第十九話 赤紫伝説・消える学生
大学祭の熱狂が嘘のように過ぎ去った後、赤紫大学のキャンパスには、どこか気の抜けた、物憂げな秋の空気が漂っていた。燃え尽きた模擬店の骨組みや、忘れ去られた装飾の残骸が、祭りの後の寂しさを助長している。学生たちは、迫りくる後期試験の現実から目を逸らすかのように、あるいは、あの非日常的な数日間の思い出を反芻するかのように、所在なさげにキャンパスを彷徨っていた。
だが、その気だるい平穏の、その水面下。一つの黒い噂が、まるで墨汁を垂らした水のように、静かに、しかし確実に、学生たちの間に広がっていた。最初は、ありふれた都市伝説だった。「なあ、聞いたか?旧校舎の『開かずの資料室』、あそこ、マジでヤバいらしいぜ」講義室の片隅で、そんな囁きが交わされる。「大学の七不思議だろ?肝試しに入ったやつが、鏡の中に引きずり込まれるってやつ。小学生かよ」誰もが、最初はそう言って笑っていた。
だが、噂は、日を追うごとに、その輪郭を、おぞましい現実のものへと変えていった。大学の匿名掲示板に、真偽不明の、しかし妙に生々しい書き込みが投稿されたのだ。『【緊急】サークルの先輩三人が、昨日の夜から行方不明。最後に「資料室行ってくる」ってLINEが来たきり、連絡がつかない。誰か、何か知らないか?』その書き込みを皮切りに、キャンパスの空気は明確に変質した。学生たちの囁き声から、軽薄な好奇心は消え、代わりに、じっとりとした本物の恐怖の色が滲み始める。そしてその恐怖は、ついに菊池芳樹の、すぐ隣にまで迫ってきていた。
「――お願い、菊池くん……!何とかして……!」
放課後の誰もいない教室。夕日が長い影を落としている。相田千夏は、芳樹の腕をその両手で強く掴んでいた。彼女の指先は氷のように冷たく、そして抑えきれない恐怖に小刻みに震えている。いつもは太陽のように快活な彼女の顔は青ざめ、その瞳は潤んでいた。「行方不明になった先輩たちの中に……私のサークルの後輩もいるの……。女の子なんだ。昨日の夜、『ちょっと、友達と、資料室見てくるね』って、ふざけたスタンプと一緒に、メッセージを送ってきたきり、既読にすらならなくて……」
警察にも、大学の事務室にも、相談はした。だが、返ってくる答えはいつも同じ。「事件性が確認できない以上、我々では動けない」「最近の若い方は、気まぐれに旅行へ出ることもありますから」。そのあまりにも無責任な大人の対応。千夏は、芳樹の顔を必死の形相で見上げていた。その瞳には、もはや懇願だけではなく、芳樹に対する絶対的な信頼と確信のようなものが宿っていた。
「菊池くん……。私、覚えてる。クリスマスの時も、夏祭りの時も、いつも、ありえないことが起こって、でも、菊池くんがなんとかしてくれた。菊池くんの周りにいる、ハスターさんや、クトゥルフさん……。あの人たちが普通の人じゃないってことも、もうなんとなく分かってる。だから、お願い!菊池くんなら、何か分かるかもしれない……!」
彼女の魂からの叫び。芳樹は、その重い信頼から目を逸らすことができなかった。関わりたくない。もうこれ以上、神々の、あるいは怪異の面倒事に首を突っ込みたくない。平穏に暮らしたい。だが、目の前で大切な友人が泣いているのだ。彼女をこのまま見捨てることなどできるはずもなかった。芳樹は固く拳を握りしめると、覚悟を決めた。「…………分かった。俺にできることがあるか分からないけど……。一緒に調べてみる」
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芳樹は、まず情報の専門家である門倉健の元を訪れた。オカルト研究会の部室は、相変わらずカビと古書と、そして正体不明の薬品が混じり合った、冒涜的な匂いに満ちていた。壁には、人体の解剖図と、占星術の天球図が並べて貼られている。ホルマリンの瓶の中では、一つ目のカエルや、双頭の蛇が、静かにこちらを見つめていた。門倉は、部屋の中央で山積みの資料に埋もれ、目の下に深い隈を作り、しかしその瞳だけは、新たな謎を前にした探求者の喜びに爛々と輝いていた。
