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作者: 樅木 霊

 まだ誰もいない研ぎ澄まされた教室に柔らかな朝陽が差し込む。眼鏡の表面で(おぼろ)げに光る細かな(ほこり)が気になった。大きく湾曲したプラスチックは世界をこぢんまりと歪ませて、僕にチューニングを合わせた知覚を与える。クリーム色のカーテンが(まばゆ)さに(にじ)んでしまうのは、その越えられない隔たりを実感させるのに役立った。


 さほど長くもない通学路であったが、ここぞとばかりに労いを込めて、重たいスクールバッグを下ろしては横柄に自席に座ってみせる。早朝の教室だけは僕を自由にした。ここで吸い込んだ酸素を燃料に、また明日まで潜水して泳ぎ抜く。誰からも干渉されない時間は息継ぎのために必要だった。下駄箱、机の中や脇のフック。これらはずっと前から使わないことにしている。その代わりに寿司詰めになっているのがロッカーだ。使用には立体パズルを解くような思考力と忍耐力が要る。──496。ダイヤル式の南京錠を外して、外履きや教科書を押し込んだ。伽藍堂(がらんどう)の廊下に簡単に響き渡る金属音が心地よかった。


 七時を回ってすぐの職員室には、教師でさえ数名しかいない。僕は必ず扉の前で呼吸を整えて、生徒手帳を取り出した。そこに書かれたルールに則り、四回のノックをし、例文の文言に自分の名前を入れて読み上げるためだ。


「一年二組の高平(たかひら)です。教室の鍵を取りに来ました。入室してもよろしいですか。」


 変声期に差し掛かった声を放り投げるのは手続き的な儀式である。どうせ言い終わるころには学年主任の内田(うちだ)先生が、(かす)れた低い声の挨拶と一緒に、目当ての鍵を渡してくれるのだ。それが早く登校するようになってから毎朝、滞りなく行われていた。けれども、今朝は教頭と名前も知らない数人の大人だけが職員室にいて、煩わしいほどに極めて早く登校する僕に対して驚いている様子であった。入室してよいかと尋ねたのは、許可をもらうためではなかったから、「どうぞ」と言われても返事は遅れた。久しぶりに入る職員室は視線が痒い。非常識な時間に登校していることを(いぶか)しげに見られている気がするのは、僕にもその自覚があるからだ。大量の鍵が並べられている壁際までせっかちに歩くなかで、最小限の動きで内田先生の白髪が見当たらないことを確かめた。

 内田先生はいつも、僕の登校よりも前に教室のある生活棟を巡回して、各階の廊下の窓を少しずつ開けておいてくれる。もちろん今日はそれもまだだったから、締め切られた十月初めの校舎は、昨日の粗野な中学生たちの残り香がじっくりと蒸され、生乾きの幼稚な臭いを(はら)んでいた。不思議なもので数分経っただけでそんな悪臭にも慣れつつあったが、ロッカーを開けたとき、廊下に響いた反響音がいつもより大きかったことで、改めて気になった。特にやることもないから窓くらい開けておこう。手を伸ばしても少しだけ届かない高さにある錠は、僕の低身長を嘲笑っているようで僅かに悔しい。なんとかジャンプして安物のクレセント錠を引っ掻く。窓はきっちりいつもと同じくらいの幅になるように開けた。

 狙いが定まらず何度かジャンプをしたせいで、窓から校庭がちらりと見えた。今日は金曜日。朝練があるのは陸上部とソフトテニス部、それからサッカー部だ。この時間であれば、意欲的な生徒が(まば)らに集まって、そろそろ始めようかなんて話している頃だろう。一時間もすれば僕を中傷するであろう彼らも、もしやそこにいるのかもしれない。少しだけ気になる。しかし、窓の高さが目の高さとほとんど変わらないため、確かめるには背伸びをし続けなくてはいけない。さらに、入学式の前にレンズを替えたばかりの眼鏡も、例年通りすっかり度が弱くなってきているから、この三階からではレンズを眼に押し当てるようにするしかない。そんな必死になってしまう姿は(いささ)か間抜けに感じて、大袈裟(おおげさ)に息を吐いてからやめておくことにした。


 跳躍による開錠のコツを掴んで、ちょうどこの階のすべての窓を開け終わるとき、階段を重々しく登るバランスの悪い足音がした。右足を引き摺って歩く内田先生のものだ。先生がいつもやっている仕事に気が付いて、それを手伝ったというのは、優等生然とし過ぎている行為だと意識される。このまま会ってしまうのは決まりが悪く思えた。巣穴に戻る小動物の如く、(せわ)しい足取りで教室に戻り、一生懸命に本を(ひら)く。唯一机に置いておいた、一限の理科の教科書だ。内田先生が担当の英語ではなくてよかった。文字なんて一文字も追えず、ひたすらにパラパラと(ページ)を捲る指は震えている気がした。鼓動は近づいてくる足音に比例して大きくなる。教科書の中に顔を埋め込むようにしたままで、カラカラと扉が開いても顔は上げなかった。


天音(あまね)さん、おはよう。君が窓を開けてくれたのかい?ありがとうね。」


 内田先生は生徒全員を下の名前で呼ぶ。親の品性が知れるようで、不要に女々しい自分の名前はあまり好きではない。やたらと家庭での自分が想起されるせいで、学校での塑像(そぞう)を崩してしまいそうになることも、常に注意を払う必要がある。僕は文字にならない声で控えめに肯定しつつ、食い入るようにやったこともない実験の結果を読み込む。勉強に明け暮れて他のことになど興味のない風を装うことに終始した。そうやって可愛くない子どもで居続けようとしても、内田先生は朗らかな調子だ。今日は朝から猫がコーヒーを零してしまって遅れただとか、いつも換気しているのに気づいてくれていたことは嬉しいだとか、滑らかに話し続けるので、まったくそちらを向かないままでいられもしなかった。そして、見たこともないスポーツブランドのウインドブレーカーを着た中年男性と初めて目が合ったとき、互いに手持ちにあった言葉を一度飲み込んだかのような、ほんの少しの真空が生じる。


「いつも早く来ていて、一人でしたいことだってあるよね。邪魔してごめんね。」


 半分笑って言ったその声色は、より一層まろやかで秋めいていた。スタンドアップコメディみたいなジェスチャーと合わさると、僕には「どうしてこんなに早く来ているか説明しろ。」という詰問を誤魔化しているように感じられる。自嘲気味な後ろ姿を輪郭の結ばれない眼鏡のフレームの外へとさっさと押し出してしまう。閉じた口の中で空気を上げ下げして返答の音声を作ろうとしても、「いじめられるのを少しでも防ぐため」という本当の理由は言えない。また嘘を吐くしかないのならと、不規則な足音が去っていくのをじっと待った。


