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ああっくとぅるふ様っ!  作者: ろくさん
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第十話 混沌のキャンパスライフ


 赤紫大学の学長室は、菊池芳樹がこれまで足を踏み入れたどんな場所よりも、重厚で、荘厳で、そして居心地の悪い空間だった。

 床には、深紅の絨毯が敷き詰められ、壁には、歴代の学長たちの、いかにも偉そうな肖像画がずらりと並んでいる。芳樹が座らされた、上質な本革のソファは、彼の体を柔らかく受け止めるというよりは、むしろ、その身分不相応な侵入者を飲み込もうとしているかのようだった。

 そして、彼の正面。巨大なマホガニーの机の向こう側で、この大学の最高権力者である学長が、満面の笑みを浮かべて座っている。

「いやあ、菊池くん。君には本当に感謝しているのだよ」

 柔和な、しかし、有無を言わせぬ響きを持った声。芳樹は、背筋を流れる冷たい汗を感じながら、ただ、引きつった笑みを返すことしかできない。

「は、はあ……。いえ、俺は、何も……」

「謙遜したまえ! 我が校が推進する、真のグローバリゼーションとダイバーシティ……その象徴とも言える、素晴らしい留学生たちを、君は連れてきてくれた! 特にあの、緑色の肌をした、エキゾチックでパワフルな彼女と、ヨーロッパの王侯貴族を彷彿とさせる、カリスマ性に満ちた彼! 彼らこそ、我が校の新たな顔となるべき存在だ!」

 学長は完全に勘違いをしていた。

 クトゥルフとハスターのことを、どこかの国の非常にユニークで、非常に優秀な交換留学生だと思い込んでいるのだ。

 そして、その勘違いは芳樹にとって最悪の方向へと暴走を始める。

「そこでだ、菊池くん。今週末に行われる我が校のオープンキャンパス……未来ある高校生たちに、我が校の魅力を伝える、年に一度の祭典だ。そこでぜひ彼らに、大役を任せたいのだよ!」

「……大役、ですか」

 嫌な予感しかしない。芳樹の胃が、きりきりと痛みを訴え始めた。

「うむ! 彼らに、我が校の国際交流のシンボルとしてイベントの顔となってもらいたい! キャンパスツアーの案内役や、クラブ活動の体験入部、そして、メインイベントである歓迎スピーチを、ぜひ、お願いしたいのだ!」

 芳樹は、頭が真っ白になった。

 あの、宇宙的恐怖の化身と、尊大なる混沌の王に、オープンキャンパスの顔を? 正気か?

 だが、学長の、純粋な善意と期待に満ちた瞳を前に、芳樹は「いや、実は彼らは、人類を破滅に導きかねない邪神でして…」などと、言えるはずもなかった。

 彼は、ただ、力なく、頷くことしかできなかった。

「……わかり、ました……。二人には伝えておきます……」

 その返事に、学長は、心の底から満足したように深く頷いた。

 芳樹の平凡で、ささやかで、そして最後の砦だったはずの大学生活は、この日、完全に終わりを告げたのだった。


 オープンキャンパス当日。

 空は、芳樹の心の内を嘲笑うかのように、どこまでも青く澄み渡っていた。

 芳樹は、朝から続く、猛烈な胃痛に耐えながら、二柱の神のお目付け役として、高校生たちでごった返すキャンパスの中を、亡霊のように彷徨っていた。

 そして、神々はそれぞれの持ち場でその恐るべきポテンシャルを遺憾なく発揮していた。


 クトゥルフが担当したのは、「キャンパスツアー」だった。

 彼女は、十数名の、期待に胸を膨らませた高校生たちを率いて、広大なキャンパスを、その巨体で、ゆったりと練り歩いている。認識阻害の力は、今日も完璧に機能しており、高校生たちの目には、彼女は「緑色の肌をした、ものすごく背が高くて、グラマーで、少しミステリアスな留学生のお姉さん」として映っているようだった。

