第十六話 宿題と魔改造マシーン
八月三十一日、午後十一時五十分。それは、日本の学生にとって、一年で最も絶望的な時間である。
菊池芳樹の部屋――かつては彼の城であったはずの八畳間は、今や、彼の怠惰と先延ばし癖が築き上げた、巨大な墓標と化していた。机の上には手つかずのレポート用紙の山。床には、一度も開かれなかったであろう分厚い専門書が地層のように積み重なっている。部屋に漂うのは、エナジードリンクの甘ったるい匂いと、インスタントコーヒーの焦げた香り、そして芳樹の魂がすり減っていく、焦燥の匂い。
「……終わらない……。絶対に、終わらない……!」
芳樹は、カフェインで無理やり覚醒させた脳をフル回転させながら、シャーペンを握る手に意味もなく力を込めた。パソコンの画面には、白紙のワードファイルが、まるで彼の未来を嘲笑うかのように無慈悲な輝きを放っている。
その地獄のような光景の中で。この家の他の住人たちは、それぞれの形で優雅な夜を過ごしていた。リビングでは、クトゥルフが深夜の通販番組を真剣な顔で見つめていた。画面の中では、異常なほどハイテンションな司会者が、「さあ、このお値段!信じられますか!?」と、セラミック包丁のセットを掲げている。彼女は、その人間の経済活動の根幹を成す「価格」という概念を理解しようと努めているのかもしれない。縁側では、ハスターが月光を浴びながら、自作の叙事詩を朗々と吟じていた。「おお、静寂の夜よ!この我、黄衣の王の美しさを、独り占めにするとは、なんと罪深きことか……!」その声は、近所迷惑という概念を完全に超越している。そしてツァトゥグァは、言うまでもなく、炬燵の中で、幸せそうに寝息を立てていた。
芳樹は、そんな彼らのあまりにも平和で、あまりにも無責任な姿に、ついに堪忍袋の緒がぶちりと切れた。「てめえらなあ!」彼は椅子から立ち上がると、リビングへと乗り込み、仁王立ちになって叫んだ。「人がこんなに死ぬ気で課題と戦ってるっていうのに!なんだ、その優雅な態度は!少しは手伝えとは言わん!せめて、この俺の苦しみを共有しろ!」
その理不尽な魂の叫びに、神々はきょとんとした顔で彼を見つめ返した。ハスターが心底不思議そうに首を傾げる。「課題?フン、人間とは自らに枷をはめるのが好きな、奇特な種族よな」
《カダイ……。それは、食えるのか?》
クトゥルフの純粋な問いかけ。芳樹の最後の理性が焼き切れた。彼は、睡眠不足とカフェインでハイになった頭で、一つの悪魔的なアイデアを思いついてしまった。「……そうだ。お前らにも、やらせてやるよ。人間社会の、この素晴らしい文化をな……!」
彼は、机の上から新品のノートと画用紙をひったくると、それぞれの神の前へと叩きつけた。「――夏休みの宿題だ!」
芳樹は、それぞれの神の特性に合わせて(と、彼が信じる)、課題を与えた。まずクトゥルフ。「お前は、この夏、色々なものを見たはずだ。それを絵と文章で記録しろ。絵日記だ!」次にハスター。「お前は、王だかなんだか知らんが、その有り余る知識とプライドで、何か壮大なテーマについて、自由に研究し、レポートとしてまとめろ!自由研究だ!」そして最後にツァトゥグァ。「お前は、とにかく動け!これは朝顔の種だ!この鉢に植えて、毎日、その成長を観察しろ!朝顔の観察だ!」
芳樹は、半ばヤケクソでそう言い放つと、再び自らの机へと戻っていった。神々は、目の前に置かれた、ノートや画用紙や植木鉢を、ただ不思議そうに見つめているだけだった。
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そして、悪夢のような一夜が明けた。芳樹は、なんとか全てのレポートを提出可能なレベルにまで仕上げることができた。彼の肉体と精神は、既にもぬけの殻だったが。リビングへと向かうと、そこには、三柱の神々による、三つの冒涜的なる「宿題」が提出されていた。