──・──・──・──


 子どもがどうやって生まれるのか。十歳を過ぎても考えたことはなかった。


 三歳の六月二十八日のこと、予定日よりも少し早く、弟が生まれた。名前は真宙(まひろ)。両親がいくつか挙げた候補から、訳もわからず一番大きな字で書かれていたものを僕が指差して決まった。ただし、僕は母さんの妊娠中、赤ちゃんが生まれてくることを喜んだことはない。どんなに両親に期待の感情へと誘導されても、頑なに「弟妹なんてほしくない。」と言い続けた。僕への愛情が半分、いや、半分以下になると予見したからだ。

 前日の夜は狂気じみて痛がっている母さんを見るのが辛かった。存在しないふりをしたくて、ダイニングテーブルの脚に隠れるものの、ソファで(もだ)えている母さんから目を離すことはできない。「ガイシャシ」だとか言われて、半年前から掛け始めた眼鏡のせいで、世界はお説教をされているように窮屈に整理整頓され、(ひたい)に浮かぶ脂汗まで見えた。いつも見える方の左目にシールを貼られたが、今日はそれもしていない。できるだけフレームの外を見るようにした。当たり前だと思っていた優しい視界。痛みにピントが合わなくなって(ほの)かに心が落ち着いた。

 夜中の二時半を過ぎて、病院の硬い椅子で父さんの膝を枕にして寝ていたとき、生まれた赤ちゃんには脳に障害があると聞いた。何時間も待ったことによる強烈な眠気が襲うなかでも大切な話をしていることは(うかが)えた。


 赤ちゃんが生まれてから何週間も、病院と家とを往復した。その回数は眼科に通っているときよりもずっと多かった。眼鏡を掛けるようになってから、母さんが何度も「あれは見える?」などと()くのは、僕の目が悪いのを心配しているからだと知っている。だから僕は、力強い光をずけずけと浴びせられて胸焼けのする眼鏡でも嬉しそうに掛け続け、楽しげに「見える」と言うようにした。そうすれば、母さんは優しい笑顔を見せてくれる。でも、赤ちゃんが生まれてからというもの、そんなやりとりは一度もないのだ。両親が精一杯なのは、疲れ果てた顔を見れば痛いほど伝わるが、やっぱり赤ちゃんは要らなかったんじゃないかと自分の正しさに誇りを持った。

 父さんに抱かれて初めて見た弟は、物々しい多くの機械に繋がれていた。管の刺された青白く痩せ細った塊は、(もが)き苦しんでいるように見えるが、この部屋はそんな生気のない人形をわざわざショーケースに飾っているみたいでどこか気味が悪かった。僕が「生まれてくるな」とずっと願い続けたせいで、この小さな命は(むご)い仕打ちを受けているのではないかと一瞬だけ考え、「痛そう。」と他人事みたいに声を漏らす。


「病気があっても優しいお兄ちゃんがいるお家なら安心だろうって、真宙は我が家を選んで生まれてきてくれたんだね。」


 父さんは僕が怯えているのに気がついたのか、緩慢(かんまん)に背中を撫でながらなるべく優しい声を出す。僕はその言葉を鵜呑(うの)みにした。自分を正当化するように、赤ちゃんが勝手に家を選んでやって来たんだと信じることにした。



 東北の震災があってすぐのこと、真宙が就学するのをきっかけに特別支援学校が近くにある地区に引っ越した。重度の障害がある子どもを受け入れてくれる小学校はあまりないようだし、母さんの実家も近く、何かと都合がよいらしい。習い事もせず、親しい友だちもいなかった僕は、転校を(いと)うことはなかったが、新しい校舎を見れば、どうしても足は(すく)んだ。去年の遠足のときは、同じ班になった一年生の女の子よりも背が低かったし、すっかり0.01もなくなった視力を矯正するためには、目の大きさが半分くらいに見える度の強い眼鏡を掛けなくてはいけなかった。前の学校でもそれを何度もチープなお笑いの材料にされてきたのだ。性格を改めることはできても、それらは変えようがない。不安は募った。ただ、五年生の始業式というのはクラス替えも兼ねていて、転校生の存在感が最も薄い時期らしい。パーティ気分を白けさせない程度に紹介されて、騒いでいる声が止むのを待つだけで初日は終わった。


 しばらくして、各自で書いた自己紹介カードが廊下に掲示されたことで、朝のホームルームの前に廊下がごった返していた。群れたがる子どもたちに一瞥(いちべつ)をやって、僕は教室で本を読む。すると、張り切ってクラスの司会者みたいな振る舞いをしている並木(なみき)くんの声がした。自分の名前というのは雑音にも掻き消されないで目立つものだ。その声だけが明確に届く。僕の誕生日が十月十日であることを取り上げているらしかった。その意味が僕には理解できなかったが、声の出し方からして揶揄(からか)いの類であることは確かだった。知らない言葉を次々と並べ、周りの男子はその言葉を楽しそうに真似する。近くにいた女子は恥ずかしそうにしながらも、上機嫌にそれを注意する。誰かが「ミレニアムハッピーバカ親」と言って、両親が馬鹿にされていると知った。我慢しておけと何度も衝動を鎮めようとしても、席を立つことは止められなかった。恐る恐る廊下に向かうと「おっ、ガリ勉転校生くん登場」と(はや)し立てられる。


「──うちは、その…インランってやつじゃない。」


 たどたどしく(つぶや)くと、さっきまでより大きな焼けつく笑い声がした。おもちゃを見つけた幼児のように、彼らは嬉々として僕にあれこれ質問をする。そして、行儀の悪そうな単語を知ったかぶりし続ける僕は余計に笑われた。乾いた唇をなんとか動かして、視線は極端に落とす。レンズの端の方では直線が歪んで色も滲んだ。並木くんの上靴が水で伸ばしたように見えるのは、涙のせいではないと言い聞かせたが、目尻から溢れ落ちた感覚ですべてを諦めてしまった。いきなり泣いてしまうような人間は、身分に違いがあるように扱われることとなる。引っ越しを決めるとき、僕には一切相談のなかった両親に対し、そのとき初めて腹が立った。



 彼らとは違う学校に行くために、僕は中学受験をしたかった。けれど、我が家には金銭的な余裕がないようだ。障害というのは際限なく金が掛かるらしい。真宙は食事も排泄も、呼吸さえ自発的にはできない。入退院を繰り返す真宙を中心とした生活を送るしかなかった。僕の服さえ親戚にもらうことが増えているし、誕生日もクリスマスも去年からプレゼントはなかった。出前だって取らない。夜な夜な金の話で揉めていることも知っている。当然、塾に行きたいとは言えなかった。

