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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第二十四話 赤紫市、その影の下で

奈々瀬拓人という名の混沌が、菊池芳樹の日常にその影を落とし始めてから数週間が過ぎた。表面上は何も変わらない。芳樹は相変わらず大学へ通い、退屈な講義を受け、そして夜になれば、三柱の迷惑でかけがえのない邪神たちが待つ、あの奇怪な古民家へと帰っていく。だが、その日常という名の薄い氷の、そのすぐ下で。何かが確実に軋み、そして砕け始めていた。


その予兆は、最初はごくささやかな街の噂話として現れた。「なあ、聞いたか?駅前の交差点の信号、昨日の夜、全部同時に青になったらしいぜ」「マジかよ。システムの故障だろ?」「それが、警察が調べても、原因不明なんだってさ」大学の学食で隣のテーブルから聞こえてくる、そんな会話。「ねえ、知ってる?中央公園の鳩、今朝一羽もいなかったんだって。全部どこかに消えちゃったらしいの」「えー、こわーい」「その代わり、公園の池の鯉が全部逆さまになって浮いてたんだって。死んでるのかと思ったら、みんな元気に生きてたらしいんだけど」


それはただの都市伝説。ありふれた怪談話。そう思おうと芳樹は必死に努めた。だが、彼のそのささやかな希望的観測は、日に日にその説得力を失っていった。街の小さな異変。それはまるで水面に広がる波紋のように、着実にその範囲と、そのおぞましさを増していった。スーパーの鮮魚コーナーに並べられた死んだはずの魚たちが、まるで聖歌隊のように一斉にその口をパクパクと開閉させ始めた、という動画がSNSでバズった。深夜、誰もいないはずの小学校の校庭で、ブランコが全て同じリズムで揺れ続けていた、という目撃談が相次いだ。


それはもはや偶然ではなかった。何者かの明確な悪意。この赤紫市の日常という名の世界の法則そのものが、まるで悪趣味な芸術家がキャンバスの絵を指で歪めるかのように、少しずつ、しかし確実に捻じ曲げられていっているのだ。そしてその芸術家の正体を芳樹は知っていた。奈々瀬拓人。あの千の貌を持つ道化。彼は、自らの到来を告げるかのように、この街全体を舞台として、壮大で悪趣味な前衛芸術を繰り広げているのだ。芳樹だけが、その真の意味を理解していた。だが、彼は誰にもそのことを告げることはできない。彼は、ただ一人、街に満ちていく不穏な気配に息を殺していることしかできなかった。


---


やがて、その悪意の波紋は、芳樹のごく個人的な領域にまで侵食を始めてきた。


その日、オカルト研究会の部室で門倉健が倒れた。彼は、部室の床に巨大な魔法陣を描き、何か召喚の儀式を行っていたらしい。芳樹が駆けつけた時には、部室の中は硫黄と腐肉の悪臭に満ちていた。そして床の魔法陣の中心には、かつて人間だったと思われる、黒い炭のような塊が転がっていた。幸い、門倉は気絶しているだけで命に別状はなかった。彼が召喚しようとしていたのは、奈々瀬拓人から教えられたという、「知の探求者に大いなる叡智を与える善なる精霊」。だが、その儀式の術式は巧妙に改竄されていた。一つ、ルーン文字の向きが違う。一つ、詠唱のアクセントが違う。そのほんの僅かな違いが、儀式そのものを善なるものから邪悪なものへと変質させていたのだ。彼が呼び出してしまったのは善なる精霊などではない。下級の、しかし極めて貪欲な奉仕種族。人間の生命力を喰らう影の怪物。芳樹は、ハスターの力を借りて、なんとかその怪物を元の次元へと送り返すことができた。だが、門倉は、事件の後、しばらく大学を休むことになった。


芳樹がアルバイトをしている、郊外のガソリンスタンド。その日、一台の黒い高級外車が音もなく給油レーンへと滑り込んできた。運転席から降りてきたのは奈々瀬拓人だった。彼は、芳樹の油に汚れた作業着の姿を見ると、少しだけ悲しそうな顔をした。「やあ、菊池くん。君がこんなところで働いているとは知らなかったよ」「……お前の知ったことじゃ、ないだろ」芳樹は敵意を隠そうともせずに答える。奈々瀬は、そんな芳樹の態度など全く意に介していないようだった。彼は、事務所から出てきた人の良さそうな店長ににこやかに話しかけた。「店長さん。実は、菊池くん、大学の特別研究プロジェクトの中心メンバーに選ばれたんですよ。彼の才能は、こんなところで浪費されるべきではない。もっと大きな舞台で輝くべきだ」彼は巧みな話術で店長を言いくるめていく。そして数分後。店長は、すっかり奈々瀬の信奉者と化し、芳樹の肩を叩いてこう言った。「菊池!お前、すごいじゃないか!そうか、そうか!よし、分かった!お前のシフトは、俺が他のやつに頼んで半分に減らしてやる!だから、お前は、その研究とやらに集中するんだ!」芳樹の生活費を支える貴重な収入源は、彼の知らないところで、彼の意思とは全く関係なく、半分になってしまった。


