第十五話 深きものどもと潮の香り
八月の終わり。太陽は、まるで断末魔の悲鳴を上げるかのように、最後の熱波を地上に叩きつけていた。菊池芳樹の家――あの奇怪な古民家は、天然のサウナと化していた。むせ返るような湿気と、じりじりと肌を焼くような暑さ。風鈴は、風が死んだせいで沈黙を保っている。縁側では、ミンミンゼミが狂ったように鳴き続けていた。
家の中では、住人たちがそれぞれの形でだらけきっていた。ツァトゥグァは、暑さなどどこ吹く風といった様子で、炬燵の中で(電源は入っていないが)、いつにも増して幸せそうに眠っている。彼にとって、この万物が活動を停止する季節は天国そのものなのだろう。ハスターは、上半身裸で、己の肉体美を扇子で扇ぎながらソファの上でぐったりと伸びている。「下賤な気候だ……王たる私の肌が、汗で汚れてしまう……」と、文句を言う気力すら、もはや残っていないようだった。クトゥルフは、家の北側にある、一番涼しい板の間に巨大な体躯を横たえていた。彼女のぬめりを帯びた肌は、心なしかいつもより乾燥しているように見える。
そして、芳樹は。彼はパンツ一丁で畳の上に大の字になり、完全に無と化していた。(……暑い……溶ける……。もう、どうでもいい……)
その、家全体が熱的死へと向かう、淀んだ空気を切り裂いたのは、一台のスマートフォンの軽快な着信音だった。芳樹は億劫そうに手を伸ばす。画面には、「相田千夏」の文字。
『もしもし、菊池くん?生きてるー?』
電話の向こうから、千夏の太陽のように明るい声が聞こえてくる。「……死んでる……。暑さで、どろどろに溶けて、意識が蒸発する、五秒前だ……」
『あはは、大げさだなあ。ねえ、こんな日は家にいたってダメだよ!みんなで海に行かない?』
「……うみ?」
その単語。芳樹の半分溶けかかった脳には、まだその言葉の意味がうまく届かない。だが、その言葉は、芳樹の隣で置物と化していた巨大な神の耳には、はっきりと届いていたようだった。クトゥルフの六つの瞳がぴくりと動いた。彼女のその昏い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、遥か太古の故郷の海の記憶が揺らめいたのを、芳樹は見たような気がした。
《……海……。懐かしい、響きだ……》
脳内に微かな、そしてどこか郷愁を帯びたテレパシーが届く。その声に、ソファで伸びていたハスターも、むくりとその上半身を起こした。「海、だと?フン、水浴びか。よかろう。この王たる私の、完璧なる肉体美を、愚かなる民に披露してやるのも一興だ」
芳樹の返事を待たずして、神々の間では海水浴に行くことが決定事項となっていた。
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赤紫市近郊、弓なりに広がる白砂のビーチ。そこは、都心の有名リゾートのような洗練された雰囲気はないが、家族連れや地元の若者たちで賑わう、活気に満ちたありふれた日本の海水浴場だった。潮の香りと、日焼け止めの甘い匂い。子供たちのはしゃぎ声と、打ち寄せる波の音。そんな平和な光景の中に、菊池芳樹の一行はあまりにも異質だった。
千夏は、白地に青い花柄の可愛らしいビキニを着ていた。その普段のボーイッシュな雰囲気とは違う、女の子らしい姿に、芳樹の心臓は無駄に高鳴っている。だが、彼の両隣には、二柱の規格外の神々がいた。
クトゥルフは、芳樹がネット通販で特注した、競泳用の巨大なワンピース水着をその身に纏っていた。伸縮性の高い素材で作られているはずだが、彼女の人間には理解不能な三次元構造を持つ肉体は、その水着ですらはち切れんばかりに押し広げている。そしてハスター。彼はなぜか、古代ギリシャの彫刻のような、布面積の極めて少ない金色のブーメランパンツ一丁で、その腰には風にたなびく真紅のマントだけを羽織っていた。そのあまりにも時代錯誤で、あまりにも露出度の高い格好は、周囲の海水浴客たちの好奇と、ドン引きの視線を一身に集めている。