 それでも、母さんは何もしてあげられないことをこれで帳消しにして欲しいと願うように、毎月千円のお小遣いをくれた。今の時代、わずか千円で何ができるのかわからない。そこまで考えて渡しているようには思えなかったが、友だちのいない僕には十分足りた。その金で参考書を買って秘密裏に勉強をする。そして六年生の僕の誕生日、貯めておいた受験料の五千円を渡して「受験をしてみたい」と打ち明けたのだ。交通費もほとんど掛からない公立の中高一貫校を一校だけ。母さんはその金を受け取らず、真宙を祖母に預け、車で受験会場への送迎までしてくれた。でも本当は、「私立も受けてみたら」と言ってくれることを少しだけ期待していた。試験会場で見た育ちのよさそうな襟付きのシャツを着ている少年少女。塾にも行っていないパーカー姿の僕は、こんな県内トップレベルの学校に足を踏み入れてはいけないのだと痛感させられた。初めて受けた試験は、惜しくもなんともない場違いの点数で不合格だった。


──・──・──・──


 七時五十分。ソフトテニス部が朝練の片付けを始める。塗装の剥げたプラスチックの(かご)の中へと、反対のコートからボールを狙い打ちしていた。どうせ外れるから下級生は急ぎ足で取りに行く。何度も繰り返すそれを渡り廊下の窓から見ていた。しばらく目が離せないでいたのは、母さんが文句を言いながら毎週ドラマを観ているのと同じ気持ちかもしれないと思って、窓の(さん)に視線を移す。砂埃が天気予報の等圧線のような形で固まっていた。

 両手でしっかりと理科の教科書とノートを抱え込む。ガタガタした小口を親指の腹でなぞった。詰襟のポケットには、シャーペンと消しゴム、赤ペンに蛍光マーカー。内ポケットにはスティック(のり)やハサミまで入っている。今すぐにでも一限を受けられる体制だ。僕は校舎に入ってくる他の生徒が現れる前に、この誰もいない渡り廊下に移る。(じゃ)れ合って騒ぐ声は少しずつ大きくなって、ぼやけた音像としてここまで届いた。向こう側の日常と僕との間には透明な膜が張られているみたいだった。

 いつも通りの始業間際。担任とほぼ同時に教室に入った。ホームルームが終わるとカラスが群れるゴミ捨て場のようにロッカーは混雑する。とっくに支度が済んでいる僕は席に座り続けたまま一限を受けられる。そうすれば僕の持ち物に悪戯(いたずら)をされる隙は完全にない。夏休みが明ける前から、グラウンドで朝練の生徒に会うこともないように、毎日一時間余裕を持って登校するようになった。自衛のための対策を講じるのはシミュレーションゲームみたいで面白かった。

 しかし、そんな僕を神出鬼没で幽霊のようだと(たと)える者もいる。霊は都合が悪いと姿が見えなくなるらしい。かと思ったら、人権を無視できるストレス発散の相手として、しっかりと視認される場合もある。卑猥(ひわい)な言葉で呼ばれるのとどちらの方がよいのか(わか)らないが、頭の悪そうな声で何を言われても気にならなかった。気になるのは、恐喝、窃盗、暴行、器物損壊、など。「いじめっこ」なんて呼ばずに、ただの犯罪者だと思うようにした。



 僕の中学校は部活動への加入が校則で強制されている。それでもどうしても部活動に入りたくないという人間を助けるようにあるのが読書部だった。放課後に図書室に行って適当な本を借りるというだけのことを、部活動だと言い張っている。また、少しでも立ち止まって考えられる者は、年齢が一つ二つ違うだけの人物を「先輩」だと(たてまつ)ることについて、抵抗があるものだ。その点、読書部は部員の人数さえ誰も把握していないような場所だったため、いくらか気は楽だった。借りたところで読んだ試しはほとんどないが、自分のカードに捺印(なついん)をするだけの簡単な作業は、ひとまず毎日欠かさず行うことにしていた。ただ、こんな部活動に入る時点で、誠意もやる気もない人が多いということは約束されている。「本を借りる」というたった一つの部活動のルールさえ反故(ほご)にする者は多かった。必ず放課後に図書室へ来る一年生は、僕と青央(あお)くんだけだ。


「マジでごめん、こ、これ……返す。」


 青央くんは、同じ教室から来たとは思えない速度で図書室に辿り着き、教室の前よりも空気の澄んだ静かな廊下で待っていた。千円札を二枚、僕に突き出している。僕と違って色素が薄く爽やかな旋毛(つむじ)を見せびらかすように頭を下げ、(ひじ)はピンと伸ばしていた。紙切れにしては強すぎる握力で、その変形はテーブルの隅に忘れ去られた割り箸の袋みたいだ。華奢(きゃしゃ)な体つきでありながら筋肉質で、僕よりは頭一つ分くらい大きいはずなのに、その姿はとても弱々しく縮こまっていた。


「それじゃあ君が盗られたことになっちゃうじゃん。最近使っちゃってて、逆に二千円しか入ってなくてよかったわ。大した額じゃないし、それくらい気にしないよ。」


 何も考えずに嘘が出るようになって久しいが、(まれ)に見る瞬発力で自分でもやや引いた。


 青央くんは昼休みに僕の財布から金を盗った。五時間目の体育のために着替えていた昼休みのことだ。僕は上下ちぐはぐな見てくれのまま、並木くんの舎弟に羽交い締めにされた。無闇に動いても三倍くらいの体重があるそいつには、まるで効果がなかった。男子だけの教室で少しずつ周りの視線が集まる。そそくさと着替えを済まそうとする者と、バラエティショーとして参加する者に二極化していく。

 遠くの席にいた並木くんが「里見(さとみ)、バカヒラの財布から金抜くチャンスだぞ。」と腕を突き上げた。制服を入れておこうと出したスクールバッグには小学二年生から使っているマジックテープの財布が入っている。学校に金を持っていきたくはなかったが、筆記具がなくなれば購買で買うしかないし、真宙に何かあったときは祖父母の家に行くと決まっていたから、バス代を携帯するようにと言われていた。中身を差し出すのもこれが初めてではない。いきなり名指しをされた青央くんは(ひる)んで女みたいな声を出す。羽交い締めが始まったときから近くにいたのに、止めるでも見て見ぬふりをするでもなく、ただじっと見つめていた様は、大縄跳びに入れない僕みたいだった。「出た。おっせーんだよなー。」とケラケラ笑っていた並木くんは、瞬間的に豹変し、音が出るように机を蹴る。


「さっさとしろよ、里見。」


 空気が張り詰める。唇を噛み締めている青央くんと目が合う。(ささや)くような声で「いいよ」と目配せをした。


 青央くんは小学生のとき、並木くんと同じサッカーのクラブチームに入っていた。僕から見れば、小学校の放課後のグラウンドを貸し切るおかしな団体という程度にしか映らなかったが、地域では「名門」だなんて呼ばれるチームだと言う。その証拠に他の小学校からも多くのサッカー少年が集まっていたらしく、その内の一人が青央くんだった。並木くんは四十人は軽く超える人数のなかでも、レギュラーメンバーから外されたことはないようで、男子からに留まらないカリスマ的な人気があった。反対に青央くんは試合なんて出たこともなく、中学校ではそのクラブの延長線になっているサッカー部にすら入らなかった。教室で並木くんが小学校のクラブでのことを話題に上げるたび、青央くんは引き()った表情を浮かべる。他にもサッカー部員は多くいるのに、わざわざ辞めた青央くんを巻き込んで話すのが並木くんらしかった。


