第二十一話 戦慄!ショゴスの流しそうめん
菊池芳樹の家に、また一体、新たな同居人(という名の厄介事)が増えていた。それは、生物、と呼んでいいのかすら定かではない。普段は台所の隅に置かれたポリバケツの中で、黒くゼリー状の塊となって静かにしている。だが、時折、それはまるで意思を持ったかのように、バケツからぬるりと溢れ出し、家の中を徘徊するのだ。
不定形の原形質。その表面は、まるで油を流した水面のように、虹色の不気味な光沢を帯びている。そして、その黒い塊のあちこちの表面に、まるで悪夢の吹き出物のように、無数の緑色の瞳と、泡立つ口が、現れては消え、消えては現れる。そして、その口々からは、合唱のように、あの忌まわしき鳴き声が響き渡る。「―――テケリ・リ……テケリ・リ……」
ミ=ゴが、「自律型防衛ユニット」として面白半分で置いていった生体部品。かつて古のもの(エルダー・シング)が奴隷として創り出した、万能の労働力。その名は、ショゴス。芳樹は、この新たな同居人が、正直一番苦手だった。クトゥルフやハスターのような神としての威厳はない。だが、その不定形で、知性の欠片も感じさせない、ただひたすらに純粋な混沌の塊であるという事実が、芳樹の生物としての本能的な恐怖を掻き立てるのだ。
だが、そんな冒涜的なるスライムを心底気に入っている者もいた。ツァトゥグァだ。怠惰なる神は、リビングの中央で、巨大なクッションと化したショゴスの上で、いつにも増して幸せそうに眠っていた。ショゴスは、主人の寝心地を常に最適に保つため、その不定形の体をゆっくりと変形させ続けている。それは、もはや芳樹の家では見慣れた日常の光景となりつつあった。
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九月の半ば。暦の上では秋だというのに、太陽は未だ夏の残滓を地上へと執拗に叩きつけていた。その日も、うだるような暑さだった。そんな万物の活動が停止するような昼下がり。芳樹の家に一筋の涼風が舞い込んだ。「やっほー、菊池くん!みんな、生きてるー?」相田千夏だった。彼女は、コンビニの袋をいくつもぶら下げて、勝手知ったる、といった様子で家の縁側から上がってきた。
「うわ、暑っ!クーラー、壊れてるの?」
「いや……。あそこの、黒い毛玉のせいで、家の時空が歪んでるんだと思う……」
芳樹が力なく答える。千夏は、そんな芳樹の様子を楽しそうに笑うと、コンビニの袋を畳の上に広げた。「ほら、見て!まだ売ってたんだよ!そうめん!」「ねえ、夏らしいこと、まだやり残してるよね!菊池くんち、お庭広いんだし、みんなで、流しそうめん、しない?」そのあまりにも平和で、あまりにも日本の夏らしい響き。芳樹の干からびかけた心に、一滴の清涼な水が染み渡るようだった。
かくして、その家の混沌とした住人たちによる、最初で、そしておそらくは最後となるであろう、「流しそうめん大会」の開催が決定された。
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芳樹と千夏は、家の裏の竹林から手頃な太さの竹を切り出してきた。それを鉈で真っ二つに割り、節を丁寧に取り除いていく。夏の終わりの日差し。竹の青々しい匂い。千夏の楽しげな笑い声。それは、芳樹が失ってしまった、ごく普通の大学生の夏休みの、一コマそのものだった。(……ああ、いいな……。こういうの、だよな……)
芳樹がそんな感傷に浸っていたその時だった。彼の背後から、あの羽音のような電子音声が響いた。「……非効率的デスネ」ミ=ゴだった。いつの間にか、彼は芳樹たちの作業を、その菌類の頭部から生えた無数の触角で分析していたようだった。「竹、トイウ、植物繊維ヲ、人力デ加工スル……。誤差ガ大キク、流水抵抗モ、計算デキナイ。極メテ、原始的ナ、手法デス」
そう言うと、ミ=ゴは、森の中に隠してある自らの宇宙船から、何か銀色に輝く筒のようなものを数本持ってきた。「コレヲ、使ウガイイデショウ」彼がその筒を地面に置くと、筒はまるで生きているかのようにその形を変え始めた。しゅるしゅる、と音を立てながら、それは複雑なコースを描き出し、やがて庭の上空に、巨大な立体的な流しそうめんのコースを数分で作り上げてしまったのだ。それは、もはや流しそうめんの装置ではなかった。さながら、未来のジェットコースター。素材は地球上には存在しない宇宙合金。そしてそのコースの所々には、水を重力に逆らって上空へと汲み上げるための反重力ポンプまで設置されている。
芳樹と千夏は、そのあまりにもオーバースペックな流しそうめんコースを、ただ呆然と見上げていた。千夏は、やがてその驚愕から立ち直ると、目をキラキラと輝かせた。「す、すごーい!菊池くんの同居人さん、ハイテクだね!これなら、いくらでも食べられそう!」彼女のそのあまりにもポジティブな反応。芳樹はもはや何も言うことができなかった。
だが、そのハイテクすぎる装置が新たなる悲劇を生むことになる。茹で上がったそうめんが、反重力ポンプによって勢いよくコースへと送り込まれた。そして次の瞬間。シュゴオオオオオオッ!そうめんは白い閃光と化し、人間の動体視力では到底捉えることのできないマッハの速度でコースを駆け抜けていったのだ。
