表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
17/23

第十七話 黄衣の王と喝采なき舞台

秋の赤紫大学は、一種の熱病に浮かされていた。年に一度の大学祭、「赤紫祭」。その開催を間近に控え、キャンパスの隅々までが、どこか浮き足立った、喧騒と創造のエネルギーに満ち溢れていた。模擬店の骨組みが組まれ、バンドサークルの拙い演奏が響き、学生たちの顔には、寝不足と、それを上回る高揚感が浮かんでいる。


菊池芳樹は、そのあまりにも「普通」で、あまりにも「青春」らしい光景の只中で、しかし全く別の種類の混沌の渦の中心にいた。


「――違うッ!そこの大道具係!その柱の色は、ただの白ではない!ヒアデス星団に浮かぶ、白色矮星の、死の光を表現した白だ!もっと、絶望を塗料に混ぜろ!」


大学の大講堂。その薄暗いステージの上から、神の如き、あるいは悪魔の如き、苛烈な声が響き渡る。声の主はハスター。彼は、あのオープンキャンパスの日以来、その圧倒的なカリスマ性で演劇サークルを完全に掌握。前部長を傀儡へと貶め、自らが脚本・演出・そして主演を務める、大学祭公演の絶対的な独裁者として君臨していた。そして、その「大道具係」とは、不幸にも菊池芳樹、その人のことであった。


「絶望を、塗料に混ぜるって、どうやんだよ……」


芳樹は、ペンキのついた刷毛を手に、誰に聞かせるともなく力なく呟いた。彼がなぜこんなことになっているのか。それは数日前の、相田千夏の悪魔の囁きに端を発する。「お願い、菊池くん!演劇サークル、大道具係が一人倒れちゃって、人手が足りないの!菊池くん、機械いじりとか得意だし、こういうのも、いけるでしょ!?」その太陽のような笑顔に、芳樹が逆らえるはずもなかった。


かくして、芳樹の地獄の大学祭準備期間は始まった。ハスターが、この舞台のために書き下ろしたという戯曲、そのタイトルは『黄衣の王』。その内容は、芳樹はもちろん、サークルの部員たちの誰一人として理解できていなかった。台本に書かれているのは、全て古代ルルイエ語か、あるいはさらに別の冒涜的な異星の言語。部員たちは、ハスターが吹き込んだ、耳で聞いただけでは到底発音不可能な音の連なりを、ただ必死にオウム返しのように練習しているだけだった。


「そこの村人A!貴様の『いあ!いあ!』には、宇宙的真実を前にした、矮小なる知性の、絶望と歓喜が足りん!やり直しだ!」


ハスターの完璧主義者としての指導は熾烈を極めた。だが、不思議なことに、部員たちの顔に悲壮感はなかった。誰もが、彼のその神がかり的なカリスマ性と、時折見せる的確な演技指導に魅了され、心酔しきっていた。彼らは、自らが歴史に残る偉大な傑作の一部になっているのだと、固く信じているようだった。


芳樹は、そんな一種の集団催眠のような状態にある稽古場の隅で、ただ黙々と舞台装置の製作に没頭していた。彼が作らされているのは、「カルコサの黒き星々の下にある、忌まわしき都市の玉座」や、「アルデバランの双子の太陽を望む、石造りのバルコニー」といった、名前を聞いただけではSAN値が下がりそうなものばかりだった。


そんな狂った作業の中で、芳樹はハスターの意外な一面を垣間見ることになる。ある日、芳樹が玉座のグラつく脚を金槌で修理していると、背後からハスターが音もなく声をかけてきた。「……フン。なかなか悪くない仕事ぶりではないか、大道具係よ」それは、彼が芳樹にかけた初めての素直な称賛の言葉だった。芳樹が驚いて振り返ると、ハスターはばつが悪そうに顔をそむけてしまった。


また、ある夜。芳樹が連日の徹夜作業で、大道具の陰でうたた寝をしてしまっていた時のこと。ふと目を覚ますと、彼の隣に、一本の見慣れない缶が置かれていた。それは、一本五百円以上もする、高級な輸入物のエナジードリンクだった。稽古場には誰もいない。芳樹は、その缶を手に取った。まだひんやりと冷たい。彼が顔を上げると、講堂の出口の扉が閉まる、ほんのごく僅かな間だけ、黄衣の王の、その美しい横顔が見えたような気がした。王の不器用な差し入れ。芳樹は、そのエナジードリンクを一口飲んだ。それは、彼の疲労困憊の体に、不思議なほど甘く、そして温かく染み渡っていった。


だが、そんな奇妙な平穏をかき乱す者もいた。クトゥルフだ。彼女は、芳樹が連日ハスターと共に稽古場で過ごしていることが面白くないらしかった。彼女は、時折何の前触れもなく、講堂の客席の一番後ろの暗闇に、ぬっと姿を現すのだ。何も言わない。何も、しない。ただ、その六つの昏い瞳で、ステージ上のハスターと、そして舞台袖の芳樹をじっと見つめているだけ。だが、彼女が現れると、講堂の空気が一変する。まるで真夏の稽古場に、深海の絶対零度の空気が流れ込んできたかのように、気温が急激に下がる。俳優たちは、突然の寒さにセリフを忘れ、動きが鈍る。その、無言の、しかしあまりにも強力なプレッシャーと嫉妬のオーラ。それに気づいたハスターは、演技の途中で客席の暗闇を忌々しげに睨みつける。二柱の神は、芳樹をその中心に置いて、静かで、冷たく、そして極めて熾烈な神経戦を繰り広げていたのだ。