「でも、それならせめて割り勘にして。俺にだけ罪悪感を背負わせないでよ。」


 青央くんは千円札を一枚、デニム生地の自分の財布に戻してから、もう一枚を両手を広げて挟んだまま、お祈りのようなポーズで僕に差し出した。ナ行の滑舌が甘いせいか、いつも動きや言葉が幼く思える。内心では受け取れる理由を作ってもらえたことに安堵しているのを感じた。そんな自分が惨めで、できるだけ冷めた態度で一ヶ月分のお小遣いを受け取り、ゴミみたいにポケットに突っ込んだ。「仕方ないな」と悪態をつく僕に、嫌味一つなく礼を言っている青央くんの声は耳に痛かった。


 吹奏楽部の練習の音は放課後の校舎をそれらしくする。僕は手提げに外履きを持ってはいるが、あえて青央くんを()く理由もないから、図書室を出てからはいつも一緒に昇降口へ向かった。青央くんは早足に階段を下る僕の後ろから、沈黙を埋めるようにしきりに冗談を言っては自分で笑う。下り切ったところで、その声がぴたっと止んだ。昇降口にある冷水機から下品に水を飲んでいる、あのユニフォーム姿は並木くんたちだ。青央くんが僕の背負っている鞄の取っ手を引っ張って、行ってはいけないと合図をした。しかし、その合図の直後にひょうきんな取り巻きが、歓喜と冷笑の中間の声を出す。それに気が付いて並木くんもこちらを振り向いた。


「うわ、やべえやつらが現れた。」

「里見もなんで、バカヒラなんかといるんだよ。」

「ハズレすぎるコンビじゃん。」


 矢継ぎ早に戯言(たわごと)で盛り上がる彼らに尻込む人間でありたくない。僕は構わず昇降口に行こうと一歩踏み出した。それは鞄を掴んでいた手を引っ張るような強さだった。青央くんは「別に、さっきたまたま会って……」とたじろぎながら、僕の力にも抗わない。そのとき、僕は舌打ちをした気がした。それは本当にしたのか、誰にしたのかも不明だが、並木くんを睨みつけることは確実にした。靴を履き替えようとしたとき、僕の胸ぐらを掴みにきたのが証拠だ。


「お前、なんだよその顔。キモい眼鏡のチビがイキがってんじゃねぇよ。」


 至近距離にいられると自然と体が固まった。いつの間にか握っていた拳にじっとりと汗を感じる。見上げないと視線が合わないはずなのに、軽く持ち上げられているのか自ずと視界の中央に並木くんの企んだ顔が配された。眼鏡のフレームがその表情を強調するが、レンズの隔たりはテレビでも見ている感覚にさせてくれた。目を合わせないようにその枠の(きわ)を見ようとすると、細い弓形(ゆみなり)に屈折した青央くんがいた。醜くなった像は色が分裂するように滲んでいる。また大縄跳びに入れなさそうにしていた。いくら頭のなかに並木くんを(けな)す言葉が浮かぼうと、閉じ切った声帯には押し並べて(はば)まれてしまう。何もしない僕に愛想を尽かしたのか、「汚ねっ」とだけ小さく呟いてから、硬直した体をゴミのように放り投げた。

 一瞬だけ空中に浮き上がり、バランスを取れるわけもなく倒れ込む。左耳を壁に強くぶつけた。ガチャと嫌な音がする。セルフレームの眼鏡の(つる)が壁と顔の骨との圧力に耐えきれず千切れるように折れた音だった。咄嗟(とっさ)に目を瞑ってしまっても、眼鏡が右耳を支点にぐるりと半回転しながら、吹き飛ぶように僕の顔から滑落するのを感じた。再び(まぶた)を開いたときには果てしない混沌が広がっていた。無彩色の下駄箱に制服の青央くんは馴染んでしまって見当たらなくなったが、カラフルなユニフォーム姿はかろうじて浮いて見えた。水色の塊が手を叩いて笑っている。裸眼になると明後日の方を向いてしまう僕の右眼を気持ち悪がっているのかもしれない。ぐちゃぐちゃな視界は、目を細めたくらいでは何も変わらない。見えないということは、それだけで人を(いちじる)しく弱くさせた。左頬も痛んだが、それを感じられないほど必死に、どこにもピントが合わせられないまま、目の前の水色を逃さないようになんとか見つめていた。青央くんが驚きと恐怖とが混じった弱い悲鳴を上げる。眼鏡が壊れたことにそこにいる全員が気が付いて、並木くんたちは関わりたくなさそうな様子でさっさと外に出て行った。「お前が勝手に壊したんだからな」と吐き捨てる声は、いくらか焦りを感じられて、所詮はまだ子どもなんだなと可笑(おか)しみがあった。


 彼らが扉の方へ行くや否や青央くんは僕に駆け寄って、大丈夫か大丈夫かと焦り気味に訊いた。いつの間にか早くなっていた呼吸が落ち着いていくのを感じる。この視界では目を開けているだけで脳が揺れてくる感じがするから、脅威がなくなれば自然と瞼を下ろしていた。コミカルな手振りで、「眼鏡がないと何も見えない。」と半笑いしてみる。青央くんは僕の手のひらを持って、その上に眼鏡をゆっくり乗せてくれた。左の蔓が真ん中あたりで完全に折れ、二つのパーツに分かれてしまっている。レンズにも少しヒビが入っているようだ。厚さのあまりフレームから飛び出ているプラスチックが僅かに欠けていることを手触りで知った。このフレームはレンズを交換しながら転校する前の四年生から使っていた。濃い(はなだ)色のセルフレームは子ども用でも、ハイセンスな大人向けに感じられてお気に入りだったが、三年以上の使用でガタが来ていたのは確かだ。どうにか自己弁護するためにそう考えた。


「それ、もう掛けられないよね。」

自分が悪いでもないのに僕に合わせて小さく(かが)み、申し訳なさそうに尋ねる青央くんに、首を縦に振った。僕は母さんにする言い訳を考えるので必死だった。

「天音くんって、その……かなり目が悪いんだよね。」

こんなに度の強い眼鏡を掛けながら、先日の席替えでも前の方を希望して、散々馬鹿にされていたというのに、躊躇(ためら)いがちに訊いてくれるのには気遣いを感じた。もう一度、一回だけ(うなず)く。動揺に飲まれて、目を開いたら泣いてしまいそうな気がするから、()き止めるように強く瞑った。

「そしたら、眼鏡しないで歩いて帰るのは厳しいのかな。」

ずっと自分のなかでは既に検討が済んでいることを一つずつ訊かれるのは、隠している切り傷を服の上から(えぐ)られているみたいだった。惰性でした三回目の点頭をきっかけに青央くんは突然立ち上がる。