「やはり、君もこの事件に気づいたか、菊池師匠!我がオカルト研究会の総力を挙げて、調査を開始したところだ!」「だから、師匠じゃないって……。それより、何か分かったのか?『開かずの資料室』のこと」
門倉は、待ってましたとばかりに、埃をかぶった大学の古い設計図の束を机の上に広げた。「『開かずの資料室』は、正式名称を第三参考資料室。我が校がこの地に移転してくる遥か以前……この場所が帝国陸軍の秘密研究所だった時代から、存在すると言われている、いわば禁断の書庫だ」彼は、震える指で設計図の一点を指し示す。その場所は、現在の旧校舎の地下にあたる部分だった。「そして、都市伝説によれば……。その資料室の一番奥には、一枚の古めかしい姿見が置かれているらしい。なんでも、研究所時代に、ここで非道な人体実験の果てに命を落とした被験者たちの怨念が、その鏡に渦巻いているとか……。深夜零時、その鏡の前に立った者は、鏡の中に引きずり込まれて二度と戻ってはこれない、と……」
鏡。その単語に、芳樹の背筋がぞくりと粟立った。クトゥルフがこの世界へとやってきた、あの忌まわしき扉。芳樹は門倉に礼を言うと、急いで我が家へと帰還した。そして、リビングで寛いでいた(という名の、怠けていた)神々に事の次第を説明した。「――というわけで、今夜、その資料室に行ってみようと思う。悪いけど、また力を貸してくれないか?」
神々の反応は三者三様だった。「フン、下等な霊の悪戯か。あるいは、人間の矮小な怨念か。よかろう。我が伴侶の友人が困っているというのであれば、この王たる私が直々にその怪異を塵芥と化してくれようぞ!」ハスターは、まるで退屈しのぎの余興でも見つけたかのように、不敵な笑みを浮かべている。その瞳には、哀れな亡霊に対する王者の傲慢な慈悲が宿っていた。
一方、クトゥルフは。彼女は「鏡」という言葉を聞いた瞬間、その六つの瞳をほんのわずかに細めた。彼女の巨大な体躯が、ほんの少しだけ硬直したのを芳樹は見逃さなかった。彼女にとって鏡は、異世界へと通じるただの通路などではない。それは、彼女自身がかつて囚われていた牢獄の象徴なのかもしれない。
《……分かった。行こう》
彼女は短いテレパシーで静かに同行を承諾した。その声には、いつもの平坦な響きとは違う、何か個人的な因縁のようなものが混じっているようだった。
そして、ツァトゥグァは。「…………面倒だ」彼は炬燵から一歩も動く気がないらしい。「……だが、一つだけ忠告しておいてやる」彼は眠たげな声で続けた。「…………鏡は、ただ姿を映すだけの道具ではない。……それは、隣の世界へと通じる扉だ。……そして、時には、それ自体が、人間の強い感情を喰らい、意思を持つこともある……。神々の法則が、必ずしも通用するとは、思うなよ……。気をつけろ……」その不吉な、しかし的確な助言だけを残し、彼は再び眠りの深淵へと沈んでいった。
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その夜。月明かりすらない新月の闇が、大学のキャンパスを支配していた。芳樹、千夏、門倉、そして認識阻害の力でごく普通の大学生の姿に見せかけているハスターとクトゥルフ。五人の奇妙な探索隊は、警備員の懐中電灯の光から身を隠しながら、目的の旧校舎へと忍び込んでいた。ぎぃ、と古びた扉が軋む音。埃とカビの匂いが鼻をつく。目的の「開かずの資料室」は、その一番奥にあった。扉には、錆びついた南京錠がかかっている。「これでは入れないな……」門倉が諦めかけた、その時。「フン、人間の作った矮小な枷だ」ハスターがその扉の前に立つと、指先を軽く振った。びゅう、と突風が巻き起こり、南京錠が内側からありえない力で捻じ曲げられ、ガチャリ、という鈍い音を立てて壊れた。
