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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第二十話 鏡の国の狂気(ワンダーランド・ペイン)

菊池芳樹は跳んだ。自らの意志で、得体の知れない悪夢の渦中へと。


彼の体が、黒く揺らめく鏡の表面に触れた瞬間、世界から音が消えた。それはガラスを突き破るような硬質な衝撃ではなく、まるで温度のない粘り気の強い油の中へその身を沈めていくかのような、冒涜的な感覚だった。視界が反転し、平衡感覚が融解していく。自らの肉体の輪郭すら曖昧になっていく感覚の中、彼はこのまま存在が黒い水面の中に完全に溶けきってしまうのではないかという根源的な恐怖に囚われた。


だが、その曖昧な世界の中で、彼は背後から二つの力強い感覚を感じていた。一つは、彼の体を猛烈な速度で押し進める荒々しい風の奔流。ハスターだ。王は自らの伴侶を一人で悪夢の中へ行かせるつもりなど毛頭なかった。そしてもう一つは、彼の魂そのものを優しく、しかし決して離さないという強い意志で包み込む、冷たく広大な精神の波動。クトゥルフだ。彼女は芳樹の精神がこの次元の狭間で霧散してしまわぬよう、その巨大な意識で彼を守っていた。


やがて長い、長い落下のような浮遊感の後、三人の体は硬い地面のようなものの上へと叩きつけられた。


---


芳樹は呻きながら顔を上げる。そして目の前に広がる光景に息を呑んだ。そこは大学だった。彼が毎日通っている、見慣れたはずの赤紫大学のキャンパス。だが、その全てが狂っていた。


空はまるで巨大な殴打痕のように、禍々しい赤紫色に染まっている。そこに浮かぶ雲はねじ曲がった苦悶の表情を浮かべた人間の顔の形をしていた。見慣れた時計台の時計は猛烈な速度で逆回転し、講義棟の窓は全て内側から叩き割られている。その黒い空洞のような窓穴が、まるで髑髏の眼窩のようにこちらを見つめていた。地面はアスファルトではなかった。それは生き物の皮膚のように柔らかく、そして時折心臓のようにゆっくりと脈動している。歩くたびに、ぬちゃり、と湿った不快な音がした。


ここは人間の恐怖と絶望を絵の具として描き上げた、狂気のワンダーランド。そしてその狂った空の中、芳樹は彼らを見つけた。行方不明になっていた学生たち、門倉先輩、そして相田千夏。彼らはあの無数の白い手にその体を雁字搦めに捕らえられ、まるで吊るされた操り人形のように虚空に浮かんでいた。その瞳は虚ろで光がなく、その口からは絶え間なくうめき声のような、彼ら自身の恐怖の囁きが漏れ出ている。


「……単位が足りない……」「……就職どうしよう……」「……私、独りで死んでいくのかな……」


そのささやかな、しかし切実な人間の恐怖こそが、この悪夢の世界を維持するためのエネルギー源となっているのだ。


そして浮かぶ人間たちの中心に、「それ」はいた。この鏡の国の支配者。それは特定の姿を持っていなかった。まるで灰色の粘土で大雑把に作られた人間のようなシルエット。のっぺらぼうのその顔には目も鼻も口もない。それは空っぽの器。見る者の心の奥底にある恐怖をそのまま映し出す、呪われた鏡。芳樹がそれを見た瞬間、のっぺらぼうの顔に緑色の六つの瞳が浮かび上がった。ハスターがそれを睨みつけた瞬間、その姿は玉座から引きずり下ろされたみすぼらしい老いた王の姿へと変化した。それは芳樹たちの魂を直接攻撃するための、精神攻撃の化身だった。


---


怪異の本体はまだ動かない。まるで、これから始まる演劇の観客を、値踏みでもするかのように、ただそこにたたずんでいるだけだ。だが、その足元で、脈動していたはずの、肉のような地面が、ぼこり、ぼこり、と、まるで巨大な膿疱のように、いくつも盛り上がり始めた。そして、その薄気味悪い、肉の塚が、内側から裂けた。裂け目から、羊水のように濁った粘液と共に、一体、また一体と、冒涜的なる生物の群れが産み落とされていく。それは、月の裏側、あるいは人間の悪夢の最も深い場所から連れてこられた、忌まわしき、月の住人――ムーンビーストだった。