「俺、保健室前の公衆電話で、天音くんのお母さん呼ぶよ。番号教えて。」

そんな提案をされるとは思わなかった。戸惑うと同時に青央くんの口から今あったことを誰かに伝えるのはやめてほしいという直観が働く。目頭の熱いものが引いていく感覚があった。眼鏡を慎重に開いて、手で押さえながら掛けてみる。ようやくピントが合った。青央くんは思ったよりも遥かに逼迫(ひっぱく)し、泣きそうな顔をしていた。それに焦燥(しょうそう)を覚えて、空回りそうなほどに明るい声で言った。


「母親は仕事でいないし、レンズはそれなりに平気だから普通に帰るよ。ただ、もしよかったら、僕の鞄に入ってるセロテープで、眼鏡の応急処置をしてくれない?」


 そんなことでいいならと、喜んでやってくれたことはありがたい。眼鏡をしないでしか行えないその動作は僕にはできそうになかった。古い包帯みたいに蔓に巻かれたセロテープ。一応掛けるに耐える状態にはなった。度の強い眼鏡はレンズが瞳孔の中心から少しずれるだけで見える像が大きく歪んでしまう。不恰好に曲がった眼鏡は、しばらく掛けているだけで酔っ払ってくる気がした。そんな眼鏡を掛けた僕もまた不恰好だったはずだが、青央くんは極めて神妙な顔つきで「お家まで送っていくよ。」だなんて言う。小学校も違った青央くんは家の方向も正反対だ。金を盗ったことなんて、もうどうだってよいのに、一体いつまで善意を振る舞うのだろう。僕は「大丈夫」とだけ言って、昇降口を先に出た。


 国道を避けて一車線の路地を歩く。団地に併設された形ばかりの公園を横切るのが近道だ。抜けると住宅が規則正しく並ぶ。交差点にある古ぼけた木造の駄菓子屋は、小学生の待ち合わせによく使われた。携帯電話を持っているのが当たり前ではないものの、その様子は郷愁を絵に描いたようだった。二割も埋まっていない虚しく広い駐車場。駐車線が薄くなっているのをよいことに、量産車がばらばらと不規則に停められている。おそらく隣の家の住民によって、敷地内の片隅に植木鉢やらが置かれていた。近隣住民の老人たちは、それを注意するどころかその花の可憐さを愛でているらしい。陽も傾きつつある放課後、植木鉢の(かたわ)らには野良猫がいた。濃い茶トラの雑種猫。汚い地面を気にしないで毎日そこに横たわっている。汚いそいつを気にしないで餌を与える人がいるからだ。ランドセルを道端に置いたまま、楽しそうに撫でていたクラスメイトを思い出した。いくつもの名前で呼ばれていたその猫は、どの名前にも興味はなさそうで、涼しそうに餌だけを掠め取った。誰もいない駐車場で呑気(のんき)に寝ている猫を見るのは、接客業の休憩室を覗いているようで、いくらか気が(とが)めた。

 歩行する小さな振動が蓄積したのか、視界の振れ幅が大きくなる。セロテープでの締め付けが緩くなっていた。結局、手で押さえている方が頭痛は弱まった。望遠鏡みたいにレンズを(かざ)して歩くのは、とりわけ情けなく思える。信号待ち、数秒だけ目を閉じて、大きく息を吐き切った。上目遣いにレンズを通さないで見ると、もちろん赤信号の色は空に溶けるように広がっていく。けれど、レンズの上部に歪んで映る棒立ちの人間の記号もどこか偽物らしく思えた。殴られても力で敵わないことに、悔しさを覚えたことはない。(ののし)られる言葉も知的レベルが知れるようで滑稽だった。それでも、こんな壊れてしまった眼鏡に(すが)らないといけないことは、ひたすらに面白くなかった。青信号に変わるまで、目の前の車道には一台も車が通らなかった。


 木製を模した自動ドアが開く。いつものように部屋番号を入力しようとしたとき、眼鏡から手を外して、また視界が揺れた。逡巡(しゅんじゅん)する。鍵を取り出すことにした。真宙が選んだドラえもんのキーホルダーはスクールバッグのポケットにある。エレベーターの中では鏡をずっと見ていた。壊れた眼鏡を初めて観察できる。斜めに覗き込むと何重にも重なって見える白い渦が気色悪いが、今は気にしないでおいた。左のレンズに入ったヒビはそれなりに目立っているし、頬にできた擦り傷も絆創膏なんかを貼った方がよさそうだった。何よりセロテープは、手の汗が染み込んだのか黄ばんでいて汚らしい。帰り道に挨拶をしたお婆さんの目が悪いことを願った。

 吐き気を我慢しようと、深呼吸をしてから玄関の鍵を開ける。靴を脱いでスロープの邪魔にならないようにと下駄箱に片付けた。そのとき、母さんはリビングからこちらまで来て「あら、おかえり」とインターフォンを鳴らさなかったことに驚きつつ、後ろから言った。疲れを感じる息の多い声を聞いて、少し長く瞬きをする。「ただいま。ねぇねぇ、見てよこれ。」玄関で座ったまま、巻かれたセロテープを指差して、(おど)けて誇張した困り顔を作った。


「コンビニから曲がった路地のとこで車が来てさ、別に避けなくても十分に通れたのに、無理に避けようとしたら、(どぶ)の繋ぎ目に足が引っかかっちゃって、壁に激突したんだよ。ゴチーンって。運動神経悪いよねぇ。そしたら、眼鏡がバキって折れちゃったの。本当にごめんなさい。」


 さっきまで考えていた台詞を早口で喋る僕に、母さんは感嘆詞だけを口にした。よく見ようとしてきた母さんに眼鏡を渡して、目を閉じたまま続ける。


「全然見えないから大変だったよ。眼鏡が落ちちゃって手探りで探してさ、そういうときに限って誰もいないの。見つけてもそのままじゃ掛けられなくて、セロテープを巻こうとしても、見えないでやるのは、すんごい難しかった。誰もいなくて困ったけど、道路で正座して工作してるのなんて、誰にも見られなくてよかったかも。」


 言葉が途切れないように神経を集中させた。視界を閉ざしている分、ドジな僕を想像しやすい。ジェスチャーまでつけると諧謔(かいぎゃく)味が増した。無理に笑おうとするたびに心は冷やされていく。「怪我もしてるじゃない。大変だったね。」と言われて、やっと話すのをやめられた。僕の間抜けさを笑って、それに軽く毒づかれるのが気持ちよかった。金のことで責められるかもしれないと思っていたからだ。


「でも、今日は眼鏡屋さん行けないよ。明日でいい?」


 父さんが帰ってきてからでは遅いし、真宙を連れて行くのも一苦労である。明日は土曜日だから、父さんが真宙を看ておいてくれるはずだ。慎重に返された眼鏡を掛けながら、念のために「一緒に行ってくれる?」と確認すると「え、もちろん」と当然のことのように返された。久しぶりに息を吸った気がした。