そして、相田千夏。彼女は最近、芳樹に連絡をしてこなくなった。芳樹からメッセージを送っても、返ってくるのは短い、当たり障りのない返事だけ。彼は、ある日、大学の廊下で千夏が奈々瀬と深刻な顔で話しているのを見かけた。彼は柱の影に隠れて、その会話に耳を澄ませた。「……菊池くん、最近、すごく疲れているみたいなんだ。……彼の瞳の奥に、僕には深い闇が見える」奈々瀬が心から心配しているかのような声で言う。「……彼には、少し一人になる時間が必要なのかもしれない。……僕たちが下手に構うと、逆に彼を追い詰めてしまうかもしれないんだ」「……うん……。そうだよね……。私も、そう、思う……」千夏がか細い声で答える。「……ありがとう、奈々瀬くん。教えてくれて。……私、しばらく菊池くんには連絡するのやめておくね。……それが、きっと、彼のためだよね……」芳樹は全てを理解した。奈々瀬は、芳樹の周りの人間を直接傷つけるのではない。彼は、彼らの善意や友情、そして愛情を巧みに利用し、それを芳樹を孤立させるための刃へと変えているのだ。それはどんな物理的な攻撃よりも陰湿で、そして残酷なやり方だった。


---


芳樹は日に日に孤立感を深めていった。その心の隙間を狙い澄ましたかのように、奈々瀬は神出鬼没に芳樹の前に姿を現した。誰もいない図書室の書架の影で。夕暮れの帰り道のバス停で。彼はいつも優しい笑顔で芳樹に囁きかける。「――ほら、やっぱり、君は一人ぼっちだ」「――君は、あの異形どもの世話をするために生まれてきたわけじゃ、ないだろう?」「――僕なら、君に、平凡で、幸せな日常を返してあげられる。……君が、それを望むなら、ね」その言葉は甘い毒だった。芳樹は必死にその囁きを拒絶する。だが、その毒は少しずつ、彼の疲弊した心の中へと染み込んでいく。本当にそうかもしれない。俺は、いつまでこんな狂った日常を続けなければいけないのだろうか。そんな弱音が、彼の心の片隅で産声を上げていた。


その夜、芳樹は家のリビングで三柱の神々を前に全てを話した。奈々瀬拓人という明確な敵の存在。彼の狡猾なやり口。そして自分たちの日常が今、まさに崩壊の危機に瀕していることを。「……あいつは、俺たちをバラバラにしようとしてる。……俺を孤立させて、一人ずつ潰していく、つもりなんだ」芳樹のその決意に満ちた言葉に、神々は静かに耳を傾けていた。ハスターは、その美しい顔に王としての怒りを滾らせている。クトゥルフは、その六つの瞳で、ただ黙って芳樹の瞳の奥を見つめている。


ツァトゥグァは、炬燵から顔を出し、心底面倒くさそうに、しかし真剣な眼差しで、部屋の窓の外を見ていた。「……来たか。……思ったよりも、早かったな」その呟きと同時だった。テレビの画面が乱れ、臨時ニュースのテロップが流れた。『――緊急速報。赤紫市上空に、原因不明の大規模なオーロラが発生しています。専門家も首を傾げており、現在調査中とのことです――』


芳樹は弾かれたように窓の外を見た。夜のはずの空が燃えていた。禍々しい赤と紫の光のカーテンが、まるで巨大な天の傷口のように夜空を覆い尽くしている。それは、美しいなどという陳腐な言葉で表現できるものではなかった。それは、世界の法則が断末魔の悲鳴を上げている光景だった。奈々瀬拓人が仕掛けた巨大な儀式の始まりを告げる合図だった。


その頃、赤紫市の中心部。街のシンボルである時計台の頂上。その尖塔の先端に、一人の青年が、まるで鳥のように軽やかに立っていた。奈々瀬拓人。彼は眼下に広がる街と頭上に広がる冒涜的なるオーロラを見下ろし、そして見上げ、心から楽しそうに微笑んだ。「……さあ、舞台の準備は整った」彼はまるで最高の演劇の開幕を宣言する演出家のように、その両腕を広げた。「――始めようか。愚かなる人間と、愛しき神々のための、最高に滑稽なクリスマス・キャロルを――」彼のその狂気に満ちた独白は、誰の耳に届くこともなく、赤紫色の不吉な風の中へと消えていった。

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