第十四話 夏夜に蠢く星の智慧
最後の花火が夜空に咲き、そして消えた。闇と静寂が一瞬だけ、境内を支配する。祭りの終わりを惜しむ人々の、名残惜しそうなざわめきが、再び地上を満たし始めた。
「……終わっちゃったね」
千夏が少しだけ寂しそうに呟いた。
「ああ……。でも、綺麗だったな」
芳樹は心にもないことを言った。彼の脳裏には、花火の光よりも、その両脇で繰り広げられた、神々の熾烈なアピール合戦の記憶の方が鮮明に焼き付いている。
「さて、そろそろ帰るか」
芳樹が一行を促し、帰路につこうとしたその時だった。ふ、と。周囲の喧騒が遠のいたような気がした。いや、違う。喧騒は続いている。だが、芳樹たちの周りだけが、まるで分厚いガラスで隔てられたかのように、異質な静寂と濃密な空気に包まれていた。
ぞろり、と。人混みの影から何人もの人間が、音もなく現れ、芳樹たちを円形に取り囲んでいた。彼らは皆、揃いの法被を身に纏っている。その背中に染め抜かれているのは、一つの不気味な開かれた瞳の紋章。その瞳は、人間のものではない。それは、まるで爬虫類のようでもあり、昆虫のようでもあり、あるいは遥か深淵の、星辰そのもののようでもあった。彼らの瞳は芳樹たちを見ていなかった。その視線は、芳樹の隣に立つクトゥルフとハスター、そして芳樹の足元で眠たげにしているツァトゥグァだけに、狂信的な熱を帯びて注がれていた。
「……な、なんだよ、あんたら……」
芳樹が警戒しながら声を絞り出す。
すると、その集団の中からリーダー格と思われる痩身の男が、一歩前に進み出た。男は、歳は四十代ほどだろうか。その窪んだ眼窩の奥で、暗い炎のような光が揺らめいている。男は芳樹をまるで存在しないかのように無視すると、神々の前で恭しく、しかしどこか歪んだ動作で、深々と頭を垂れた。
「おお……。おお……!大いなる御方々よ……!」
男の声は、歓喜と畏怖と、そして長年の探求が報われたことへの深い感動に打ち震えていた。
「我らは、『星の智慧教団』!この地に残されし、古の叡智を受け継ぎ、あなた様の降臨を、永きに渡り、待ちわびておりましたぞ……!」
星の智慧教団。その名前に芳樹は聞き覚えがなかった。だが、その言葉の端々から、目の前の男たちが、ただの酔っぱらいやチンピラの類ではないことを、本能的に感じ取っていた。こいつらは、知っているのだ。クトゥルフたちが、ただの「変わった留学生」などではない、本物の人知を超えた存在であることを。だが、その知識は、門倉先輩のそれとは明らかに異質だった。門倉のそれは、あくまで探求者としての好奇心。だが、目の前の男たちのそれは、全てを捧げる対象を見つけた、狂信者のそれだった。
教団のリーダーはゆっくりと顔を上げた。そして、その狂気に満ちた瞳で、初めて芳樹の姿を捉えた。その視線には侮蔑と憎悪と、そして神聖な儀式の前の供物を見るかのような冷たい光が宿っていた。
「……そして、そこにいる穢れたる人間よ」
男は吐き捨てるように言った。
「神々を誑かし、その御力を、己が矮小な欲望のために独占する、不届き者め!」
「はあ!?独占なんてしてねえよ!」
「言い訳は無用!我らは全て視ておりましたぞ!神々の御力を、下劣な遊びに興じさせ、あまつさえ、他の人間と戯れる様を!」
男の言葉に、ハスターの眉がぴくりと動いた。リーダーは再び神々に向き直ると、その両腕を天に掲げ、高らかに宣言した。
「さあ、御方々!我らが聖地にて、暫しお待ちくだされ!この穢れたる人間を、あなた様方への最初の贄として、捧げまする!その魂を喰らい、この地への完全なる降臨の、礎となし給え!」
その言葉を合図に、周囲を取り囲んでいた教団員たちが、法被の懐から一斉に何かを取り出した。それは、黒曜石か、あるいは地球上には存在しない鉱物でできた、儀式用の禍々しい短剣だった。彼らはその切っ先を芳樹へと向け、じりじりと包囲の輪を狭めてくる。
「きゃっ……!」
千夏が短い悲鳴を上げた。彼女は、目の前で起きていることが何かの悪質なドッキリか、あるいはカルト教団の集団幻覚だと、必死に自分に言い聞かせているようだった。だが、その顔は恐怖に青ざめている。芳樹は咄嗟に千夏を自分の背後へと庇った。終わった。そう思った。ナイアーラトテップや、星辰グループのような強大な敵ではない。だが、狂気に支配された人間の集団。それは、ある意味、神々以上に理屈の通じない、恐ろしい相手だった。教団員の一人が奇声を上げながら芳樹へと飛びかかってきた。芳樹は死を覚悟し、固く目を閉じた。
その瞬間だった。それまで、この人間たちの茶番を、どこか退屈そうに、あるいは迷惑そうに眺めているだけだった、三柱の神々が同時に動いた。最初に動いたのはハスターだった。彼は芳樹の前にまるで風のように滑り込むと、襲いかかってくる教団員たちを侮蔑の視線で見下ろした。
「――我が伴侶に、指一本、触れさせるか。下郎どもが」