だが、そんな周囲の視線など、彼らには全く関係ないようだった。特にクトゥルフの様子は、いつもとは明らかに違っていた。彼女は砂浜に立つと、じっと目の前に広がる青い海原を見つめている。そしてゆっくりと一歩、また一歩と波打ち際へと歩み寄っていく。ざぱあん、と波が彼女の足元を洗う。その瞬間、彼女の全身から、これまで芳樹が見たこともないような、歓喜と解放感に満ちたオーラが立ち昇った。彼女は故郷に帰ってきたのだ。クトゥルフは、子供のようにはしゃぎながら海の中へと駆け込んでいくと、その巨体で巨大な水しぶきを天高く上げた。その無邪気な姿に、芳樹は思わず笑みをこぼした。
だが、その穏やかな時間は長くは続かなかった。クトゥルフが海の中でその神としての気配を解放したせいだろうか。沖合の水面がにわかにざわめき始めた。そして波の間からぬるり、と一つ、また一つと、奇妙な頭部が姿を現し始めたのだ。それは人間の頭部ではなかった。蛙のように大きく裂けた口、決して瞬きをすることのない魚のような巨大な眼球、首筋で不気味に開閉するエラ。半人半魚、とでも言うべき、冒涜的なる姿の生物の群れ。「深きものども(ディープワン)」。彼らはクトゥルフの姿を認めると、その蛙のような口で、人間には発音不可能な、しかし歓喜に満ちた、奇妙な鳴き声を上げた。「いあ!いあ!父祖、大いなるくとぅるふ様!」「おお、お久しゅうございます!この近くの海底都市『夜啼島』の者でございます!」彼らはクトゥルフの眷属だったのだ。深きものどもの群れは、一直線にクトゥルフの元へと泳ぎ着くと、その周囲でひれ伏すように頭を垂れた。
そのあまりにも冒涜的な光景を前に、平和だったビーチは、一瞬にしてパニックの坩堝と化した。「な、なんだ、あれは!?」「怪獣!?」「さ、魚人間だーっ!」海水浴客たちは、悲鳴を上げながら我先にと陸地へと逃げ惑う。千夏は、その惨状を前に青い顔をしながらも、まだかろうじてその常識を保とうとしていた。「す、すごい……!すっごく、リアルな、着ぐるみの人たち……!きっと、町の観光イベントか何かだよね……?」彼女の脳は、全力で目の前の現実を否定していた。
やがて、深きものどもはクトゥルフの隣に立つ芳樹の存在に気づいた。彼らは一斉にその魚の眼を芳樹へと向ける。そして次の瞬間、彼らは芳樹の前で、これまで以上の最大級の敬意をもってひれ伏した。「おお!こちらにいますは、父祖の伴侶様!」「これは、これは、お初にお目にかかります!どうぞ、我らがささやかなる歓迎の品を、お受け取りください!」一匹の深きものが芳樹の前へと、何かを差し出してきた。それはまだ元気にうねうねと動いている巨大なタコだった。別の深きものが、また別のものを差し出してくる。それは、自ら青白い光を放つグロテスクな深海魚だった。その顎からは、針のような歯が無数に生えている。「ひいぃぃっ!」芳樹は、そのあまりにも生々しい「海の幸」を前に悲鳴を上げる。だが、深きものどもたちの純粋な善意と歓迎の気持ちは止まらない。「伴侶様!退屈でございましょう!我らが、この浜辺でビーチバレーの試合を、お目にかけますぞ!」彼らはどこからかビーチボールを取り出すと、人間には到底不可能な、超人的な身体能力で試合を始めてしまった。彼らが跳躍すれば、その高さは数メートルに達し、彼らがボールを打てば、ボールはソニックブームを発生させながら音速を超えて飛び交う。時折、コントロールを失ったボールが、近くの海の家を木っ端微塵に吹き飛ばしていた。芳樹と千夏は、そのあまりにも危険で、あまりにも迷惑な神々の遊びを、ただ砂浜に座り込み、呆然と見つめていることしかできなかった。
その混沌とした遊戯が最高潮に達したその時だった。ぴたり、と。深きものどもたちの動きが一斉に止まった。あれほどけたたましく響き渡っていた、蛙のような鳴き声が嘘のように鳴り止む。彼らは、まるで、見えざる王の到来を前に、傅く臣下のように、その場にひれ伏した。そして全員が、同じ方向――沖合の水平線を見つめている。それまで賑やかに打ち寄せていた波の音が消えた。海が凪いだのだ。まるで鏡のように静まり返った水面。ぶううううううん、という地鳴りのような低い唸りが、海の底から響き渡ってくる。それは芳樹の骨の髄までを震わせる音だった。