 手を洗ってから部屋に行く前に、リビングに面した和室のベッドにいる真宙にはっきりとした声で「ただいま」と声を掛ける。糸で引っ張られているように硬直している口から懸命に出された声は「天音、おかえり」だろう。僕は難なく真宙の言葉を理解できることが自慢だった。隣に膝をついて微笑みかけてから、喋ろうとして首まで垂れた(よだれ)を指で(ぬぐ)ってやると、照れたように並びの悪い歯を見せる。今日は学校に行けたかと、答えの知っていることを訊き、ゆっくり頷くのを見て満足した。

 ワイシャツを脱ぐと、すぐにシャワーを浴びるのが日課だ。汚れた体で部屋着を着たくないのだ。着替えを用意しつつ、風呂用の眼鏡を出した。頑丈だけが取り柄でかなり野暮ったい。錆びないように金属がほとんど使われていないフレームにした。五年生の秋、修学旅行に備えて買ってもらったものだ。旅行では馬鹿にされるポイントを増やしただけだったが、家ではそれまで怖かった入浴も見えるようになって(はしゃ)いだ記憶がある。真宙の入浴介助もそれを機に僕がやると言った。当時は危なっかしかったが、家族としての役割が増えて喜んだ。しかし、この眼鏡は入浴にしか使わないからと一度もレンズを変えていない。自分を映す洗面所の鏡にも、この肌色について、無造作な短髪で眼鏡を掛けているという情報以外は秘匿された。それでも、持っているもののなかでは最も度が強かったから、シャワーを終えても、仕方なしにしばらく常用することにした。

 ドライヤーもせずにパンツだけ履いて、浴槽に浅くお湯を張る。夕飯の支度をする母さんに痩せた体を見せるのも気にせず、真宙のところへ向かった。発泡スチロールみたいに軽い体躯(たいく)は、僕でもなんとか車椅子に乗せられる。その前におむつを確認した。しっかりと臭いがする。最近は尿瓶(しびん)でするように練習していたが、ついさっき漏らしてしまったようだ。表情はよく見えなかったが、残念そうに「ごめん」と言っているように感じた。できるだけ明るく、まだ出そうか尋ねる。力の入っていない柔らかな腕を掴んで尿瓶を持たせ、その中に性器を入れた。細すぎる腕では頼りなくて僕も支えるが、まじまじと見るのは可哀想で、顔は(そむ)けておいた。今日は数分待っても出なかった。諦めて風呂まで運ぼうと、シリコンの風船のような器具を口につけ、手で規則正しく押した。自分も同じリズムで呼吸をする。体はとっくに冷えていた。


──・──・──・──


 十一時。退屈な秋空の強すぎる光が、パワーウインドウにきらりと反射する。眼鏡屋までは車で三十分ほど掛かった。前に住んでいた賃貸のマンションからは近かったのだ。特殊な僕の眼の状態を熟知してくれているから、比較的近くへの引越しくらいでは店を変えたくなかった。僕の荷物は壊れた眼鏡を入れたケースだけ。膝の上に置いている様は、いかにも貴重なものを守っているみたいだ。怪我をした雛鳥(ひなどり)を運んでいるイメージと重ねて、そんなによいものでもないかと棄却した。

 風呂用の眼鏡では何もかもがぼやける。街中の看板も車のナンバーもどれもが読めなかった。たった二年でこれほど視力が落ちたのかと痛感するためだとしても、三十分は長すぎる。半分を過ぎたくらいで腑甲斐(ふがい)なさに押し潰される頃合いだった。成長期に近視が進むのは仕方がないと言われていたが、それでも眼鏡を掛けた他の子はここまで悪化しないのだから悔しさはあった。


「久しぶりに二人だね。お昼、どこかで食べてから行こっか。」


 前を向いたまま質問する運転中の母さんの横顔を見つめる。ふわりと巻かれた黒髪から明るい色の口紅が見え隠れした。一度頷いてから、それでは意味がないかと慌てて「いいね」と口に出す。助手席に座ったのは間違いだったかもしれない。母さんとドライブデートをしているみたいで気恥ずかしかった。

 ファストフード店かラーメン屋かと思っていたが、昔は常連だった小さな洋食屋に久しぶりに行きたいと母さんが言った。喫茶店のような年季が入った店内には、ジュークボックスなるものが置かれていた。何をする機械なのかは知らないが、ビビットなネオン灯だけは今でも印象に残っている。僕が物心つく前のころ、毎週のように通ったらしい。最後に行ったのは六年前、真宙が長期入院しているときだった。そういえば真宙は行ったことがないはずだ。そうやって口に出そうかと思ったけれど、今は真宙の名前を出したくなくて、楽しみだとだけ伝え、印象派の車窓を眺めておいた。


 見慣れた道が増える。前の小学校は家から近かった。通学路は車で通ると一瞬だ。さらに狭い路地に入ると唐突に存在する洋食屋。店名は何語かもわからず、聞いたところですぐに忘れてしまう。店の前の一台だけのスペースに何回も切り返してようやく駐車した。軽快な車のロック音。母さんがアーチ状の木製の扉を開くと、ささやかにドアベルが鳴る。「段差があるよ。」と後ろにいた僕に注意をしてくれる。真宙が来たことがない理由に気がついた。その段差に大股で踏み込むと、洋食屋らしい匂いがした。焼けたチーズの匂いだろうか。もうずっとこびり付いているみたいだ。窓側の席に座る。


「あら、高平さんの奥さん。天音くんかい。大きくなったねぇ。」


 水とメニューを渡しにきた店主に話しかけられた。内田先生をさらにダンディにしたような風貌に思える。店主とまで仲がよかった記憶はないが、母さんが普通に挨拶をしているから特別なことでもないんだろう。僕の身長はかなり低いが、小学一年生のころよりは大きくなった。そんな戸惑いを隠せずに「ありがとうございます。」と独り言みたいに言った。些細なコミュニケーションに緊張した様子を母さんに見られたことが照れ臭い。店主が厨房に戻っても、微かに速いままの脈を気付かれないように、メニューへ注意を向けた。文字を読むには随分顔を近付けてしまう。それに気が付いたのか、いくつかのランチセットを母さんが読み上げた。ランチと言えど、どれも千五百円以上することは先に見えていた。これから眼鏡まで買ってもらうのだ。素直に選ぶ気にはなれなかった。母さんは優柔不断な僕を揶揄うように笑む。


「お母さんは、ハンバーグもカニクリームコロッケも食べたいから、天音がよかったら半分ずつ交換してほしいな。一人でオムライスとかを食べたかったら、それでもいいよ。」


 カニクリームコロッケがよかったけれど、一番高いから遠慮していた。「分けるのでいいよ。」とだけ言うと、母さんは嬉しそうに振る舞ってくれた。注文している間も声は出さないで、少し奇抜な緑色の窓枠の形を見ていた。


