表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
22/50

第二十二話 機械いじりと星の心臓(スター・ハート)

菊池芳樹の城は、無残な骸と化していた。ガレージの中央。そこに横たわるのは、かつて彼の愛車であったはずの、ヤマハ・SR400。あの日、彼の愚かな過ちによって、混沌の空へと飛び立ち、そして無様に墜落した鉄の残骸。フレームは歪み、美しいティアドロップ型のタンクは、見るも無残に凹んでいる。あちこちから、黒い煙の代わりに、悲しい溜息のような白い水蒸気がか細く立ち上らせていた姿は涙を誘った。


芳樹は、その骸の前で膝をつき、ただ呆然とその惨状を見つめていた。彼の自由の象徴。彼の唯一の相棒。それが今、目の前で静かに死んでいる。その絶望に満ちた静寂を破ったのは、羽音のような無機質な電子音声だった。


「……診断、完了シマシタ」


いつの間にか、芳樹の隣にはミ=ゴの一匹が立っていた。その昆虫のような指先には、バイクの残骸に接続された無数の細いケーブルが握られている。「原因ハ、動力炉……アナタ達ノ言葉で言う、エンジンコアの構造的崩壊デス。我々ガ提供シタ、空間跳躍ブーストノ高次元エネルギー負荷ニ、地球ノ、この原始的ナ金属合金ガ、耐エラレマセンデシタ」ミ=ゴは、淡々と、しかしどこか申し訳なさそうに、診断結果を告げる。「残念ナガラ、修復ハ不可能デス。コアノ修復ニハ、地球上ニハ存在シナイ、特殊ナ高密度エネルギー結晶体ガ、必要トナリマス」


不可能。その三文字が、芳樹の心に、まるで鉛の杭のように重く打ち込まれた。彼は諦めきれなかった。その日から、芳樹はガレージに篭城した。大学の講義もそこそこに、彼は来る日も来る日も愛車の残骸と向き合い続けた。歪んだフレームを金槌で叩き、磨き。砕け散った部品の一つ一つを、まるでパズルのように組み合わせ、その構造を理解しようと努めた。彼のその常軌を逸した情熱。それをミ=ゴは、ただ黙って観察していた。


そして数日が過ぎた夜。芳樹が、オイルと汗にまみれ、エンジンコアの修復不能な亀裂を前に途方に暮れていた、その時。ミ=ゴは静かに彼の隣にやってくると、こう言った。「……仕方、アリマセンネ」彼は、その背後に隠し持っていた一つの箱を芳樹の前に置いた。


箱が開かれる。その瞬間、ガレージ全体が今まで見たこともないような、柔らかく、そして神々しい光に包まれた。箱の中にあったのは、一つの結晶体だった。人間の心臓ほどの大きさ。だが、それはこの世界のどんな宝石とも似ていなかった。それは生きていた。ゆっくりと、しかし確かに、それは脈動していた。ドクン、ドクン、と。音はない。だが、その光の明滅が、まるで巨大な心臓の鼓動のようにガレージ全体を震わせる。その内部には、まるで生まれたばかりの星雲が閉じ込められているかのように、青と紫の光の渦がゆっくりと渦巻いている。それは、見る者の魂を直接揺さぶり、宇宙の創生の記憶を垣間見せる、冒涜的なまでに美しい芸術品だった。ミ=ゴは、それを「アストラル・ハート」――星の心臓、と呼んだ。


「……コレハ、我々ノ宇宙船ノ予備ノ動力炉デス。生キテイル恒星ノ欠片カラ作ラレタ、半永久エネルギー機関。……警告シマスガ、コレハ非常ニデリケートな代物デス。アナタ達ノ原始的ナ機械ニ、コレヲ接続スルナンテ、本来ナラバ、不可能ヲ超エテ愚行ノ域デス」


だが、芳樹は、その警告を聞いていなかった。彼の目は、アストラル・ハートのその美しい脈動に完全に釘付けになっていた。彼の技術者としての魂が震えていた。彼は、その結晶体が放つ複雑なエネルギーパターンを見つめ、そして呟いた。「…………いや、いける…………」「…………いける、かもしれない…………!」


---


その夜から、ガレージは奇跡の工房と化した。夜通し灯りがともる。そこでは、一人の人間と一匹の異星人が、言葉を交わすことなく、ただひたすらに一つの機械を再生させるためだけの共同作業に没頭していた。彼らの会話は、設計図とジェスチャーだけだった。芳樹が、油に汚れた紙に部品の接続方法をスケッチする。ミ=ゴが、それをその多角的な視点で分析し、ホログラムを投影して構造的な欠陥を指摘する。芳樹が、それを見て唸り、そして新たな解決策を描き出す。それは、種族も、言語も、常識も、全てを超えた、技術者たちの魂の対話だった。芳樹は、使い慣れたレンチを手に、ミ=ゴが提供した、液体金属のようにその形を自在に変える、宇宙合金製のボルトを締め上げていく。ガレージには、馴染み深い工具の金属音と、ミ=ゴの奇妙な電子音、そしてアストラル・ハートが放つ荘厳なハミングが混じり合い、奇妙な協奏曲を奏でていた。


