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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第二十三話 千の貌を持つ転校生

菊池芳樹の大学生活に、奈々瀬拓人という名の光が差し込んだのは、九月の終わりのことだった。いや、それは光などという生易しいものではなかった。それは太陽だった。彼がそこにいるだけで、教室の空気が華やぐ。彼が微笑むだけで、女子学生たちは頬を染め、ため息をつく。彼が言葉を発するだけで、難解なはずの講義の内容が、まるで美しい音楽のようにすんなりと頭に入ってくる。


奈々瀬拓人は完璧な存在だった。アメリカからの帰国子女。その金色の光を編み込んだような柔らかな髪。知性を湛えたアーモンド形の瞳。モデルのようにしなやかで均整の取れた体躯。成績は常にトップ。スポーツも万能。そして誰に対しても平等で優しく、そのユーモアのセンスはいかなる人間をも魅了してやまなかった。彼は編入からわずか数週間で、この赤紫大学のキャンパスの中心に君臨する絶対的な太陽となっていた。そして芳樹は、そのあまりにも眩しすぎる光の片隅で。自らの矮小さと、そして自らが抱える冒涜的なる日常の暗さを、ただ呪うことしかできなかった。


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奈々瀬拓人の侵食は、静かに、しかし確実に芳樹の人間関係を切り崩していった。それはまるで熟練の外科医がメスを入れるかのように巧みで、正確で、そして残酷な手際だった。


最初のターゲットは相田千夏だった。彼女は、芳樹にとって最後の生命線。この狂った世界で、彼をかろうじて「普通」の側に繋ぎとめてくれている、唯一のいかりだった。その日、芳樹は千夏と週末に新しくできた映画館へ行く約束を取り付けた。久しぶりの、ただの人間との、ただの普通の約束。芳樹の心は浮足立っていた。


だが、その約束を取り付けた数分後。奈々瀬拓人が、まるで最初からそこにいたかのように自然に二人の会話に加わってきた。「やあ、二人とも、楽しそうだね。週末の話かい?」「あ、奈々瀬くん!うん、そうなの。菊池くんと映画見に行こうかなって」千夏が嬉しそうに答える。奈々瀬はそれを聞くと、少しだけ困ったような、しかしどこまでも優しい笑みを浮かべた。「そっか。……でも、相田さん、忘れたのかい?今週の土曜日は、君が所属しているボランティアサークルの大事な地域清掃の日だって言ってたじゃないか。子供たちも、君が来るのを楽しみにしてるって」「…………あ」千夏の顔から、さっと血の気が引いた。「そ、そうだった……!うわー、完全に忘れてた!どうしよう……!」


奈々瀬は、慌てる千夏の肩を優しく叩いた。「大丈夫だよ。菊池くんには、僕からうまく話しておくから。ね、菊池くん。今回は、地域の子供たちの笑顔のために、彼女を貸してはもらえないかな?」その完璧な正論。その完璧な善意。芳樹に断れるはずもなかった。「……あ、ああ。もちろん、だ。気にすんなよ、相田さん。映画はまた今度でいいからさ」彼は引きつった笑顔を作るのが精一杯だった。奈々瀬は、芳樹の心の、内側を全て見透かしているかのように、彼だけに、見える角度で、ほんのわずかにその美しい唇の端を吊り上げた。


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次のターゲットはハスターだった。奈々瀬は、その完璧な才能を演劇の世界でも遺憾なく発揮した。彼は、ハスターが絶対的な王として君臨していた演劇サークルに入部した。そして、彼はハスターの、その王としてのプライドを正面から粉砕しにかかった。


彼はハスターとは全く違うタイプの役者だった。ハスターの演技が、「静」であり、「絶対的な存在感」で観客を支配する王の演技であるならば。奈々瀬の演技は、「動」であり、「予測不能なトリックスター」として観客の感情を翻弄し、掻き乱す道化の演技だった。彼は、稽古の即興劇で、ハスターが演じる悲劇の王の忠実な臣下を演じた。だが、その忠実な臣下は、物語の最終盤で王を裏切った。観客の誰もが予想しなかったその裏切り。奈々瀬はハスターの胸に短剣を突き立てる(フリをする)と、その耳元で囁いた。「――王様、あなたに足りなかったのは、威厳では、ありません。ただ、一つ。ユーモアのセンスですよ――」そのあまりにも魅力的で、あまりにも冒涜的な道化の演技。それは、ハスターのその神としてのプライドに、初めて火をつけた。彼は、生まれて初めて自分と渡り合える好敵手の存在を認めた。その日から、ハスターの意識は、芳樹のことよりも、奈々瀬拓人という新たなるライバルをいかにして屈服させるか、ということだけに集中するようになっていった。それこそが、奈々瀬の狙いであることにも気づかずに。