彼らの体は、巨大な、白く、ぶよぶよとしたヒキガエルのようだった。その皮膚は、血の気というものが一切感じられない、死人のような青白い色をしている。目も鼻もない顔にあるべき場所は、のっぺりとした平坦な肉の壁。ただ、その中央にだけ、まるで醜悪な肉の花が開いたかのように、ピンク色の無数の短い触手がうねうねと蠢いていた。その触手は、絶え間なく、何かを空中で探るように、あるいは味わうように動いている。彼らは、そのおぞましい口の触手で、この世界の情報を認識しているのだ。彼らの、巨大で、しかしどこか不安定なアメーバのような体躯からは、古びた地下室のようなカビと、腐敗の匂いが漂ってくる。そして、その口の触手の隙間から、甲高いフルートのような、しかし聞く者の骨の髄を不快に震わせる、奇妙な鳴き声が響き渡った。


産み落とされた十数体のムーンビーストは、その手に、闇そのものを固めて作り上げたかのような、黒い儀式用の槍を握りしめると、一斉に芳樹たちへと、その巨体を向けた。物理的な暴力。この悪夢の世界の最初の歓迎だった。


「ひっ……!」


芳樹は思わず後ずさる。だが、彼の両脇に立つ二柱の神は、全く動じていなかった。ハスターは、その冒涜的なる怪物たちの群れを、心底退屈そうに一瞥した。


「…………フン」


彼の唇から侮蔑と憐れみが混じった深いため息が漏れる。「我が伴侶を、もてなすにしては、あまりにも貧相な前座だな」彼は動かない。ただその白く美しい指先をすっと横に薙いだだけだった。まるで舞台の上の指揮者のように。そのあまりにもささやかな動作。だが、その瞬間、芳樹たちの前の空間がぐにゃりと陽炎のように歪んだ。目には見えない。だが、そこにはあまりにも薄く、そしてあまりにも鋭利な風の断頭台が形成されていた。


突進してきたムーンビーストの第一陣。彼らはその見えない刃に気づくことすらなかった。ずぷり、と。湿った肉が断ち切られる嫌な音。ムーンビーストたちの巨大な白い体は、その腰のあたりで綺麗に上下に分断されていた。だが、血は一滴も流れなかった。彼らの断面からは、まるで霧のように白い気体が噴き出すだけだった。そして、その上下に分かたれた体は、地面に落ちることすらなかった。まるで最初からそこに何もなかったかのように、その輪郭を失い、白い霧の中へと完全に融解して消えていったのだ。


鎧袖一触。王の気まぐれな一薙ぎ。それだけで敵の半数以上が、この悪夢の世界から完全に消滅させられていた。


残ったムーンビーストたちは、その理解不能な現象に一瞬だけその動きを止めた。その一瞬の隙。それをもう一柱の神が見逃すはずもなかった。クトゥルフは動かない。彼女は、ただその六つの瞳を生き残ったムーンビーストたちへと向けただけだった。そしてほんのごく僅かな力。彼女のその広大で深淵なる意識のほんの一欠片。その純粋な宇宙的恐怖の断片をテレパシーとしてムーンビーストたちのその存在しないはずの脳へと送り込んだ。


芳樹は感じた。それは音でも光でもない。彼の魂を直接鷲掴みにするような精神的な衝撃波。そのおこぼれを感じただけで、芳樹は危うくその場に膝から崩れ落ちそうになる。それを真正面から浴びせられたムーンビーストたちは。彼らのフルートのような鳴き声が、甲高いガラスが砕けるような絶叫へと変わった。彼らのぶよぶよとした白い体が、まるで熱湯をかけられたナメクジのように激しく痙攣し、そして内側から沸騰し始めた。その輪郭が崩れていく。肉が溶け落ちていく。彼らは自らの存在を維持することができなくなったのだ。彼らのちっぽけな自我が、クトゥルフのそのあまりにも巨大な精神を直視してしまったことで、完全に焼き切れてしまったのだ。


やがて彼らもまた、後に何も残さずに、この歪んだ世界から完全に消え失せた。


---


静寂が戻る。怪異の尖兵たちは、わずか数十秒で完全に殲滅させられていた。鏡の国の支配者は、その光景をただ黙って見ていた。物理的な暴力は、この神々の前では意味をなさない。それを理解したのだろう。怪物が動く。それは芳樹たちの前に、それぞれの地獄を幻覚として突きつけてきた。


ハスターは見た。故郷カルコサの崩れ落ちた玉座を。そこに一人座る自分自身の姿。誰も彼を王とは呼ばない。誰も彼の歌を聞こうとはしない。宇宙から忘れ去られ、誰からも理解されず、ただ一人朽ち果てていく王の未来。