---


やがて、運命の公演当日がやってきた。大講堂は満員だった。立ち見客まで出るほどの、大盛況。芳樹は、舞台の袖からその客席の熱気を感じていた。最前列には、千夏が興奮した顔で座っている。その隣には、なぜか門倉先輩が、学術調査でもするかのように、真剣な顔でノートを構えている。そして、その後方の席。クトゥルフが相変わらずの無表情でステージを見つめている。彼女の隣の席では、いつの間にかツァトゥグァが、その毛むくじゃらの体を丸め、既に深い眠りに落ちていた。


やがて客席の照明がゆっくりと落ちていく。静寂。そして舞台の幕が上がった。


そこから繰り広げられたのは、もはや演劇というよりも、一種の集団的な幻覚体験だった。物語の筋書きなどどうでもよかった。ハスターの、その神がかり的な演技は、観客の理性や知性を飛び越え、彼らの魂のもっと奥深く、柔らかな部分を、直接鷲掴みにし、揺さぶった。彼の古代ルルイエ語による独白は、誰もその意味を理解できない。だが、人々は感じていた。遥かカルコサの都に君臨する、孤独な王の、その栄光と苦悩を。黒い星々の下で、自らの存在意義を問い、狂気に身を焦がす、その魂の慟哭を。客席のあちこちから、すすり泣きが聞こえ始める。人々は、なぜ自分たちが泣いているのか分からなかった。ただ、目の前の黄衣の王が、あまりにも美しく、そしてあまりにも悲しかったのだ。


芳樹も、舞台袖で、その異様な光景にただ圧倒されていた。ハスターの、その神としての本質。それは、風を操る力でも、戦闘能力でもない。人の心を根源から魅了し、支配し、そして狂わせる、その圧倒的なまでのカリスマ性。それこそが彼の本当の恐ろしさなのだと、芳樹は、この時初めて理解した。


物語はクライマックスへと突き進む。失われた王国、カルコサ。その崩れ落ちた玉座の上で、黄衣の王が最後の独白を始める。それは、宇宙の全てを手に入れ、そして全てを失った王の孤独な魂の歌だった。ハスターは天を仰ぎ、その絶望を歌い上げる。そして、彼はゆっくりとその視線を下ろした。その視線の先。それは客席ではなかった。彼は、舞台の袖、その薄暗い闇の中で、固唾を飲んで自分を見つめている、たった一人、菊池芳樹、その人を、まっすぐに射抜くように見つめていた。劇場全体の時間が止まったかのような錯覚。ハスターは、脚本にはないアドリブのセリフを、ただ芳樹一人のためだけに紡いだ。その声は、これまでの王の尊大な響きではなく、まるで迷子の子供のような、か細い、そして切実な響きを帯びていた。


「――我が、玉座の隣に、汝はいるか?――」


それは、神が初めて人間に見せた魂の弱さ。そして紛れもない、愛の告白だった。芳樹は、そのあまりにもまっすぐな問いかけに、ただ息を呑むことしかできなかった。


やがて舞台の幕がゆっくりと下りていく。一瞬の沈黙。そして次の瞬間。割れんばかりの拍手と喝采が講堂全体を揺るがした。人々は立ち上がり、熱狂し、涙を流しながら、ステージに向かって賞賛の声を送り続けていた。だが、その熱狂の中心で、ハスターは、ただ一人、舞台袖の芳樹のことだけをじっと見つめ続けていた。


---


その夜、演劇サークルの打ち上げ。大学近くの安居酒屋は、サークル部員たちの熱気でむせ返っていた。「ハスター部長!最高でした!」「一生ついていきます!」部員たちから絶賛の嵐を受けるハスター。だが、彼は、その賞賛の言葉をどこか上の空で聞き流していた。彼の視線は、部屋の隅で一人唐揚げを頬張っている芳樹のことだけを追い続けている。


やがて芳樹は、意を決したようにハスターの前へとやってきた。そして、少し照れくさそうに頭を掻きながら言った。「……お疲れ、ハスター」「……最後の、あのセリフ……。正直、よくわかんなかったけど……」「……でも、なんか、すげー良かったよ。お前、本当に孤独な王様みたいだった」それは、何の飾り気もない、芳樹の素直な感想だった。その言葉を聞いたハスター。彼は、「フン、当然だ」と、いつものように尊大にそっぽを向いた。だが、その完璧な美貌の、その口元が。ほんのわずかに、しかし確かに、満足げに綻んでいたのを、芳樹は見逃さなかった。


打ち上げが終わり、夜も更けた頃。芳樹は、千夏と二人並んで家路を歩いていた。「すごかったね、今日の舞台!ハスターさん、本当にすごい人なんだね!」「ああ、まあな……」祭りの後の心地よい疲労感と静寂。このまま何事もなければいい。そんな芳樹のささやかな願いを打ち砕くように。前方の暗闇から、一つの人影が猛烈な勢いでこちらへと走ってくるのが見えた。ヨレヨレの白衣。ずり落ちかけた丸眼鏡。門倉先輩だ。彼は芳樹の前にたどり着くと、肩で息をしながら、鬼気迫る表情で叫んだ。


「――た、大変だ、菊池くん!」

「――大学の七不思議の一つ……!『開かずの資料室』の扉が……!」

「―――今夜、なぜか、開いているんだ!―――」


彼の絶叫が、秋の冷たい夜空に吸い込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