第一話 間違い電話は混沌の味
菊池芳樹の日常とは、限りなく透明に近い退屈でコーティングされた、灰色のゼリーのようなものだった。
赤紫大学工学部、その巨大な階段教室の後方に座る彼の耳に、老教授の口から紡がれる熱力学第二法則に関する単調な説法は、もはや意味のある音の連続として届いてはいなかった。それはまるで、遠い星から届く、意味を失った宇宙マイクロ波背景放射のようなものだ。窓の外では、九月の終わりの太陽が、まるで燃え尽きる寸前の恒星のように力なく輝き、グラウンドの隅ではアメリカンフットボール部員たちの怒号が、時折、蚊の羽音のように微かに聞こえてくる。
「……エントロピーは常に増大する……不可逆な過程であり……」
エントロピーが増大する。その言葉だけが、奇妙なリアリティを持って芳樹の鼓膜を揺らした。まさしく、この講義そのものが、秩序から混沌へと向かう熱力学的な死の実演に他ならなかった。彼の隣の席の学生は、すでに意識という秩序を手放し、混沌たる眠りの海に沈んで久しい。芳樹は、そんなカオスの一部になることをかろうじて拒絶し、ノートの隅に愛車であるヤマハSR400の、理想的なカスタム案を精密なタッチで描きつけていた。シングルエンジンの鼓動、クロームメッキの輝き、無駄を削ぎ落としたフレーム。それだけが、この灰色のゼリーの中で唯一、芳樹の心を躍らせる確かな存在だった。
講義の終わりを告げるチャイムは、まるで救済のラッパのように鳴り響いた。解放された学生たちが、まるでダムから放流される濁流のように廊下へと溢れ出す。喧騒、サークルの勧誘、友人たちの弾むような笑い声。それら全てが、芳樹にとっては磨りガラスの向こう側で起きている出来事のようだった。誰と約束があるでもなく、彼はその流れに逆らうようにして、大学の隅に追いやられた男子寮への道を一人、歩く。
「赤紫寮」と古風な木製の看板が掲げられたその建物は、芳樹の日常を象徴するかのような、くたびれたコンクリートの塊だった。六畳一間、共同のトイレと風呂。鉄製の軋むベッドと、教科書やバイク雑誌が雪崩を起こしかけているスチールラック。そこが彼の世界の全てだった。
部屋に戻った芳樹は、鞄を放り出し、ベッドに倒れ込む。しん、と静まり返った部屋に、壁一枚を隔てた隣室から、オンラインゲームに興じる先輩の歓声が微かに聞こえてくる。孤独ではない。だが、繋がりもない。そんな宙吊りのような感覚が、腹の底から湧き上がる虚腹感と奇妙にリンクする。
「……腹、減ったな……」
呟きは、誰に聞かれることもなく、天井の染みに吸い込まれて消えた。冷蔵庫を開けても、中身は数日前に賞味期限が切れた牛乳と、干からびかけたネギだけ。買い出しに行く気力もない。いつものコンビニ弁当か、カップ麺か。そんな選択肢が脳裏をよぎった時、ふと、寮の掲示板に貼られていた、一枚の色褪せたチラシを思い出した。
『出前迅速! そば処 きくち庵』
偶然にも自分と同じ苗字の、近所のそば屋。確か、天ぷらそばが美味いと評判だったはずだ。
「よし、今日は贅沢だ」
芳樹は、ささやかな豪遊を決意し、スマートフォンを手に取った。指先で「赤紫市 きくち庵」と検索すると、すぐに一件の電話番号がヒットする。彼は、その番号を、何の疑いもなくタップした。
コール音は三回。そこで電話は繋がった。だが、スピーカーから聞こえてきたのは、「へい、お待ち!」という威勢のいい店主の声ではなかった。
それは、静かで、重々しく、まるで深海の底から響いてくるような、性別のない声だった。
『――はい。こちら『お助け旧支配者事務所』。いかなる願いも、一つだけ』
「……え?」
芳樹の思考が、一瞬停止する。聞き間違えだろうか。滑舌の悪い店員さんだろうか。
「あの、すみません。そば屋の、きくち庵さん……じゃないですか?」
『キクチアン、と。左様、お客様の魂の周波数に刻まれた因果律の名称と一致を確認いたしました』
「はあ? 周波数? カルマ?」
意味が分からない。これは手の込んだイタズラ電話か、あるいは何かの宗教の勧誘か。芳樹は急速に面倒くさくなり、通話を切ろうと指を画面に滑らせた。
「あ、もういいです!間違えましたんで!」
『お待ちください、お客様』
声のトーンは変わらない。だが、その静かな言葉には、有無を言わせぬ奇妙な圧があった。
『お客様の魂より発せられる強い欲求の波長――飢餓感、孤独感、そして性的渇望のノイズを確かに受信いたしました。座標は特定済み。契約履行のため、ただちにお伺いいたします』
「はあ!? 来なくていいです!っていうか誰だよあんた!」
芳樹が叫ぶのと、一方的に通話が切られたのは、ほぼ同時だった。
ツー、ツー、という無機質な電子音が、静かな部屋に虚しく響く。
「……なんだよ、今の……気味悪い……」
背筋に、冷たい汗が流れるのを感じた。しかし、それも一瞬のこと。芳樹は「まあ、ただの変なイタ電だろう」と無理やり自分を納得させ、べたつく体を洗い流しに、共同のシャワー室へと向かった。熱いシャワーを浴びれば、奇妙な電話のことなど忘れてしまうだろう、と。
