第二十五話 聖夜に響くは冒涜の鐘(ジングルベル)
十二月二十四日、聖なる夜。赤紫市は、美しく、そして静かに狂っていた。奈々瀬拓人という名の混沌が仕掛けた巨大な儀式の影響下で、街は、まるで高熱に浮かされた患者が見る悪夢のように、その日常の風景を歪めていた。
駅前のケヤキ並木を彩るイルミネーションは、祝福の光ではなかった。それは生命の鼓動のように禍々しく脈動し、あるいは人間の神経を苛む不規則な明滅を繰り返している。街角のスピーカーから流れるはずの、陽気なクリスマス・キャロルは、その旋律が微妙に半音ずれ、テンポが僅かに歪むことで、聞く者の無意識下に不安を刷り込む不気味な不協和音へと変貌していた。街全体が、巨大なディストーションのかかったレコードのように、軋みを上げていた。
そして、街行く人々。彼らは、儀式によって心の蓋をこじ開けられ、普段は押し殺している感情の奔流に、その身を委ねていた。理由もなく甲高い声で笑い続ける女子高生。過去の失恋を思い出したのか、ショーウィンドウの前で泣き崩れるサラリーマン。虚空に向かって、誰かの名前を呼びながら、怒りを爆発させる老人。その姿は、祝祭に浮かれる群衆ではなく、魂の仮面を剥がされた、剥き出しの感情の集合体だった。
ボランティアの学生たちが扮するサンタクロースが、虚ろな、焦点の合わない瞳で、街を徘徊している。彼らはプレゼント袋から、小石や枯れ葉といったガラクタを取り出しては、道行く人々に無言で手渡していた。その姿は、子供たちに夢を与える聖者ではなく、魂を抜かれた、歩く屍そのものだった。
菊池芳樹は、家の窓から、その狂気の祝祭の光景を、息を殺して見つめていた。夜空には、あの禍々しい赤紫色のオーロラが、まるで巨大な天の傷口のように不気味な光を放っている。この街全体が、巨大な魔術工房の中で、何か別のものへと作り変えられようとしているかのようだった。
「……始まった、のか……」
芳樹の乾いた呟き。
家のリビングは、これまでにないほどの緊張感と、そして奇妙な静寂に包まれていた。ハスターは、窓の外を、王の尊厳を傷つけられたことへの、静かな怒りに満ちた表情で睨みつけている。クトゥルフは、テレビの画面に映る、無数の苦悶する顔の集合体のような砂嵐を、その六つの瞳でじっと見つめている。ミ=ゴは、無数の触角を震わせ、大気中に満ちる未知のタキオン粒子を分析していた。
その重苦しい沈黙を破ったのは、芳樹の脳内に直接響き渡ってきた一つの声だった。それは、奈々瀬拓人の声。だが、いつもとは違う、どこか神々しさすら感じさせる、朗々とした響きを持っていた。
《――やあ、菊池芳樹くん。そして、愛すべき、旧き神々よ》
《――聖なる夜に、ようこそ。君たちのために、ささやかだが、特別なパーティーを用意した。会場は、君たちにとっても、思い出深い場所だよ》
《――主役は、もちろん、君たちだ。待っているよ、赤紫大学、聖チャペルにて――》
それは、あまりにも丁寧で、あまりにも悪意に満ちた招待状だった。明らかな罠。だが、この街の狂気を止めるには、その罠に自ら足を踏み入れるしかない。芳樹は覚悟を決めた。
「……行くぞ」
彼のその静かな、しかし決意に満ちた言葉に、ハスターとクトゥルフは無言で頷いた。炬燵の中から、ツァトゥグァの、眠たげな、しかしどこか警告を帯びた声が聞こえてきた。
「…………気をつけろよ、人間」
「…………アイツは、物理的な力でねじ伏せようなどと、思うな。奴は、そういう次元の戦いを好まん」
「…………奴が、最も好む、餌は…………お前が信じようとしている、その『絆』だの、『愛』だの、そういう、青臭くて脆い、感情そのものだぞ。お前がそれを信じれば信じるほど、奴は、それを最高の劇薬として、お前の魂に注ぎ込んでくるだろう……」