 彼女は、一切、言葉を発しない。

 だが、その説明は、参加者全員の脳内に、直接、テレパシーで送り届けられていた。

 文学部の校舎の前で、彼女は立ち止まる。


《――この学び舎は、かつて、名状しがたい生物たちが跋扈する、禁断の沼地であった。今も、その地下深くには、人間の知的好奇心という名の狂気を喰らう、古きものが、眠っている》


 図書館の前で、彼女は天を仰ぐ。


《――この知の殿堂に集められし書物は、宇宙の真理の、塵芥にも満たぬ写本に過ぎぬ。真の知識は、星々の彼方、暗黒星雲の図書館にこそ、存在する》


 体育館の前で、彼女は嘆息する。


《――若き人間たちが、矮小な肉体を鍛え、儚い勝利に歓喜する。だが、真の強さとは、己の魂が、宇宙的真実を前にしても、砕け散らぬことにある》


 その、あまりにも壮大で、あまりにも冒涜的なナレーションを、高校生たちは、もちろん、理解できていない。

 だが彼らは、その魂で感じていた。

「な、なんだか、すごい……」「言葉は分からないけど、この大学の、歴史の重みみたいなのが、ビンビン伝わってくる……」「この人、すごいオーラだ……!」

 彼らは、クトゥルフの神威を、大学の「格」と「伝統」として誤認し、ただただ、感銘を受けていた。

 クトゥルフのキャンパスツアーは、結果として、参加者満足度ナンバーワンという、驚異的な評価を叩き出した。


 ハスターが担当したのは、「演劇サークルの体験入部」だった。

 彼は、いつものように、黄色の豪奢な衣服を纏い、薄暗い稽古場のステージの中央に、ただ、立っていた。

 それだけで、そこにいた全ての人間が、彼に魅了されていた。

 体験入部にやってきた演劇好きの高校生も、サークルの現役部員たちも、誰もが、彼の、王の如き存在感に、息を呑んでいる。

 サークルの部長が、緊張した面持ちで、彼に即興劇のテーマを告げた。

「え、ええと……では、ハスターさん……。テーマは、『失われた王国』で、お願いします」

 ハスターはそのテーマを聞くと、ふと、自嘲するような笑みを浮かべた。

 そして、彼は語り始めた。

 それは、日本語ではなかった。おそらくは、太古のヒアデス星団で話されていた、呪われた言語。

 だが、その言葉の意味など、些末な問題だった。

 彼の声は、喜び、嘆き、怒り、そして絶望し、その全ての感情が、聴く者の魂を、直接揺さぶる。彼は、星々を支配した王の栄光を、その孤独を、そして、自らの王国が、深淵に沈んでいく様を、その全身全霊で、演じきった。