扉がゆっくりと開かれていく。その向こうには、闇がまるで巨大な生物の口のように開いていた。部屋の中は、天井まで届きそうな巨大な書架の迷路だった。忘れ去られた無数の資料や古文書がびっしりと並んでいる。空気は澱み、まるで時間の化石でも吸い込んでいるかのようだった。芳樹たちは、スマートフォンのライトを頼りに、その迷宮の中を慎重に進んでいった。
そして一番奥。彼らはついにそれ、を発見した。そこには噂通り、一枚の巨大な姿見が置かれていた。ヴィクトリア朝様式の、黒い木彫りの豪華な装飾が施された全身鏡。だが、その鏡面は異様だった。それは何も映してはいなかった。芳樹たちの姿も、ライトの光も。鏡の表面は、まるで磨かれた黒曜石か、あるいは凍り付いた夜の湖面のように、どこまでも黒く、そして深く濁っている。それは、光を反射するのではなく、むしろ周囲の僅かな光すらも貪欲に吸い込んでいるかのようだった。覗き込んでいると、自分の魂までが、その底なしの闇に引きずり込まれてしまいそうな、冒涜的な引力を放っていた。鏡の周囲だけ、空気の温度が明らかに低い。芳樹は、その冒涜的なる鏡を前に、ゴクリと唾を飲み込んだ。
やがて運命の時刻。どこか遠くから、大学の時計台の鐘が、ぼーん、ぼーん、と十二の時を告げるのが聞こえてきた。深夜、零時。その最後の鐘の音が鳴り終わった瞬間だった。黒く濁っていたはずの鏡の表面が、まるで水面のようにゆっくりと波紋を広げ始めた。そしてその黒い水面の中から。ぬう、と。一本、また一本と、無数の白い手が、まるで粘度の高い液体の中から生まれてくるかのように生えてきたのだ。それは、不健康なまでに血の気の失せた、蝋のような白い手。指は、ありえないほどに長く、そして関節がないかのようにしなやかに蠢いている。
その無数の白い手は、最も鏡の近くにいた門倉へと一斉に襲いかかった。「うわあああああっ!?」門倉の悲鳴。白い手は、彼の腕に、足に、体に、音もなく、しかし決して離さないという強い力で絡みつき、彼を鏡の中へと引きずり込もうとする。「下郎が!」ハスターが叫び、風の刃を放つ。だが、その鋭い刃は、白い手を、まるで幻影であるかのように、何の手応えもなくすり抜けていくだけだった。クトゥルフのテレパシーによる精神攻撃も効果がない。この怪異には、知性がない。ただ純粋な捕食の本能だけがそこにある。これは、旧支配者の法則が通用しない、全く異質の怪異だった。
「くそっ!どうすれば……!」
芳樹の脳裏に、あの古文書の一節が蘇る。『――物理的な干渉を受け付けぬ存在には、同質の干渉を……――』その時、クトゥルフから短いテレパシーが届いた。《……よしき。気をつけろ。……こいつは、神ではない。……人間の恐怖という感情が、この場所に澱んで形を成した、『物語』だ……》
物語。その言葉の意味を、芳樹が理解するよりも早く。白い手はターゲットを変えた。門倉を解放し、今度はそのすぐ隣で恐怖に竦んでいた千夏へと、その白い指先を伸ばした。「きゃあああああっ!」千夏の悲痛な悲鳴が響き渡る。その声を聞いた瞬間。芳樹の心の中で、恐怖よりも遥かに大きな別の感情が爆発した。守らなければ。彼女だけは、絶対にこんな悪夢のような世界に引きずり込ませてはいけない。芳樹は覚悟を決めた。
彼は鏡の前に仁王立ちになると、その黒い水面を睨みつけた。「……面白い。……その物語とやら、俺が乗ってやるよ」彼は、仲間たちを振り返ることなく叫んだ。「――俺も、そっちへ行ってやる!――」
芳樹は、自らの意志で、その悪夢の中へと身を投じることを決意したのだった。