「新しい眼鏡、どんなのにしようか。中学生だし、前のよりもうちょっと大人っぽいやつがいいかな。」


 昼食には少し早い時間。客は僕らしかいなかった。母さんと向かい合って話すのはいつぶりだろうと、ふと考えた。料理を待つ時間はそれなりに掛かるはずだ。後ろめたさがあって「眼鏡壊しちゃって、ごめんね。」と目を合わせないで言う。


「仕方ないよ。わざとじゃないんだから。それに、あのフレームもちょっと小さくなっていたし、レンズだってそろそろ見えなくなってきてたんじゃないの?」


 その悪童をまとった顔は、同い年だったら苦手のはずだ。どうせ後で検査をすればわかることだから、素直に「バレてた?」と頭を掻いてみる。母さんは「最近、目を細め始めてたからね。」と僕の額を人差し指で軽く押した。二人だけの空間に心が(ゆる)んでいく気がした。その後、母さんがスマートフォンで「眼鏡 フレーム」と検索し、色々な画像を一緒に見た。そこまで思ってもいない注文をあれこれ付けて、気に入りのフレームを探した。「天音にはこんなの似合うよ。」と洒落たフレームを指差してくれるのも気分がよかった。

 サラダとスープが運ばれる。話がおしまいになるのは惜しかったが、嗅覚への甘美な刺激に自然と表情が明るくなった。食い意地が張っているように思えて、口角が上がるのを抑えようとしたが、僕以上に大きな反応をする母さんを見て余計に笑えてしまう。サラダは、柔らかそうなレタスに、髪の毛みたいに細いにんじん。脇にはグリルしたナスとパプリカ。それと、イチジクが入っている。果物としてしか食べたことがなかったけれど、塩味の効いたオイリーなドレッシングにもフィットした。挑戦的なサラダに比べて、ブイヨンのスープは大人しく、非常に重心が低く思える。小さな木材のスプーンで口元に運ぶたび、行ったこともないヨーロッパの田舎町が思い浮かんだ。

 味の感想を母さんと言い合うだけで有意義だった。スープも冷めないうちに、メインディッシュがやってくる。皿の金の縁取りには高級感があった。カニクリームコロッケが僕の方に置かれる。元気よく挙手をしたまま揚げられたような見た目も好きだった。蟹とオーロラソースの暖色のコントラストに見惚れている間に、母さんは丸く膨れたハンバーグをナイフで切って、明らかに大きい方を僕にくれた。見るからに濃厚そうなデミグラスソース。肉汁と分離しながらも少し混ざって色が薄くなる。二つあったカニクリームコロッケは、どちらも同じ大きさにしか見えないけれど、できるだけ大きいと思う方をあげた。ナイフで切るのがもったいなくて、サクサクの衣を一口(かじ)ってみたかった。行儀を気にして母さんに断ると「火傷しないでね。」と見守られた。フォークで刺すとクリームがフライングしてほんの少し漏れ出す。恐れながらおもむろに歯を入れると確かに熱くて声が出た。母さんが笑う。思い描いていた液状の感触ではなく、蟹の繊維質を明瞭に感じた。おいしさを語る僕は饒舌(じょうぜつ)で、母さんはひたすら頷いていた。オーロラソースの代わりに、ハンバーグのデミグラスソースを付けて食べるのも絶品だった。

 男のくせに食べるのが遅く、母さんには柑橘のシャーベットを待たせてしまった。食べ終わると同時に二組の客が来て、それだけで一気に混んできたように思えた。水を運びにきた店主を厨房に帰す前に、母さんは会計を済ませる。なんとなく離れて金額を見ないようにしていた。扉の前で店主に、扉から車までの数歩の間で母さんに、食べ終わったときとは違う調子の「ごちそうさまでした」を言った。外の空気は排気ガスと郊外特有の土の匂いがする。それも新鮮に感じられた。「おいしかったね。」と言う母さんに「ね、幸せ。」と返す。ぼやけている視界のせいもあって、全部が夢見心地だった。母さんの表情はよく見えなくても、家にいるときと違う明るい声に満たされた。眼鏡屋にはその余韻を味わうまでもなく、すぐに辿り着く。


 小さな個人店の眼鏡屋。車が来たのを見ていたのか、入り口付近でいつものふくよかなおばさんが出迎えた。中谷(なかたに)さんだ。黒染めされたボブカットにグレーのスーツ。高級そうな淡いピンクの眼鏡を掛けている。品はよいが化粧は濃い。近寄ると外国っぽい香水の匂いがした。僕が泣きじゃくって眼鏡の調整が上手くいかなかったころから知られているから、格好つけるわけにもいかなくて無口になった。挨拶の直後に、母さんは壊れた眼鏡を見せて説明をした。その間、僕は伏せ目がちに押し黙って、壁一面のガラス棚に並べられた眼鏡を眺める。よくよく考えると、この眼鏡を作ってくれた人に壊してしまったと見せているわけだ。修理できそうにないと残念そうに丁寧な敬語で話す中谷さんに、心なしか引け目を感じた。

 新しい眼鏡を作るしかないのは知っていた。早速検査をしようと、奥の方に通される。社長みたいな革張りの椅子は僕には大きい。中でレンズががちゃがちゃ変わる無骨な機械を隔ててスクリーンがある。そこに平仮名が並んでいるんだろうが、今の僕には読めなかった。母さんは後ろのベンチに座っているが、その位置からでもどんな検査をしているのか見えてしまいそうだ。大きな指標に「わからない」と言い続ける無様を見られては、心配を掛けるだろうと毎回不安だった。


「じゃあ、測っていきますよ。眼鏡は外してここに置いてね。」


 紫のベルベットが張られた浅い箱を差し出している。中谷さんは僕だけと話すときは子どもに喋るような口調に変わる。座高に合わせて機械の高さを下げるが、ゆったりとしか動かないせいで時間が掛かった。生返事をして、言われた通り眼鏡を外す。箱の紫色は溶けるように平坦になり、すぐに二つに分離した。右眼がどんどん外側に()れていくのを感じる。素早く三回瞬きをして、見えていたときに保存しておいた感覚を頼りに適当に眼鏡を置いた。器具の小さな穴を覗くため、額を付けるように言われたときも何度も瞬きした。

 以前の検査記録により次々と強い度数のレンズに切り替えられる。散乱する光が徐々に「い」の文字へと集約された。壊れた眼鏡と同じ度数だと言われても比較的大きな文字しか読めず、密かに取り乱す。やはりこの瞬間が嫌いだ。何が正解かもわからない問題を解かせられ、自分が劣等生であることだけを思い知らされる。曖昧な答えを言うときは、舌が上手に回らなかった。