沖合から、濃密な塩の香りの霧が急速に浜辺へと立ち込めてきた。そして霧の向こう、静まり返った海の水面が、まるで巨大な鯨が浮上するかのように、ゆっくりと、そして雄大に盛り上がり始めた。現れたのは、二つの山のように巨大なシルエットだった。一つは、より巨大でたくましく、その全身は、フジツボや太古の珊瑚に鎧のように覆われている。その姿は、半人半魚というよりは、もはや魚類そのものが人間の形を歪に模倣したかのようだった。もう一つは、それよりは少しだけ細身だが、その身から無数の海蛇のような触手をゆらめかせている。その姿は、優雅で、しかしどこまでも冒涜的だった。父なるダゴン。そして母なるハイドラ。深きものどもを統べる、一族の始祖にして神。彼らは、その小山のような上半身だけを海の中から現していた。その決して瞬きをすることのない、巨大な昏い円盤のような瞳が、浜辺の上の、一点をじっと見つめている。彼らの視線の先には、クトゥルフがいた。ダゴンとハイドラは、その海底山脈が動くかのような、緩慢な動作で、彼らの神であり、父祖であるクトゥルフに向かって、ゆっくりと頭を垂れた。声は発せられない。だが芳樹の脳内には、地殻が直接擦れ合うかのような、重く、そして古の響きを持ったテレパシーが届いていた。
《《――御身の目覚め、心よりお慶び申し上げます。我らが主、大いなるくとぅるふ様――》》
そして、その計り知れないほどに巨大な瞳が、今度は、クトゥルフの隣に立つ、ちっぽけな人間――菊池芳樹へと向けられた。芳樹は動けなかった。その視線は、ただ見られているだけで、魂がその絶対的な重量によって圧し潰されてしまいそうだった。千夏は、もはや何も言わない。彼女は、ただ口を半開きにしたまま、その瞳から全ての光を失い、目の前のありえない光景を見つめているだけだった。彼女のか弱い常識は、ついにその臨界点を超えて崩壊してしまったのかもしれない。やがて、ダゴンのテレパシーが再び響く。
《《――そして、主の傍らに立つ、小さき者よ。汝が、主の永劫の孤独を癒やす者か。……我らの祝福を、受けよ――》》
祝福。その言葉と共に、芳樹の足元の砂が、じゅっ、という音を立てて融解し、そして瞬時に、黒いガラス質へと変化した。彼らのその視線が持つ圧倒的なエネルギー。そのほんのごく一部が、このささやかな奇跡(という名の怪奇現象)を引き起こしたのだ。ダゴンとハイドラは、それだけを告げると、再びゆっくりと音もなく海の中へと、その巨体を沈めていった。霧が晴れる。波の音が戻ってくる。まるで全てが白昼夢だったかのように。
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長い長い一日は、やがて終わりを告げた。夕日が水平線をオレンジ色に染め上げる頃。深きものどもたちは、「またいつでも、我らが港町へお立ち寄りください」という丁重な挨拶を残し、再び海の中へと帰っていった。嵐のように賑やかだったビーチには静寂が戻っていた。
芳樹は疲れ果てていた。だが、彼は気づいた。一人波打ち際に立ち、夕日に染まる海をじっと見つめているクトゥルフのその巨大な背中が。いつもよりほんの少しだけ寂しそうに見えることに。彼女は久しぶりに同胞と会えた。だが、彼らは帰っていった。彼女だけをこの陸地に残して。芳樹はゆっくりと彼女の隣へと歩いて行った。そして何も言わずに、ただ彼女と並んで沈んでいく夕日を眺めた。言葉はなかった。だが、芳樹には分かったような気がした。彼女が背負っている計り知れないほどの永い時間と、その孤独のほんの一欠片を。こいつは、ただの迷惑な同居人じゃない。宇宙的恐怖の化身でもない。ただ、ずっと一人で寂しかっただけ、なのかもしれない。芳樹のモノローグは夕凪の風に溶けていった。
その時、彼の足元に、波が、一つの奇妙な貝殻を打ち上げた。それは美しい螺旋を描く巻貝だった。その表面には、人間には理解不能な、しかしどこか数学的な幾何学模様が浮かび上がっている。芳樹は、何気なくそれを拾い上げた。そして耳に当ててみた。潮騒の音が聞こえる。だが、その潮騒の音に混じって。ほんの微かに。誰かの囁き声が聞こえたような気がした。
『…………ふたぐん…………』
それはきっと気のせいだ。芳樹はそう思うと、その貝殻をズボンのポケットにしまった。新たなる冒涜的なる物語の小さな小さな序章が、今彼のポケットの中で静かに産声を上げたことにも気づかずに。