「…………は?」
芳樹が箸を構える、そのコンマ一秒前に、全てのそうめんは終着点のザルの中へと叩きつけられていた。ミ=ゴが反重力ポンプの出力を間違えたのだ。これでは、流しそうめんではない。荷電粒子砲、そうめんキャノンだ。何度やっても結果は同じだった。そのあまりにも不毛な光景に、千夏もさすがに困り果てていた。
その時、芳樹の脳裏に、一つの悪魔的な閃きが舞い降りた。(……そうだ。あいつが、いるじゃないか……!)彼は家の中へと駆け込んだ。そしてリビングの床でクッションと化していた、あの不定形の生物を、ずるずると庭へと引きずり出してきた。「ショゴス!お前の出番だ!」芳樹はショゴスに向かって命じた。「いいか、よく聞け!あのコースを流れてくるそうめんを、お前のその柔らかい体で、優しく受け止めて運んでくるんだ!できるな!?」
ショゴスは、「テケリ・リ……」と、肯定したのかどうかわからないが、鳴き声を上げると、その不定形の体をゆっくりと流しそうめんコースの下へと移動させた。
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そして、運命のそうめんが再びコースへと送り込まれる。だが、ショゴスは芳樹の命令を致命的に誤って解釈していた。「優しく、受け止めて、運ぶ」。その曖昧な人間の言語を、彼は自らの本能に最も忠実な形で実行したのだ。マッハの速度で流れてくるそうめん。それをショゴスは、その原形質の体から無数の触手を伸ばし、一筋たりとも逃すことなく捕らえ、そしてそのまま自らの体の中へと吸収し始めたのだ。それは、もはや運搬ではなかった。捕食、だった。
芳樹が唖然とする中、ハスターが、そのあまりにも優雅さに欠ける光景に眉をひそめた。「下等生物め!もっと美しく運ばんか!」彼はそう言うと、風を操りショゴスを急かそうとした。だが、その風の刺激が引き金となってしまった。外部からの予期せぬ刺激。そうめんという未知の栄養源の大量摂取。それらがショゴスの原始的な本能を暴走させた。
「―――テケリ・リ!テケリ・リ!テケリ・リ!テケリ・リ!―――」
鳴き声が変わった。ショゴスの黒い不定形の体が、まるでパン生地のように急速に膨張を始める。一メートルほどだったその体は、瞬く間に家よりも巨大な肉の山へと変貌した。その表面には、無数の冒涜的な瞳と、泡立つ口が現れ、そして過去に彼が吸収したであろう生物の断片的な姿が、まるで悪夢の人面瘡のように浮かび上がっては消えていく。
暴走する原形質。それは、庭にいる全ての動くものを、新たな栄養源として認識した。巨大な偽足を伸ばし、芳樹たちを飲み込もうと襲いかかってきたのだ。「うわあああああああっ!」芳樹と千夏は悲鳴を上げ、転がるようにしてそれをかわす。ミ=ゴは冷静に光線銃で応戦するが、不定形の体には効果がない。ハスターの風の刃も、ゼリー状の肉体を切り裂くだけで、決定的なダメージを与えられない。庭は完全に地獄絵図と化した。
その大パニックの中心で。ただ一人クトゥルフだけが、冷静にその暴走するかつての奴隷の姿を見つめていた。彼女はゆっくりと立ち上がると、その脳内に直接響き渡る、静かだが絶対的な威厳に満ちた一言を放った。
《―――静まれ、我が、僕よ―――》
その言葉。それはショゴスの、その遺伝子の最も深い場所に刻み込まれた、創造主たる古のものへの絶対的な服従の本能を呼び覚ました。ピタリ、と。あれほど荒れ狂っていた肉の山の動きが止まった。その表面に浮かび上がっていた無数の瞳が、一斉にクトゥルフへと向けられ、その瞳には恐怖と畏怖の色が浮かんでいる。やがて、その巨大な体は、まるで風船が萎むかのように急速にその体積を失っていく。そして数秒後には、元の、一メートルほどの黒いスライムの姿に戻ると、まるで叱られた犬のように、すごすごと台所の隅の、自分のバケツの中へと帰っていった。
静寂が戻る。荒れ果てた庭。呆然と立ち尽くす芳樹たち。クトゥルフは、そんな芳樹の方をゆっくりと振り返ると、腹の底に響くテレパシーで一言だけ告げた。
《…………腹が、減った…………》
芳樹は、もはや笑うことしかできなかった。
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翌日。新学期が始まった。芳樹が久しぶりに大学の講義室へと足を踏み入れる。自分のいつもの席へと向かおうとした、彼はその歩みを止めた。その席には、見慣れない一人の男子学生が座っていたのだ。彼は芳樹に気づくと、人懐っこい、完璧な笑顔を向けた。その美貌は、ハスターとはまた質の違う、どこか中性的で、そして見る者を魅了してやまない、魔性のような輝きを放っていた。
「やあ。君が、菊池芳樹くん、だね?」
「僕、今日から、このクラスに編入してきたんだ。奈々瀬拓人、っていうんだ。よろしくね」
そのあまりにも完璧な物腰と笑顔。芳樹は、その底に言い知れぬ冷たい昏い何かを感じ取りながらも、ただ差し出されたその手を握り返すことしかできなかった。