その異様で、しかしどこか神聖な光景。それを家の縁側から二柱の神が静かに見つめていた。


ハスターは腕を組み、その美しい眉をひそめている。「フン、鉄クズ遊びに興じおって。……だが……」彼の胸の内には、侮蔑とは違う、別の感情が渦巻いていた。あの人間、菊池芳樹。彼は、普段はどこか頼りなく、ヘタレで、流されやすい矮小な存在だ。だが、今、あのガレージの中にいる彼は違う。その瞳には、何かに取り憑かれたかのような、純粋な情熱の炎が宿っている。一つのことに、その魂の全てを注ぎ込み、没頭するその姿。それは、ハスターの目にはある種の王の気高さにも似た輝きを放っているように見えた。「…………悪くない」彼は誰に聞かせるともなく、そう呟いた。


そして、クトゥルフは。彼女はただ黙って芳樹の姿を見つめている。彼女の、その人間には到底理解の及ばない、広大で古の意識の中で。今目の前にいる芳樹の姿が、遥か太古の記憶と重なり合っていた。彼女は見ていた。この惑星がまだ若く、灼熱のマグマに覆われていた時代。星々の彼方から飛来し、この無秩序な世界に最初の秩序をもたらした偉大なる種族の姿を。星型の頭部を持つ樽型の肉体。古のもの(エルダー・シング)。彼らもまたそうだった。彼らは創造主だった。何もない混沌から意味を作り出し、無機物に生命を与え、そして星々を作り変えていく、その純粋な創造の意志。今、芳樹がガレージの中で行っていることは、そのスケールこそ矮小だが、その本質は、あの古のものたちが行っていた神の御業と何ら変わりはなかった。この矮小な人間。その魂の奥底には、かつてこの宇宙を創造した神々と同じ輝きが宿っている。クトゥルフは、その事実に気づき、言い知れぬ戦慄と、そしてこれまで感じたことのない強い興味を覚えていた。この人間は一体何者なのだろうか、と。


---


数日の時が過ぎた。そしてついにその瞬間は訪れた。芳樹は、汗と油にまみれ、しかしその顔には達成感に満ちた笑みを浮かべていた。彼の目の前には、再生した彼の愛車。その姿は、以前とは全く違うものへと変貌していた。黒いフレームには、アストラル・ハートのエネルギーを伝達するための、青白い回路が、まるで血管のように張り巡らされている。エンジンは、もはやただの鉄の塊ではなかった。それは一つの星の心臓をその内部に宿していた。


芳樹は、祈るような気持ちでバイクに跨る。そしてイグニッションキーを捻った。響き渡ったのは爆音ではなかった。しぃぃぃぃぃん、という静かで、しかしどこまでも力強いハミング。やがてその音は、まるで天上の聖歌のような美しいチャイムの音色へと変わっていく。バイクの車体のあちこちから、まるで星屑のような青白い光の粒子が溢れ出す。そしてそれは、ふわりと地面から数センチ宙に浮いた。芳樹は、そのありえない光景にただ息を呑む。


ミ=ゴが、その隣で満足げに頷いていた。「……アナタハ、タダノ人間デハナイヨウデスネ……。その創造スル手ハ、いつか星々ニモ届クカモシレマセン」芳樹は、その謎めいた言葉の意味をまだ理解できなかった。彼は、ただこの狂った日常の中で、自分の大切な相棒を取り戻せたことだけを心の底から喜んでいた。


---


その頃、大学のキャンパスでは。新たなる王が誕生していた。編入生の奈々瀬拓人。彼のその完璧な容姿と物腰、そして誰をも魅了するカリスマ性。彼は瞬く間にクラスの、いや学年全体の中心人物となっていた。彼の周りには常に人の輪ができている。その輪の中心で、彼は今日も完璧な笑顔を振りまいていた。その輪の中には、いつもなら芳樹と話しているはずの千夏の姿もあった。彼女は、奈々瀬の気の利いたジョークに楽しそうに笑っている。そして、その少し離れた場所には。あの尊大で孤高であるはずの演劇部の王、ハスターすらもが、奈々瀬のその得体の知れないカリスマ性に、強い興味を示しているかのように、彼のことを遠巻きに観察していた。


芳樹は、その光景を一人講義棟の窓からぼんやりと眺めていた。自分の手の中には、今や星を駆るほどの力がある。だが、自分の居場所は、あの平和でありふれた日常の中からは、どんどん失われていっている。芳樹は、言い知れぬ孤独感を抱えながら、ただ一人そのまぶしい光景を見つめていることしかできなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