その静かな一喝。だが、その言葉は物理的な力を持っていた。彼の周囲の空気がぐにゃりと歪む。目には見えない、しかし絶対的な風の障壁がそこに出現していた。飛びかかってきた教団員は、その見えない壁に、まるで鉄の塊にでも激突したかのようにぶつかり、ありえない角度に体をくの字に曲げると、悲鳴を上げる間もなく後方へと猛烈な勢いで吹き飛ばされた。一人、また一人と、壁に、屋台に、神社の木々に叩きつけられていく教団員たち。骨が砕ける、鈍い音が夜の境内に響き渡った。それは、暴力というにはあまりにも一方的で優雅な蹂躙だった。
次に動いたのはクトゥルフだった。彼女は芳樹の腕をその緑色の触腕でそっと掴むと、優しく自分の背後へと引き寄せた。そして、まだ短剣を構えていた残りの教団員たちを、その六つの瞳でただじっと見つめた。声はない。動きもない。だが、それはハスターの物理的な攻撃よりも、遥かに恐ろしく、そして残酷な攻撃だった。彼女の瞳を直視してしまった教団員たち。彼らの精神は、その瞬間、完全に崩壊した。彼らは、見たのだ。彼女の瞳の奥に広がる、真なる宇宙の深淵を。そこには光も、闇も、時間も、空間も存在しない。ただ絶対的な無と混沌だけが、無限に広がっている。星々が生まれ、そして死んでいく永劫の時。銀河が泡のように弾けては消える壮大な虚無。その人知を超えた光景を前に、彼らのちっぽけな人間の自我などあまりにも無力だった。
「あ……ああ……あああああ……」
一人の男が持っていた短剣を取り落とし、自らの頭をかきむしり始めた。
「いあ!いあ!にゃる……ら……と……て……ぷ……」
別の男が、意味不明の冒涜的なる神の名を、涎を垂らしながら呟き始める。
また別の男は、ただ天を仰ぎ、腹の底から狂ったように笑い続けていた。彼らの魂は砕け散った。彼らはもう二度と、元の人間には戻れないだろう。正気を失った彼らは、狂ったように叫びながら、蜘蛛の子を散らすように闇の中へと逃げ惑っていった。
そして最後に。唯一その場に残っていた教団のリーダー。彼はハスターの風の壁にも、クトゥルフの狂気の視線にも屈していなかった。その信仰心が、かろうじて彼の正気を保たせていたのだ。だが、彼の足元で眠たげにしていた黒い毛玉が、心底迷惑そうに、一言呟いた。
「…………うるさい」
それだけだった。だが、その瞬間、リーダーの足元の固いはずの地面が、まるで黒い粘土のように、その性質を変えた。彼の足首がずぶり、と地面に沈む。それは、もはや土ではない。黒く、重く、そして冷たい底なしの沼。
「な……な……!?」
リーダーは必死に足を抜こうとする。だが、沼はまるで生きているかのように彼の体に絡みつき、ゆっくりと、しかし確実にその体を地中深くへと引きずり込んでいく。「た、助け……!がはっ……!」彼の悲鳴は黒い泥に飲み込まれて消えた。やがて彼の姿は完全に地面の下へと消え失せた。そして沼は、まるで何もなかったかのように、再び元の固い地面へと戻っていた。
圧倒的な蹂躙。神々の気まぐれな虫けらの駆除。そのあまりにも恐ろしい光景を、芳樹と千夏はただ呆然と見つめていることしかできなかった。神々は、何事もなかったかのように、いつもの尊大で、無表情で、そして怠惰な姿へと戻っている。千夏は目の前で起きた出来事が信じられないようだった。
「……い、今のって……なに……?すごい、突風と……みんな、急におかしくなって……。気のせい、かな……?」
彼女の脳は、全力で、今起きたありえない出来事に、都合のいい論理的な解釈を与えようとしていた。芳樹は、その彼女のか弱い常識を守るため、必死に嘘をついた。
「ああ、うん……!なんか、すごかったな!きっと、集団ヒステリーか何かだよ!」
帰り道。祭りの後の静かな夜道を、奇妙な一行は黙って歩いていた。芳樹は、隣を歩く神々の横顔を盗み見ていた。怖かった。心の底から、彼らのその底知れない力に恐怖した。だが、それと同時に。彼の心の中には、奇妙な温かい感情が芽生えていた。彼らは、自分を守ってくれたのだ。その動機が、独占欲や所有欲、あるいはただの気まぐれだったとしても。彼らが、本気で自分を守ろうとしてくれた。その事実が、芳樹の心を不思議と満たしていた。こいつらは、ただの迷惑な同居人ではないのかもしれない。そんな考えが、初めて彼の頭をよぎった。
長い夜が終わり、彼らは我が家へと帰還した。家の戸を開けると、リビングの明かりが煌々と灯っていた。そしてその中央で、ミ=ゴが何やら新しい奇妙な機械を組み立てていた。「オカエリナサイ、皆さん。丁度、良イ所ニ。皆サンノ身ノ安全ヲ守ルタメノ、新シイ、自律型防衛ユニットガ完成シマシタ」ミ=ゴが誇らしげに、その機械を指し示す。それは、掃除機と監視カメラと、そして無数の謎の機械腕が融合したような、奇怪な装置だった。そして、その機械の後ろの影から。一つの黒く、不定形で、玉虫色に輝く巨大なスライムのような塊が、ぬるりと姿を現した。その塊のあちこちの表面に、無数の冒涜的な瞳と口が現れては消える。そして、その口々から、合唱のように、あの忌まわしき鳴き声が響き渡った。
「―――テケリ・リ……テケリ・リ……」
ミ=ゴはにこりともせずに(そもそも顔がないが)、その生物を紹介した。「……ショゴス、トイウ名ノ、極メテ優秀ナ、生体部品ヲ使ッテミマシタ」芳樹の平穏な日常は、どうやらまだ底が見えないらしい。