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赤紫大学のキャンパスは、死んだように静まり返っていた。狂った街の喧騒が、嘘のように遠くに聞こえる。その静寂の中心に、聖チャペルは荘厳に、しかしどこか不気味にそびえ立っていた。ステンドグラスからは、蝋燭の温かい光ではなく、あの禍々しい赤紫色の光が漏れ出している。まるで、建物そのものが内側から邪悪な光で飽和しているかのようだ。
芳樹たちが、重い樫の扉を押し開けると、そこには異様な光景が広がっていた。祭壇の前には、奈々瀬拓人が、まるで救世主か、あるいは高名な指揮者のように静かに立っていた。彼の背後には、純白の衣装を纏った聖歌隊が並んでいる。だが、彼らの顔は無表情で、その瞳には光がない。彼らの口から紡がれる聖歌は、一見、神聖なグレゴリオ聖歌に聞こえるが、その歌詞をよく聞くと、ラテン語に似た、しかし冒涜的な響きを持つ異星の言語で、這い寄る混沌の到来を讃える内容だった。
そして、聴衆席。そこには、相田千夏が、門倉健が、そして芳樹が知る、多くの大学の友人たちが、まるで精巧に作られた人形のように、虚ろな目で祭壇を見上げて座っていた。千夏は、夏祭りの日に芳樹があげた、小さなキーホルダーを、その手の中で固く握りしめている。門倉は、魔導書の写本を、まるで聖書のように胸に抱いている。彼らは皆、奈々瀬にその魂を操られていたのだ。
「――ようこそ、我がパーティーへ。待ちわびていたよ」
奈々瀬が、完璧な優しい笑みを、芳樹たちに向ける。「君たちが、この茶番を終わらせに来ることは、分かっていた。だから、最高の舞台を用意させてもらった」彼はゆっくりと芳樹に歩み寄る。「さあ、菊池芳樹くん。君に、最後の、そして最高の、クリスマスプレゼントをあげよう」
彼は、芳樹の目の前で、指をぱちん、と鳴らした。その瞬間、芳樹の世界が変わった。
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目の前には、どこまでも続く青い空が広がっていた。頬を撫でるのは、夏の心地よい潮の香りを帯びた風。彼は、愛車SR400に跨っていた。そのエンジンは快調な鼓動を響かせている。隣には、バイク仲間たちが楽しそうに笑っていた。「おい、芳樹!置いてくぞ!」「おう、今行く!」ヘルメットの中で、芳樹は屈託なく笑い返す。どこまでも続く、海岸線の、一本道。悩みも、恐怖も、何もない、ただ自由な時間。
場面が変わる。大学のキャンパス。木漏れ日がキラキラと輝いている。彼は、千夏と二人並んで歩いている。彼女は楽しそうに笑っている。「もう、菊池くんって、本当に機械のことしか頭にないんだから!」彼女のその少し呆れたような、でも温かい声。芳樹の肩に、軽く彼女の手が触れる。その柔らかな感触。
場面が変わる。実家のリビング。少しだけ白髪が増えた父と母が、穏やかな顔でテレビを見ている。食卓には、芳樹の好物である生姜焼きが湯気を立てている。そこには、邪神はいない。怪異も、混沌も、ない。ただ、平凡で、退屈で、そしてどうしようもなく、温かくて、幸せな日常。芳樹が、ずっと心のどこかで望んでいたかもしれない、世界。
奈々瀬の声が響く。「――どうだい?素晴らしいだろう?これが、僕が君に、用意してあげられる、『平凡な学生・菊池芳樹』としての、幸せな人生だ」「君が、それを受け入れる、と、ただ一言、言うだけでいい。そうすれば、君以外の、この街の人間は、全て、元の正常な状態に、戻してあげよう。……もちろん、君は、あの忌まわしき神々との記憶を、全て失うことになるがね」
