第十二話 その手は星を創る手か
菊池芳樹の家に、新たなる同居人――いや、同居「種族」が加わってから数日が過ぎた。ユゴスより来たる、おぞましき菌類知性体、ミ=ゴ。彼らは、家の裏に広がる鬱蒼とした森の中に、巧みな光学迷彩で隠蔽した円盤型の宇宙船を停泊させ、そこを拠点としながら、毎日のように芳樹の家へとやってきた。
彼らは食事を摂らない。その代わり、自らが培養した特殊な菌類を、まるでゼリー飲料でもすするかのように摂取している。その点においては、食費を圧迫する他の邪神たちよりも、遥かに良心的な同居人と言えた。だが、問題は別のところににあった。
「……今月の、電気代の請求書……」
芳樹は、郵便受けから取り出した一枚の紙を手にわなわなと震えていた。そこに記されていたのは、彼がこれまで見たこともないような、天文学的な数字だった。一般家庭の一年分に匹敵するほどの電気使用量。原因は明らかだった。ミ=ゴたちは、夜な夜な、芳樹の家のガレージのコンセントから何本もの太いケーブルを森の中の宇宙船へと引き込み、その損傷した船体を充電しているのだ。日本の脆弱な送電網から供給される電力は、彼らにとっては乾電池ほどのエネルギーでしかないらしい。だが、その乾電池とてタダではないのだ。
「……あいつら、あとで絶対に請求してやる……」
芳樹は固く心に誓った。
そんな新たな悩みの種を抱えつつも、芳樹の日常には一つのささやかな光が灯っていた。それはガレージでの時間だった。古民家に付属していたその広大なガレージは、芳樹にとって唯一無二の聖域であり、城だった。壁にずらりと並べられた、使い込まれた工具。床に染み付いた、心地よいエンジンオイルの匂い。そして、中央に鎮座する彼の愛車、ヤマハ・SR400。エンジンを分解し、部品を磨き、再び組み上げていく。そのひたすらに没頭できる時間だけが、芳樹をこの狂った日常から一時的に解放してくれた。
その日も、芳樹は愛車のキャブレターの分解清掃に没頭していた。精密な部品を一つ一つ丁寧に布で磨き上げていく。その静かな城に、珍しい客が訪れた。ミ=ゴの一匹が、音もなくガレージの入り口に立っていたのだ。芳樹は一瞬身構えた。こいつらいまだに俺の脳を狙っているんじゃないだろうか、と。だが、ミ=ゴはただ、その菌類の頭部から生えた無数の触角を興味深そうに震わせながら、芳樹の手元をじっと見つめているだけだった。やがて、その首元の翻訳機から電子音声が響いた。
「……ソレハ、化石燃料ヲ霧状ニシテ、空気ト混合サセルタメノ、原始的ナ装置デスネ」
「……まあ、そういうことになるかな」
芳樹はぶっきらぼうに答える。ミ=ゴはゆっくりと芳樹の隣にやってくると、分解されたキャブレターの部品を、その多関節の昆虫のような指先で器用につまみ上げた。「……非効率的デス。コノ部品ヲ、プラズマ噴射式ニ改造シマセンカ?燃料ヲ、分子レベルデ分解シ、完全燃焼サセルコトガ可能トナリマス」
「ぷ、プラズマ!?」
芳樹は思わず素っ頓狂な声を上げた。ミ=ゴは何も言わずに、その指先から小さな光の粒子を放出した。光は空中に複雑な三次元の設計図をホログラムとして投影する。そこには、芳樹のSR400のエンジンに未知のテクノロジーが融合した、彼の理解を遥かに超えた、しかし技術者として心の底からワクワクさせられるような、夢の設計図が描かれていた。
芳樹は最初は警戒していた。だが、彼の工学部学生としての、そして一人の機械好きとしての魂が、目の前の未知なるテクノロジーの誘惑に抗うことはできなかった。「……こ、ここの、エネルギー循環回路……。すごい……。でも、このバイパス、もっとこうすれば効率が上がるんじゃ……?」彼はいつの間にか恐怖を忘れ、油に汚れた指で空中のホログラムをなぞりながら、ミ=ゴと技術的な議論を交わし始めていた。言葉は通じない。種族も、常識も、何もかもが違う。だが、一つの機械を前にした時、彼らはただの「技術者」として完璧に意思の疎通をすることができたのだ。
その日から、夜な夜なガレージでは、一人の人間と一匹の異星人による、奇妙な共同作業が繰り広げられるようになった。芳樹の愛車は、日を追うごとにその姿を変えていった。見慣れた鉄のフレームには、青白い光を放つ未知のエネルギー伝導管が張り巡らされ、エンジンのシリンダーは、ミ=ゴが提供した、虹色に輝く宇宙合金で補強された。それはもはや、ただのバイクではなかった。地球の技術とユゴスの科学が融合した、唯一無二の芸術品へと生まれ変わりつつあった。
その奇妙で、しかし芳樹にとっては至福の時間。その光景を、家の縁側からじっと見つめる一つの影があった。クトゥルフだ。彼女は何も言わない。ただ、その六つの瞳で、ガレージの中で目を輝かせながら異形の菌類と交流する芳樹の姿を、静かに見つめているだけだった。その瞳に、どのような感情が宿っているのか、芳樹にはまだ知る由もなかった。