シャワーを終え、腰にタオルを一枚巻いただけの姿で部屋に戻った芳樹は、異変に気づいた。
部屋の隅に立てかけてある、安物の全身鏡。その表面が、まるで水面のように、ぶよぶよと波打っているのだ。
「え……?」
地震か? いや、揺れているのは鏡だけだ。
鏡面は、不健康な緑色の粘液のように、ゆっくりと渦を巻いている。それは、既知のどんな物理法則からも逸脱した、悪夢的な光景だった。芳樹が金縛りにあったように動けずにいると、次の瞬間、その緑色の水面から、ぬるり、と巨大な触腕が一本、現実世界へと這い出てきた。
粘液を滴らせながら、それは鏡の木製のフレームを掴む。ミシリ、と安普請な木材が、ありえないほどの重量に軋む音を立てた。
一本、また一本と、次々に伸びてくる触腕。そして、ついに、鏡の中から「それ」は、その冒涜的な全身を、この六畳一間の学生寮へと押し出してきた。
それは、人間の理解を超えた、混沌そのものの顕現だった。
身長は三メートルを優に超え、天井にぶつかった頭部は、まるでタコかイカのような軟体動物のそれに似ていた。だが、そこにあるべき瞳は、一つや二つではない。ぬめりを帯びた緑色の顔面に、大きく、そして昏く光る六つの瞳が、それぞれバラバラの方向を向き、芳樹を、部屋を、この世界そのものを「観測」している。顎のあたりからは、無数の細い触腕が、まるで冒涜的な髭のようにうごめいていた。
ぬらぬらと濡れたゴム状の皮膚は、鱗とも腫瘍ともつかない凹凸に覆われ、その色は病的な緑色から、泥のような茶色へと、見る角度によって不気味に変化する。巨大な鉤爪を備えた手足。二本の足の間には、水かきのような皮膜が張られている。
部屋が、軋む。床が、沈む。
鼻をつくのは、ただの磯の香りではなかった。それは、数億年の間、深海の底に沈殿していた澱と、遥か彼方の暗黒星雲の塵芥を混ぜ合わせたような、魂を直接蝕む匂いだった。
芳樹の脳は、目の前の現実を認識することを拒絶した。彼の平凡な日常を構成していた物理法則、常識、理性、その全てが、このありえない侵略者の前では、あまりにも脆い砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。
彼の喉から、もはや悲鳴とも呼べない、魂が引き裂かれるような音が迸った。
「あああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
SAN値チェック、失敗。
芳樹の脳内に、声が、直接響き渡った。それは、あの電話の声だった。だが、スピーカー越しに聞いた時とは比較にならないほど、重く、古く、そして広大だった。まるで、宇宙そのものが、彼一人のために語りかけてくるかのようだ。
《――我を呼びし者よ。さあ、願いを言え。世界の富か、破滅か。汝の望むままに、一つだけ叶えよう》
食われる。
殺される。
あるいは、この存在を直視しただけで、気が狂って死ぬ。
死の恐怖が、芳樹の思考を支配する。だが、その極限の恐怖の中で、彼の脳裏をよぎったのは、あまりにも情けなく、あまりにも人間的な、一つの後悔だった。
(――死にたくない、死にたくない!っていうか、このまま、童貞で死ぬのだけは、絶対に嫌だあああああああっ!)
思考が、ショートする。パニックで目の前が真っ白になる。
何か、何か願わなければ。そうだ、電話は、そば屋の出前を頼もうとしたことから始まったんだ。
「そ、そば! そばの出前を! いや、違う! こんな時に食い物のこと考えてる場合か!」
そばにいてくれれば、助かる? 誰か、誰でもいいから、そばにいてくれ! いや、そうじゃない!
混乱した思考が、支離滅裂な言葉となって、彼の口からほとばしる。
「ずっと(出会いがなくて寂しかった…あ、出前の)そば(を頼もうとしただけなんだ、童貞卒業するまで)にぃ(協力し)てほしいいいいいいいいっ!!」
それは、願いと呼ぶにはあまりにも支離滅裂で、助けを求める悲鳴に限りなく近い、魂の絶叫だった。
静寂が、部屋を支配した。
六つの瞳を持つ冒涜的な神は、芳樹のその言葉を、厳粛に、そして静かに受け止めたようだった。やがて、その広大な声が、再び芳樹の脳内に響き渡る。
《――契約、成立した。汝の願い、聞き届けた。我は、永劫に汝のそばに在ろう》
「…………え?」
芳樹が、タオル一丁で、呆然と立ち尽くす。
その時、部屋のドアが、ドン、ドン、と荒々しくノックされた。
「菊池くーん! さっきからすごい叫び声が聞こえるけど、一体何事かね!? 大丈夫かーっ!?」
寮長の、苛立ちと心配が入り混じった声。
部屋の中には、天井に頭をぶつけながら、静かにこちらを見つめる、冒涜的な邪神。
絶望的な状況。
芳樹のモノローグだけが、やけに冷静に、この記念すべき日の終わりを告げていた。
(こうして、俺の平凡な日常は、なんか、ぬるっと終わった)