そして、奈々瀬は門倉健にすら、その魔の手を伸ばした。彼は、オカルト研究会の部室を訪れると、門倉のその膨大で、しかし偏った知識を心から賞賛してみせた。そして、門倉が最も信頼している魔導書の一節を指さし、こう言った。「……君の、この召喚儀式に関する解釈は素晴らしい。……だが、少しだけ視点を変えてみては、どうだろうか」「……この儀式は、異界から何かを『呼び出す』ためのものでは、ない、としたら?」「……この儀式は、術者自身が、その異界の存在へと、『変身』するためのものでは、ないだろうか……?」そのあまりにも甘美で、あまりにも危険な異端の思想。それは、門倉の探求心を強く強く刺激した。彼はその日から、奈々瀬のことを自らの唯一の理解者であり、ライバルであると信じ込み、その歪んだ研究にさらに没頭していくことになる。


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芳樹は気づいていた。自分の周りから少しずつ人が離れていくことに。千夏が、自分を誘う回数が減った。ハスターが、自分に構う時間が減った。門倉が、自分を師匠と呼ぶ声が聞こえなくなった。彼は再び一人になろうとしていた。奈々瀬拓人という太陽が昇ったことで、彼の周りにあったささやかな星々の光が、全てその輝きを失っていっているのだ。


そんな漠然とした疎外感と孤独感に苛まれていたある日の放課後。奈々瀬拓人が芳樹に声をかけてきた。夕日が差し込む、誰もいない渡り廊下で二人きり。奈々瀬は、いつもの完璧な人懐っこい笑顔を浮かべていた。「やあ、菊池くん。……君は大変そうだね。いつも」その言葉。それはただの労いの言葉ではなかった。芳樹は、その瞳の奥に、全てを見透かしているかのような冷たい昏い光が宿っているのに気づいていた。「……家にいる、『変わった同居人』たちの世話で、だろう?」


芳樹の心臓がどくん、と大きく跳ねた。なぜ、こいつがそのことを。「……君みたいな、ごく普通の人間が、あんな世界の理から外れた連中と関わっているのは、正直不釣り合いだと、思わないかい?」「……彼らは、君のことを、便利な玩具か、あるいは珍しいペットくらいにしか思っていない。……君は、彼らに利用されているだけなんだ。……本当は、君も気づいているんだろう?」「…………うるさい」芳樹はかろうじてそれだけを絞り出した。


奈々瀬は、そんな芳樹のか弱い抵抗を楽しむかのようにさらに言葉を続けた。それは救世主の仮面を被った悪魔の囁きだった。「――僕は、君の味方だよ、菊池くん」「――いつか必ず、僕が、君を、その忌まわしき『呪い』から解放してあげる――」


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その日、芳樹は重い足取りで我が家へと帰還した。家の玄関を開けると、そこには珍しい光景が広がっていた。クトゥルフとハスターと、そして炬燵から顔だけを出したツァトゥグァ。三柱の神々が、まるで何かを待ち構えていたかのように、真剣な表情で芳樹を見つめていたのだ。


最初に口を開いたのはハスターだった。「……おい、人間よ。……貴様、今日、あの奈々瀬拓人とかいう道化と話したな」「……なぜ、それを……」「分かるわ。……貴様の体から、あの男の匂いがする。……それは、我らと同質の、しかし、どこまでも歪んで淀んだ不快な混沌の匂いだ」


次にツァトゥグァが心底面倒くさそうに、そして忌々しげに呟いた。「…………千の貌を持つ、道化の、匂いだな」「…………這い寄る、混沌。……最も厄介で、最も悪趣味な神だ。……なぜ、あんなものが、こんな辺境の惑星にいるのだ……」


そして最後に。クトゥルフが芳樹のすぐ目の前までやってくると、その六つの瞳でまっすぐに彼の魂を覗き込むように見つめ、そしてこれまでで最も強く、そして切実な響きを持ったテレパシーを送ってきた。


《――よしき。……あの男には、二度と、近づくな――》


芳樹は全てを理解した。奈々瀬拓人。彼こそが、ツァトゥグァの言っていた「混沌の主」。あの鏡の事件も、夏祭りのカルト教団も、恐らくは全て彼が裏で糸を引いていたのだ。彼はただの人気者の編入生などではない。自分たちの、この奇妙で、歪で、しかし、かけがえのない日常そのものを破壊するためだけに現れた、明確な敵。そして、その敵の見えざる蜘蛛の巣は、既に自分の人間関係を蝕み、孤立させ、そして今、まさにその毒牙を剥こうとしている。芳樹は、言い知れぬ巨大な悪意の渦の中心に自分が立っていることを、この時ようやく自覚したのだった。

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