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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第二話 冒涜的ルームメイトと寮則違反


 ドン、ドン、ドン!

 無遠慮なノックの音が、菊池芳樹の心臓を直接殴りつけるかのように部屋に響き渡った。

「菊池くーん! さっきからすごい叫び声が聞こえるけど、一体何事かね!? 大丈夫かーっ!?」

 寮長だ。この赤紫寮の秩序と風紀を司る、小太りで神経質な中年男の声。最悪のタイミングで、最悪の人物がやってきた。

 芳樹の視線は、部屋の中央に鎮座する、冒涜的なるルームメイトへと泳ぐ。天井に頭をこすりつけながら、緑色の巨体は六つの瞳で、ただ静かにこちらを見つめている。契約は成立した。永劫に汝のそばに在ろう。その言葉が、脳内で不吉に反響する。

 逃げ場はない。

 芳樹の脳は、極限の恐怖とプレッシャーの中で、生存本能に突き動かされ、常人には思いもよらない、そして極めて愚かな結論へと飛躍した。

(か、隠せばいいんだ!)

 何を? この身長三メートルの邪神を? どうやって? 六畳一間で?

 思考よりも先に、体が動いていた。彼はベッドから万年床と化している掛け布団をひっぺがすと、神に向かって駆け寄った。

「いいか、動くなよ! 絶対に声を出すな! あ、いや、お前の声は頭に響くから関係ないか! とにかく気配を消せ!」

 神は、芳樹の錯乱したジェスチャーをどう解釈したのか、その巨体をゆっくりと、しかし驚くほど滑らかに折り曲げ、床にうずくまるような姿勢をとった。それでもなお、それは軽自動車ほどの体積があった。芳樹は、その巨大な緑の塊に、ヤケクソ気味に掛け布団を被せた。

 結果として、部屋の中央に出現したのは、異様に巨大な、こんもりとした布団の山だった。しかも、それはまるで呼吸でもしているかのように、もぞもぞと、そしてぬるりと、不気味に蠢いている。隠す前より、明らかに怪しさが増していた。

「菊池くん、いるんだろ! 開けたまえ!」

 ガチャリ、と無情にも鍵が開く音がした。寮長はマスターキーを持っているのだ。芳樹が「あっ」と声を上げる間もなく、ドアはゆっくりと開かれた。

 そこに立っていたのは、案の定、ポロシャツの腹回りがはち切れそうな寮長だった。彼はまず、腰にタオル一枚巻いただけの芳樹の姿を見て眉をひそめ、次に、部屋の中央に鎮座する、ありえない存在感を放つ布団の山に目を留めた。

「……なんだね、これは」

 寮長の細い目が、疑惑に満ちて細められる。

「あ、いや、これは、その……洗濯物がですね、ちょっと山になっちゃいまして! ははは!」

 芳樹の乾いた笑いが、狭い部屋に虚しく響いた。その時、布団の山が、もぞり、と一際大きく蠢いた。そして、布団の隙間から、ぬるり、と緑色の触腕が一本、姿を現した。

 寮長の顔から、血の気が引いていくのが分かった。

「き、菊池くん……今、何か……」

 まずい。そう思った瞬間には、もう遅かった。布団の山は、内側からゆっくりと持ち上がり、その頂点から、六つの瞳を持つ冒涜的なる神の頭部が、ぬっと姿を現したのだ。

 寮長は、それを見た。

 人間が、決して見てはならないものを、見てしまった。

 彼の細い目は、ありえないほど大きく見開かれ、その瞳の奥には、宇宙の深淵が映り込んでいた。彼の脳は、目の前の光景を理解することを拒絶し、彼の精神は、ガラス細工のように粉々に砕け散った。

「あ……あ……あ……星が……星が、渦を……」

 意味不明の言葉を呟きながら、彼は白目を剥き、まるで糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと後ろへ倒れ、後頭部から床に崩れ落ちた。ゴン、という鈍い音が響く。

 芳樹は、その場に立ち尽くした。

「……寮長?」

 返事はない。ただ、床に転がった中年男の口から、無意味な泡が小さく噴き出しているだけだった。

 物音を聞きつけた隣室の先輩が、ひょっこりと顔を出す。

「おーい、菊池、大丈夫か? って、うわ、寮長!? どうしたんだよ、これ!」

 芳樹は、振り返ってはいけない、絶対に部屋の中を見せてはいけないと本能的に判断し、自らの体で壁を作りながら、必死に嘘を捻り出した。

「だ、大丈夫です、先輩! 寮長、最近お疲れみたいで……立ちくらみですよ、きっと! 俺、保健室まで運びますんで!」

 そう言って、芳樹は気絶した寮長の両脇を抱え、ずりずりと廊下へと引きずり出した。彼の人生で、これほどまでに必死になったことは、いまだかつてなかった。


 こうして、菊池芳樹と、自らをクトゥルフと名乗る邪神との、奇妙で、迷惑で、そして絶望的な共同生活は、ひっそりと幕を開けた。

 まず、芳樹は神への尋問を試みた。

「お前、一体何者なんだよ!?」

《クトゥルフである》

「いや、だから、それは聞いた! なんで俺の部屋にいるんだ!? とっとと帰ってくれ!」

《契約により不可能である。我は、永劫に汝のそばに在ろう》

 その言葉は、まるで絶対的な物理法則のように、芳樹の脳内に響いた。芳樹は、自分のしでかした言い間違いの、宇宙的スケールの重さを、この時ようやく理解した。

「そ、それなら、せめて小さくなれ! その図体じゃ、この部屋じゃ生活できないだろ!」

《これが最小ミニマムである》

 絶望。会話が、全く噛み合わない。芳樹は、もはや神と対話することを諦め、この規格外の同居人との共存を、半ば強制的に受け入れざるを得なかった。

 その生活は、地獄そのものだった。

 芳樹がトイレに行こうとすれば、クトゥルフはその巨体でドアの前までついてきて、静かに待っている。物理的に「そばにいる」のだ。おかげで、芳樹はここ数日、深刻な便秘に悩まされていた。