最初に、芳樹はクトゥルフの「絵日記」を手に取った。画用紙には、クレヨンで何かの絵が描かれている。
一枚目。タイトルは、『きょう、ねこをみた』。だが、そこに描かれていたのは、芳樹の知る「猫」ではなかった。それは、確かに四本の足と尻尾を持つ獣の形をしている。だが、その体は半透明で、内部には、いくつもの歯車のような臓器が、複雑に絡み合いながら回転しているのが見える。そして、その頭部からは、九つの異なる次元を同時に認識しているかのような、無数の瞳がこちらを見つめていた。絵の横には、片言のひらがなで、こう書かれている。『ねこは、このせかいの、いびつさを、かんししている。かれらのたましいは、きゅうじげんこうぞうを、している』
芳樹は眩暈を覚えた。二枚目。『きょう、あいすくりーむを、たべた』。描かれていたのは、コーンの上に乗ったピンク色のアイス。だが、そのアイスは、無数の苦悶に満ちた人間の顔のようなものが寄り集まってできていた。その顔の一つ一つが、溶けていく自らの運命を嘆き、無言の悲鳴を上げている。『あいすくりーむの、げんしは、とかされるとき、くるしみの、だんまつまを、あげる』
芳樹は、もう二度とストロベリーアイスを食べられないかもしれない。SAN値がゴリゴリと削られていく。それは、もはや絵日記ではなかった。禁断の魔導書、「ネクロノミコン」の、クレヨンで描かれた挿絵だった。
次に、芳樹はハスターの「自由研究」を手に取った。A4のレポート用紙に、万年筆による、流麗な、しかしどこか狂気を帯びた達筆な文字で、びっしりと何かが書き込まれている。そのタイトル。『我が伴侶(菊池芳樹)の生態観察、及び、その王たる資質に関する考察』
「…………は?」
芳樹は自分の目を疑った。ページをめくると、そこには彼の、この一ヶ月間の行動が、ストーカーレベルの異常な精度で記録されていた。『観察記録一日目。午前二時十七分。対象(我が伴侶)、就寝中に寝返りを打つ。僅かな唸り声を確認。分析:恐らくは、この王たる私の気高き夢でも見ていたのであろう』『観察記録三日目。午後六時四十二分。対象、夕食にカップ麺(シーフード味)を摂取。スープを、一滴、Tシャツにこぼす。分析:些か、行儀が悪い。王の伴侶として、再教育の必要性を認める』『観察記録七日目。午後九時十五分。対象、入浴。湯船でアヒルの玩具を浮かべて遊んでいた。分析:………。………。……まあ、よい。可愛いから、許す』
芳樹は、顔から血の気が引いていくのを感じた。プライバシーの完全なる崩壊。
そして最後に、芳樹はツァトゥグァの「朝顔の観察」に目をやった。縁側に置かれたその植木鉢。だが、そこに生えていたのは、芳樹の知る「朝顔」では断じてなかった。鉢からは、不気味な紫色の血管が浮き出た太い蔓が、何本もとぐろを巻くように伸びている。その蔓は、まるで意思を持っているかのように、うねうねと蠢いていた。そして、その蔓の先に咲いている、巨大な一輪の花。それは朝顔の形をしていたが、その色は血のように赤黒く、そして花弁の中心には、ラフレシアのように巨大な牙の並んだ「口」が、ぱっくりと開いていた。
「……なんだよ、これ……」
芳樹が、呆然とその冒涜的な植物に近づいたその瞬間。食人朝顔は、その蔓を鞭のようにしならせると、猛烈な勢いで芳樹に襲いかかってきた!「うわあああああっ!?」芳樹は悲鳴を上げ、転がるようにしてそれをかわす。蔓は、彼が先ほどまで立っていた縁側の床板を粉々に粉砕した。
ツァトゥグァは、その惨状を炬燵の中から眠たげに眺めているだけだった。「……ああ。……水をやるのが、面倒だったからな。……我が神気を少しだけ、分け与えておいた。……元気が良すぎるか」