その夜も、芳樹はミ=ゴとの共同作業に完全に没頭していた。今夜の議題はブレーキシステム。ミ=ゴは反重力を利用した、慣性制御ブレーキを提案していた。「なるほど、つまり、運動エネルギーを一時的に亜空間に逃がすってことか……。すげえ……!」芳樹が興奮気味にスパナを手に取ったその時だった。ふ、と。ガレージの入り口に巨大な影が差した。それまで工具の音と、ミ=ゴの電子音、そして芳樹の楽しげな声で満たされていたガレージが、水を打ったように静まり返る。クトゥルフが音もなくそこに立っていた。
彼女はゆっくりと中へと入ってくる。ミ=ゴは彼女の姿を認めると、その菌類の体をわずかに後退させた。科学では解明できない、絶対的な上位者への本能的な畏怖。クトゥルフはそんなミ=ゴには目もくれない。彼女の六つの瞳は、ただ一点。芳樹の、その手だけをじっと見つめていた。そして彼女は、ぬるりと一本の触腕を伸ばすと、芳樹が握りしめていたスパナを、無言で取り上げた。
「な、何するんだよ!」
芳樹が驚いて声を上げる。クトゥルフは答えない。彼女は、その触腕で鉄製のスパナを、まるで未知の生物でも観察するかのように、じっと見つめている。そして、その視線を、スパナから、芳樹の油に汚れた手へ、そして部屋の隅で固まっているミ=ゴへとゆっくりと移した。その瞬間、芳樹の脳内に、嵐のような、しかし言葉にはならない断片的な感情の奔流が流れ込んできた。それは冷たい、寂しい感覚。自分の知らないもので盛り上がっている疎外感。芳樹の、あの目を輝かせている姿。その情熱。それが自分以外の、何か得体の知れない菌類に向けられているという事実。そして最後に、たった一つ、明確な言葉。
《…………面白くない…………》
それは、芳樹が彼女と出会ってから、初めて明確に感じ取ったクトゥルフの「嫉妬」という感情だった。宇宙的恐怖の化身。旧支配者。人類の理解を超えた絶対的な存在。その神が今、目の前で、まるで飼い主の気を引こうとするペットのように、あるいは恋人の心移りを静かに、しかし深く悲しんでいる。芳樹は、そのあまりにも人間的で、あまりにも純粋な感情の奔流に、ただ打ちのめされていた。恐怖はなかった。ただ、なぜか胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、温かい痛みがこみ上げてくるだけだった。
彼は、気づけば手を伸ばし、クトゥルフの巨大な頭部(らしき場所)をぽんと優しく撫でていた。そして、まるで拗ねた子供に言い聞かせるかのように、無意識のうちに呟いていた。
「……大丈夫だよ。俺にとっては、お前が一番だから」
その言葉に、クトゥルフの六つの瞳がほんのわずかに大きく見開かれたように見えた。彼女は、芳樹の手から奪ったスパナを、ことりと静かに床へと置いた。
その奇妙で、そしてどこか甘酸っぱい沈黙を切り裂いたのは、けたたましい電子音だった。ジリリリリリリリ!芳樹のポケットの中のスマートフォンが、着信を告げていた。彼ははっと我に返ると、慌てて電話に出る。「も、もしもし!?」
『あ、菊池くん?夜にごめんね!』
電話の向こうから聞こえてきたのは、相田千夏の明るい声だった。『あのね、ちょっと早いんだけど、今度の週末の、赤紫神社の夏祭り、もしよかったら一緒に行かないかなって……』
「な、夏祭り……?」
そのあまりにも平和で、あまりにも日常的な響きを持つ単語に、芳樹の脳は、まだうまく順応できない。だが、その単語は、芳樹の背後にいた、別の神の耳にははっきりと届いていたようだった。「――夏祭り、だと?」いつの間にか、ガレージの入り口に、ハスターが腕を組んで立っていた。彼は電話の内容を地獄耳で聞いていたのだ。「フン、下賤な人間の祭りか。だが、我が伴侶が行くというのであれば、この王たる私も、寛大にも同行してやろうではないか!」
その尊大な割り込みに、芳樹が「いや、お前は誘ってない!」と叫ぶよりも早く。彼の着ていた作業着の裾が、くい、と後ろから、優しく、しかし決して離さないという強い意志を持って引かれた。振り返ると、そこにはクトゥルフが、その緑色の触腕の先で芳樹の服の裾をそっと掴んでいた。彼女は何も言わない。だが、その六つの瞳は雄弁に、そして力強くこう語っていた。――私も行く、と。
芳樹はスマートフォンを握りしめたまま、ただ天を仰いだ。彼のささやかな夏の終わりの思い出は、どうやらとてつもなく混沌としたものになるらしい。その不吉な、しかしどこか賑やかな予感だけが、彼の頭の中を支配していた。