 食事は、さらに悲惨だった。芳樹が隅っこでカップ麺をすすっていると、クトゥルフは興味深そうに、芳樹の教科書や消しゴムを触腕でつまみ、それが食べ物かどうかを確かめようとする。ぬめりのついた教科書で、一体どうやって試験勉強をしろというのか。

 クトゥルフの存在は、芳樹個人の問題だけでは済まなかった。

 彼女(?)が部屋の中を少し動くだけで、建物全体がミシリと軋み、下の階の住人から「菊池くん、部屋で相撲でもとってるのかね!?」という苦情の電話が鳴り響く。

 部屋からは、常に原因不明の異臭が漂い始めた。それは、芳樹が必死にファブリーズを撒いても消えることのない、深海の澱と腐敗した星屑が混じったような、冒涜的な匂いだった。

 そして、最も深刻な問題は、夜だった。

 クトゥルフは眠る。その際、彼女は、脳内に直接響き渡る、冒涜的な言語で寝言を言うのだ。

《……ふんぐるい……むぐるうなふ……くとぅるふ……るるいえ……うがふなぐる……ふたぐん……》

 その、意味をなさない音の羅列は、しかし、聞いた者の精神の根幹を揺さぶり、悪夢と狂気へと誘う、呪いの旋律だった。赤紫寮では、原因不明の不眠と悪夢を訴える寮生が続出。壁一枚を隔てた隣室の先輩は、すっかり隈が深くなり、芳樹と顔を合わせるたびに「菊池……お前の部屋から、夜中に、変な声が……俺の脳に直接……」と、か細い声で訴えてくるようになった。


 噂は、あっという間に広がった。

 寮のSNSグループは、連日、芳樹の部屋に関する憶測で炎上していた。

『203号室の菊池、なんかヤバいの飼ってないか?』

『昨日、あいつの部屋の窓から、緑色のデカい触手みたいなのが見えたんだが』

『UMA飼育疑惑』

『つーか、寮長が気絶したのも、絶対あいつの部屋のせいだろ』

 芳樹は、完全に孤立した。誰もが彼を、恐怖と好奇の入り混じった、腫れ物に触るような目で見るようになった。

 そして、運命の日がやってくる。

 その日の夜、寮の共有スペースで、緊急寮会議が招集された。議題は、もちろん一つ。

「菊池芳樹くんの部屋にいる、謎の巨大生物について」

 まるで魔女裁判のように、芳樹は寮生全員の非難と恐怖に満ちた視線に晒された。彼は、ただ青い顔で俯くことしかできない。

 やがて、あの日以来、どこか様子がおかしくなってしまった寮長が、震える手で一冊の古いファイルを取り出した。彼は、厳かな、しかしどこか虚ろな声で、寮の規則を読み上げ始めた。

「赤紫寮、寮則……第七条……ペットの飼育を、禁ずる……」

 寮長は、一度言葉を切り、ごくりと唾を飲み込むと、叫ぶように続けた。

「犬猫はもちろん、爬虫類、両生類……そして、未確認生物(UMA)の類も、これに含む!」

 その言葉が、判決だった。

 寮生の一人が「そうだそうだ!」と叫ぶと、それは堰を切ったように、他の寮生たちの賛同の渦へと変わっていった。

 採決は、満場一致。

「菊池芳樹、及び、同居しているUMAの、即時退寮を命ずる!」


 夕焼けが、空を茜色に染めていた。

 芳樹は、たった一つのボストンバッグと、その隣に静かにたたずむ一体の邪神を連れて、赤紫寮の門の前に立っていた。

 同棲生活、わずか二日で破綻。

 行くあてなど、あるはずもなかった。ポケットの中には、数千円の現金と、一枚の学生証だけ。

「……どうすんだよ、これから……」

 途方に暮れる彼の独り言は、秋の気配を帯びた風に掻き消されていく。

 その時だった。

 一台の黒塗りの高級車が、まるで最初からそこにいたかのように、音もなく彼の目の前に停車した。後部座席のスモークガラスが、すーっと静かに下がる。

 窓の向こうから、胡散臭い笑顔を浮かべた、細身のスーツの男が顔を覗かせた。

「おやおや、お困りのようですねえ、お客様」

 男は、芳樹の隣に立つ、冒涜的なる神の姿をちらりと見たが、全く動じる様子はない。それどころか、その笑顔を、さらに深くした。

「ちょうど、お二人にぴったりの、運命的とも言える物件が、一つだけ、空きましてねえ……」

 芳樹は、その男の言葉に、抗いがたい何かを感じていた。

 まるで、世界の全てが、自分たちをそこへ導こうとしているかのような、巨大で、不気味な、意思の力を。

 コズミック的強制力。

 その言葉が、彼の脳裏を、不吉に、しかし、どこか滑稽に、よぎっていった。


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