み渡っていった。涙がこぼれそうになるのを、彼は必死で堪えた。「…………サンキュ」彼はそれだけを言うのが精一杯だった。
日常は戻ってきた。それは、もはや元には戻らない、歪で狂った日常。だが、その日常の中に、確かにこういう温かい瞬間があるのだと、彼は改めて思った。それだけで十分だった。
心が少しだけ軽くなったその時。芳樹の脳裏に、ふと、あの古文書の一節が蘇った。ツァトゥグァが言っていた言葉。『――赤き紫の丘には、星への扉が眠る――』『――この土地は、“アイツ”の、お気に入りの遊び場だからな――』赤き紫の丘。この赤紫市が、かつてそう呼ばれていた土地。そしてこの古民家が建っているこの場所こそが、その丘の中心。まさか。芳樹の背筋を、これまでとはまた質の違う、冷たい汗が流れていった。自分がこの家に住むことになったのは、偶然ではなかった。自分がクトゥルフを呼び出してしまった、あの間違い電話も、偶然ではなかった。全ての始まりは。全ての元凶は。この家そのものなのではないだろうか。
芳樹は、自分がとてつもなく巨大で悪趣味な、何かの盤の上に最初から乗せられていたに過ぎないのだという、恐るべき事実に、この時、ようやく気づき始めていた。