「良すぎるとか、そういうレベルじゃねえだろ!」
芳樹の悲痛な叫びが、朝の静かな家に木霊した。
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新学期、初日。芳樹は寝坊した。昨夜の徹夜と、今朝の食人植物との死闘。彼の肉体と精神は、既に出がらしのようになっていた。「やばい!一限から必修の講義が!」芳樹はトーストを口に咥え、慌ててガレージへと走る。そこには、彼の愛車、ミ=ゴによって魔改造されたSR400が、静かに彼を待っていた。
彼は、バイクに跨ると、焦る気持ちのままエンジンを始動させる。そして右手でアクセルを思い切り捻った。だが、その時、彼の指が焦りのあまり滑ってしまった。そして、本来のアクセルの隣に、ミ=ゴが先日、面白半分で新たに取り付けたばかりの、赤い小さなボタンを押してしまったのだ。そのボタンには、宇宙語でこう書かれていた。『空間跳躍ブースト(試作型)』。
次の瞬間。バイクのエンジンが咆哮を上げた。それは、もはやシングルエンジンの牧歌的な鼓動ではない。まるでジェット戦闘機か、あるいは異次元の怪物が目覚めたかのような甲高い絶叫だった。青白い光が、車体の下部から噴出する。そして芳樹の体は、Gという概念が崩壊するほどの、圧倒的な加速Gによってシートに叩きつけられた。バイクは前には進まなかった。真上に飛んだのだ。轟音と共に垂直に離陸。それは、もはやバイクではなかった。小型のロケットだった。芳樹は、悲鳴を上げる間もなく、あっという間に高度を上げていく。眼下に、自分の家が、街が、みるみる小さくなっていく。その日、赤紫市の上空では、未確認飛行物体(UFO)が目撃された、というニュースが駆け巡ることになる。
なんとか上空でバイクの体勢を立て直した芳樹。だが、試作型のブースターは、彼の制御を完全に離れていた。彼は、大学の上空を何度もぐるぐると旋回する。やがて、エンジンから黒い煙が噴き出し始めた。「だめだ!落ちる!」芳樹は、最後の気力を振り絞り、なんとか機体を大学の中庭へと向けた。そして墜落。轟音と共にバイクは中庭の芝生に不時着し、小さなクレーターを作った。芳樹はなんとか無事だったが、彼の愛車はあちこちから煙を吹き出し、完全に沈黙してしまっていた。呆然と立ち尽くす、芳樹。その周りを、何が起きたのか分からず、遠巻きにおそるおそる眺める他の学生たち。芳樹は途方に暮れた。
その時だった。空から数機の銀色の円盤が、音もなく舞い降りてきた。ミ=ゴたちだった。彼らは芳樹の前に着陸すると、その中の一匹が翻訳機を通じて、冷静に告げた。「……オトモダチノ、ピンチデス。……我々ガ、修理シマショウ」ミ=ゴたちは、宇宙合金製の奇妙な工具箱を取り出すと、その場で青空バイク修理を始めてしまった。そのあまりにも異様で、あまりにもシュールな光景を。校舎の窓から、千夏が呆れたような、しかしどこか面白そうな顔で眺めていた。「……菊池くん、また、何か面白そうなこと、してる……」
芳樹は、ただ天を仰いだ。彼の平凡な大学生活は、もう二度と戻ってはこない。その事実を、彼はこの日、心の底から、そして絶望的に理解した。
その日の午後。大学の掲示板に、一枚の新しいポスターが貼り出された。秋に開催される、大学祭「赤紫祭」の告知ポスター。その一番目立つ場所に、演劇サークルの公演ポスターが貼られている。そこには、黒いタキシードにシルクハットという貴公子然とした出で立ちで、しかしその瞳に狂気の光を宿して、不敵に笑う、ハスターのプロが撮ったかのような、美しい顔写真が大きく使われていた。そして、そのポスターに書かれた演目のタイトル。
―――『黄衣の王』。
新たなる混沌の舞台の幕は、もうすぐそこまで上がっていた。