 その、わずか数分間の独白が終わった時。

 稽古場は、水を打ったように、静まり返っていた。

 そこにいた誰もが、涙を流していた。

 やがて、一人の女子高生が、まるで夢から覚めたように、叫んだ。

「……一生ついていきます!」

 その一言を皮切りに、稽古場は、熱狂と興奮の渦に包まれた。

「陛下!」「我らが王!」「ファンクラブを、作らせてください!」

 ハスターの、赤紫大学における、絶対王政は、この日、この瞬間、ここに、樹立された。


 そして、ツァトゥグァ。

 芳樹が、家の炬燵から、無理やり引きずり出してきた彼は、学生ラウンジの、一番ふかふかしたソファの上に、ただ、置かれていた。

 彼は、何もしない。ただ、黒い毛むくじゃらの塊となって、時折、むにゃ、と寝返りを打つだけだ。

 だが、その、謎に満ちた存在が、高校生たちの間で、口コミとSNSを通じて、爆発的な人気を博していた。

『赤紫大のラウンジにいる、謎の黒いモフモフ、マジやばい』

『ゆるキャラ? 名前はまだないらしい』

『触ると、なんか、全てのやる気が吸い取られる気がするけど、そこがいい』

『#赤紫大学 #謎のマスコット #つぁとぅー(仮)』

 いつの間にか、ツァトゥグァが置かれたソファの前には、彼と一緒に写真を撮ろうとする、高校生たちの長蛇の列ができていた。

 彼は、そんな人間たちの喧騒など、全く意に介さず、ただ、幸せそうに、眠り続けているだけだった。


 やがて、全てのイベントが終わり、オープンキャンパスの、最後のメインイベントが始まろうとしていた。

 大学の大講堂で開かれる、「在学生と留学生による、ウェルカム・スピーチ大会」。

 満員の高校生と、その保護者たち。そして、大学の教授陣が見守る中、壇上には、まず、ハスターが上がった。

 彼は、シェイクスピアの一節を引用しながら、大学で学ぶことの意義を、情熱的に、そして演劇的に語り、満場の拍手喝采を浴びた。

 そして、いよいよ、大トリ。

 クトゥルフが、その巨体で、ゆっくりと、演台の前へと進み出た。

 会場が静まり返る。誰もが、あのミステリアスな緑色の留学生が、一体何を語るのか固唾を飲んで見守っていた。

 クトゥルフはマイクの前に立つと、何も言わずに、ただ、目を閉じた。

 声は、発せられなかった。

 だが、メッセージは、そこにいる、全ての 人間の脳内に、直接、送り届けられた。

 それは、歓迎の言葉では、断じてなかった。

 それは、遥か太古より伝わる、冒涜的なる、神託。


《――聞け、束の間の支配者、人間の子らよ》

《いずれ、星辰の時が、正しき位置に来たならば》

《太平洋の底より、我が夢の都、ルルイエは、浮上するであろう》

《その時、世界は、古き神々の支配へと還り、汝らの矮小な理は、歓喜と狂気の中に、溶解するのだ》

《その日を、待て。そして、備えよ。さすれば、汝らの魂にも、永遠の眠りが、与えられるであろう……》


 その、壮大で、荘厳で、そして、終末的なビジョン。

 会場にいた誰もが、その言葉の、本当の意味を、理解できていない。

 だが、彼らの魂は、その、あまりにも巨大なスケールのメッセージに、根源から、揺さぶられていた。

 それは、恐怖か。畏怖か。あるいは、歓喜か。

 人々は、なぜか、涙を流していた。

 やがて、一人の高校生が立ち上がって、拍手を送った。

 それは、瞬く間に、会場全体へと伝播し、嵐のようなスタンディングオベーションへと変わっていった。

 最前列で見ていた学長は、その老いた顔を、感動の涙で濡らしながら、隣の芳樹の肩を強く叩いた。

「……素晴らしい……! なんという、感動的なスピーチだ、菊池くん……! 『いずれ星辰の時が来たならば』……! それは、若者たちが困難を乗り越え、社会へと羽ばたいていく、その輝かしい未来の、なんという、壮大な比喩表現であろうか……! 我が校の未来は、明るいぞ……!」

 芳樹は、もはや、何も言うことができなかった。

 彼はただ、遠い目をしながら熱狂に包まれる会場を見つめていた。


 オープンキャンパスは、歴史的な大成功に終わった。

 クトゥルフとハスターは、赤紫大学の伝説的な有名人となった。

 そして、菊池芳樹は「あの、ものすごい留学生たちを、影で支える、ものすごい苦労人」として、別の意味で学内にその名を知られることになった。

 芳樹のモノローグだけが、誰に聞かれることもなく、彼の心の中で虚しく響いていた。

(……もう、だめだ……。俺の、平凡な大学生活は……完全に、跡形もなく、終わった……)


 疲れ果てて、我が家へと帰還した芳樹。

 だが、彼を待ち受けていたのは安らぎの我が家ではなかった。

 古民家のその広い庭の真ん中に。

 見慣れない、運送会社のトラックが一台停まっている。

 そして、その荷台にはおびただしい数の冷却パイプと、不気味な紋章が描かれた巨大な金属製のコンテナが鎮座していた。

 コンテナの側面には、一枚の送り状が貼り付けられている。

 芳樹はその奇妙なミミズが這ったような文字をなぜか読むことができた。


 【お届け先】地球、日本、赤紫市、菊池芳樹 様

 【送り主】冥王星、ユゴス星間貿易

 【品名】研究用サンプル(脳髄シリンダー詰め合わせ)


 新たなる混沌の予感が秋の夜風に乗って芳樹の頬を冷たく撫でていった。



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