芳樹は揺らいだ。心の奥底で何かが軋む音がした。もう疲れたのだ。神々の気まぐれに振り回されるのも。世界の終わりと隣り合わせの日常も。大切な友人を危険に巻き込んでしまうのも。元のただの大学生に戻りたい。そう、思った。
だが。彼の脳裏に蘇る。不器用におつかいをやり遂げたクトゥルフの誇らしげな六つの瞳。舞台の上で、「我が玉座の隣に、汝はいるか?」と問いかけたハスターの悲しい横顔。炬燵の中で、「面倒だ」と言いながらも、いつも的確な助言をくれたツァトゥグァの眠たげな声。あいつらのいない日常。それは、本当に幸せなのだろうか。
芳樹はゆっくりと顔を上げた。そして目の前の、完璧な救世主の仮面を被った悪魔に向かって、静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「…………うるさい」
「え?」
「うるさいって、言ってんだよ!」
芳樹は叫んだ。「確かに、俺は、お前らのせいで、毎日がメチャクチャだって、いつも思ってる!飯はまずいし、家は壊れそうになるし、変なもんに追いかけられるし、金はなくなるし!」「けどな……!」彼は背後に立つ、クトゥルフとハスターを振り返る。「けど、飯がまずくても、一緒に食ってくれるやつがいて、家が壊れそうになっても、一緒に直してくれるやつがいて、変なもんに追いかけられても、一緒に戦ってくれるやつらが、いるんだよ!」「俺が作った、大して面白くもない話で、笑ってくれるやつらが、いるんだよ!」「それも、全部ひっくるめて、今の俺の、『日常』なんだよ!」「お前なんかに、それを、平凡だとか、幸せだとか、そんな安っぽい言葉で、奪わせてたまるかあああああああっ!!」
芳樹の魂からの叫び。その言葉が引き金となった。彼の決意に応えるように、クトゥルフとハスターが、その身に纏う人間としての偽りの殻を破り捨て、本来の神としての力の一部を解放した。
クトゥルフの背後に、深淵そのものが口を開けた。彼女の影が伸び、広がり、物理法則を無視した、冒涜的なる触手の集合体へと変貌していく。その影は、ただの黒ではない。それは、星々の光すら飲み込む宇宙の暗黒そのものであり、その表面には、無数の閉じたままの瞳が、浮かび上がっては消える。影の中から、深海の底で水圧に全てが圧し潰されるかのような音が響き渡った。
ハスターの周囲に、黄金の嵐が吹き荒れた。彼の影が立ち上がり、遥かカルコサの玉座に君臨する、古びた、しかし絶対的な黄衣の王の幻影を、その背後に揺らめかせる。その幻影の周囲の空間は、ガラスのようにきしんでいた。アルデバランの双子の太陽の幻が、一瞬だけ見えたような気がした。
その二柱の神の圧倒的な神威を目の当たりにしても。奈々瀬拓人は笑っていた。心の底から、楽しそうに、狂ったように笑っていた。「――素晴らしいッ!それこそが、僕の見たかった答えだ!菊池芳樹くん!」
彼の完璧な美青年の貌が、まるで粘土のようにぐにゃりと歪み始める。「ああ、最高のエンターテイメントだよ!さあ、始めようか!本当のクリスマス・パーティーを!」彼の背後から影が立ち昇る。それは特定の形を持たない。無数の貌、貌、貌。老人、赤子、美女、獣、そして人間には名状しがたい、幾何学的な何かの貌。その全ての貌が、一つの巨大な混沌の渦となって、高速で明滅しながら、彼を包み込んでいく。
這い寄る混沌。千の貌を持つ神。ナイアーラトテップが、ついにその本性の一端を現した。神々の力が激突し、聖なるチャペルが祝福の光と混沌の闇に包まれていく。
芳樹たちの聖なる夜は、まだ始まったばかりだった。