クトゥルフは見た。暗く冷たく、そしてどこまでも静かな水の底を。巨大都市ルルイエ。彼女はその石の玉座で、ただ一人眠り続けている。目覚めの時は永遠に来ない。永劫の時を、彼女はただ一人意識だけの存在として認識し続ける。彼女の計り知れないほどの永い孤独の本質。


そして芳樹は見た。白い壁、白い床、白い天井。鉄格子の嵌まった窓。そこは精神病院の隔離病棟だった。そこにいるのは自分自身。髪は伸び放題で、その瞳は焦点が合っていない。彼は壁一面に何かを狂ったように書き殴っている。それはミミズが這ったような冒涜的な異星の文字。鉄格子の向こう側から、誰かが自分を見ている。年老いた両親と、知らない誰かと結婚して幸せそうに微笑んでいる千夏の姿だった。彼らは自分を憐れみの目で見ている。神々に魅入られその精神を喰らい尽くされ、狂ってしまった哀れな男。その、あり得るかもしれない最悪の未来。


芳樹は恐怖に震えた。足が竦み、心が折れそうになる。


だがその時、彼の視界の隅に、捕らえられた千夏の苦しむ顔が映った。その瞬間、芳樹の心の中で、恐怖よりも遥かに大きな別の感情が爆発した。怒りだった。彼は顔を上げ、鏡の怪物を睨みつけた。そして腹の底から叫んだ。


「――うるさいッ!!」


その声は、恐怖に震えるか弱い学生のものではなかった。数々の修羅場を潜り抜けてきた、一人の戦士の咆哮だった。「俺の日常が、これしきの幻覚で、今さらどうにかなると思ってんのか!?」


「俺の家にはな、お前が見せてる幻覚より、よっぽど冒涜的で迷惑で恐ろしい神様が三人いるんだよ!俺の日常はとっくの昔に狂ってるんだ!お前なんかの安っぽい恐怖に、屈してたまるかあああああああっ!!」


芳樹の魂からの叫び。それはこの数ヶ月、彼の魂に刻み込まれ続けた数々の宇宙的恐怖の経験。その経験によって培われた、常人離れした異常なまでの「狂気への耐性」。それこそが菊池芳樹の唯一にして最強の武器だった。


彼の叫びが引き金となった。彼の覚悟に応えるように、クトゥルフとハスターもまた自らの悪夢を振り払った。クトゥルフの六つの瞳が、再びその昏い光を取り戻す。《……なるほど。ここは『物語』の世界か。ならば、結末を我々が書き換えればよかろう》彼女のその言葉と共に、この歪んだ世界の法則そのものが軋み始める。彼女の巨大な知性が、この世界のルールにハッキングを仕掛けていた。


ハスターは高らかに笑った。「フハハハハ!恐怖の王は、この私だ!我が前で恐怖を騙るな、偽物めが!」彼はこの空間に満ちる全ての「恐怖」という概念の支配権を、怪物から奪い取った。


力の源を失った怪物は、まるで砂の城のようにその輪郭を保てなくなり、霧散し始める。同時に、この悪夢の異空間もまた崩壊を始めた。芳樹たちは解放された学生たちを抱え上げ、世界の終わりから逃げるように、元の世界へと通じる鏡の光の中へと駆け込んだ。


---


気がつくと、彼らは元の埃っぽい資料室へと戻っていた。背後の鏡は何事もなかったかのように、ただ静かにそこにあるだけだった。学生たちも意識を取り戻したが、鏡の中での記憶は完全に失われているようだった。事件は終わった。


だが芳樹の耳の奥には、あの怪物が消え去る間際に残した、か細い囁き声がこびりついて離れなかった。『…………あの方の……脚本、通りだったのに…………なぜ……結末が、変わる…………?』脚本。やはりこの事件は、誰かが裏で糸を引いていたのだ。ツァトゥグァの言っていた「混沌の主」。その姿なき敵の存在を、芳樹は改めて確信した。


後日。日常を取り戻した大学の屋上。そこから一人の美青年が、眼下のキャンパスを楽しそうに眺めていた。彼の視線の先には、千夏と楽しげに談笑する芳樹の姿がある。青年はくすくすと喉を鳴らして笑うと、まるで観客のいない舞台の上で独り言を言うかのように呟いた。


「……いやあ、素晴らしい。実に素晴らしい役者が揃ってきたじゃないか」

「さて、と……」

「――次の幕は、どんな悲劇にしてあげようかな――」


その青年の顔は、先日、芳樹のクラスに編入してきた、あの完璧なる優等生、奈々瀬拓人、その人だった。千の貌を持つ神。這い寄る混沌。物語の真の黒幕は、既にすぐそこまで迫っていた。

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