 十五分ほど検査をして、近視を五段階、乱視を二段階ほど強くする必要があると言われた。瞳から拳一つ先でさえ、遠すぎて焦点が合わないという度数だ。予想していたよりも悪い結果に息が漏れる。後ろの母さんからも同じような声がした。中谷さんだけが明るく「眼鏡が壊れていなかったとしても、作った方がよい頃合いでしたね。」と、励ましのように言った。しかし、そんなレンズでも、視力は十分には出ない。大きな屈折力は、眼球とレンズの僅かな隙間でも像を極めて小さくする。僕にはすべてのものが二割ほど小さく見えているらしい。そのせいでピントが合っていても、視力は出づらくなるのだ。

 中学生になったことだし、眼科に行ってコンタクトを処方してもらえば、もう少し見えるようになると助言をされた。その話にはいつも乗り気になれない。僕の度数では使い捨てのコンタクトは売られていないし、右眼が外を向くのは眼鏡でないと治せないから、どうせその上から掛ける眼鏡も要るのだ。僕はこれくらい見えれば大変美しい世界に感じられる。分厚いレンズで目がちんちくりんに見えるのも気にしてはいるけれど、整った顔立ちでもないのにファッションを気にする人間だと他人に思われるのも御免だった。

 検眼用の眼鏡はスチームパンクの雰囲気があって好きだ。引き出しに並ぶ大量のレンズのなかから目的のものを何枚か入れ、阿呆面(あほづら)でキスでもするように待っている僕に掛けてくれた。その瞬間に中谷さんの表情がくっきりと結ばれる。何枚ものレンズで歪み方は(はなは)だしいが、眼球に掛かっていた力が抜けて楽になっていくのを感じた。凄まじく重たいせいで鼻から滑り落ちそうなのに気を付けつつ、母さんの方を見る。別にそんなこともないけれど、その顔を久しぶりに見た気がして口元が緩んだ。「よく見える?」と訊く母さんが格段と優しそうに見えて、はにかんで肯定した。

 僕みたいなレンズは工場からの取り寄せになるが、来るのは早くても一週間後とのことだった。中谷さんはそれまで僕には風呂用の眼鏡しかないという事実を非常に気に掛けている様子だ。確かにこの視界を体験すると、今日の僕は何もかもが見えていなかったと感じる。


「そうだ、前回はレンズ交換でしたから、以前までご使用なさっていたレンズが、残っていると思います。この大きさなら、お使いのフレームに入れられると思うので、いかがでしょうか。」


 眼鏡の加工料もサービスでしてくれると言った。それでも0.1くらいしか得られないだろうが、今のものよりはよい。風呂場でも見えやすくなるから一挙両得だ。加工している間に、検眼用のレンズで気持ち悪くならないか確かめながら、フレームを選んでおくようにと言って、中谷さんはカウンターの向こうに行った。スチームパンクなそれを何度も掛け外しすると壊してしまいそうだ。気になるフレームをいくつか選んで、まとめて掛けることにした。検査の結果で落ち込んでいた共通認識を断ち切るように、母さんは楽しそうにフレームを選んだ。大人向けどころか高齢者の客が多い眼鏡屋だ。僕が掛けても違和感がなさそうなものは限られている。でも、どれも上品で分厚いレンズが入っていない状態なら魅力的に思えた。いつもは最低の価格帯のフレームしか候補に挙げられないが、今日の母さんは数万円高価なフレームも「これもいいんじゃない?」と促した。僕の場合、表示価格に特殊なレンズのオプション料がぐっと乗る。「でも、これ、高いよ。」と困惑して囁くと、「もうすぐ誕生日だし、誕生日プレゼントだと思って。」と母さんは微笑んでいた。来週の木曜日は僕の誕生日だ。頬が熱くなる感じがした。

 洋食屋で話したことを踏まえて、いくつか母さんが見繕っていたが、僕は深い緑色のメタルフレームが気になった。気に入りの縹色のフレームと同系色でありつつ、金属の光沢とより一層暗いトーンから色気さえ感じる。とても小さな円形に近いオーバル型。繊細でいて凛々しい。結局、唯一自分から選んだそのフレームに決めた。よく似合ってると言う母さんの声は嘘っぽかったが、悪い気はしなかった。


──・──・──・──


 十月十日は、目の愛護デーだと言う。そんな日が誕生日だなんて、実に嫌味たらしい。「十月十日(とつきとおか)」について調べたのは、「ミレニアムハッピーバカ親」と中傷されたためだった。正月に父さんと母さんの裸体が汗を押し付け合って絡み合うのを想像すると吐き気がした。母さんのスマートフォンの検索履歴を消す方法も覚え、背徳感を抱いて覗く内容は刺激的だった。ところが、いつでも初めに感じた吐き気と繋がって、並木くんたちの稚拙な声までする。数ヶ月のうちにすぐに飽きた。実際の妊娠期間は、十ヶ月と十日間ではなく九ヶ月と少しになると知っても、その忌避感は晴れなかった。真宙は僕の三歳の誕生日ごろに植え付けられたんだろうかと一番無駄な暗算をする。詳しいことは思い出せないが、思い出したいとも思わなかった。


 朝食は誰も起きていない五時ごろに一人でとることにしている。母さんは夜中も呼吸が安定しない真宙を看ているし、父さんは九時に起きれば会社に間に合うが、その代わり帰りは遅い。小学生のころは七時に朝支度をしていたが、寝不足な母さんを虐げているようで良心の呵責(かしゃく)があった。そこで、極めて早い時間に出るのを僕の趣味に依るものだと言って、勝手に行かせてくれと頼んだ。こんな自由な朝を過ごしたがる人間であれば、子どもが一人で支度することに両親も少しは罪悪感を抱かなかろう。

 いつもなら父さんが買い置きをしているロールパンだけで済ます。焼くかどうかも気分次第だ。ただ義務みたいに食べる。でも、誕生日の朝であることが理由になるかは不明だが、急に思い立って玉子焼きを焼いてみることにした。あまり見栄えはよくなかったが、切れ端を食べると味はよかった。台所を使ってうるさかったか、母さんが起きてしまったようだった。和室の(ふすま)を少しだけ開けて、ベッドの手前に敷いている布団に視線を落とす。眠そうな声で「起きられなくてごめんね、誕生日おめでとう。」と言われた。のろのろと微笑んで「玉子焼き作ったんだけど、もしよかったら後で食べて。ラップして置いとく。」と真宙を起こさないように小声で告げると、母さんは小さく驚いて礼を言った。



「天音くん、今日、誕生日なんだね。ちょうどそんな賞が獲れちゃうなんて最高じゃん。すごいね。」


 図書室に似つかわしくないほど青央くんは興奮気味だった。人気者でもないのにクラスで有名な僕の誕生日。並木くんたちが今日揶揄っているのを聞いて、青央くんは初めて知ったらしい。十三歳おめでとうと、小さく拍手をする様に皮肉は一切なかった。溜め息みたいに鼻で笑って、帰りのホームルームで突然もらった賞状に目をやる。夏休みに書いた作文が県の賞に選ばれたらしい。税金が大事だとか、特に思ってもいないことを中学生然とした筆力に合わせて書いた。あんな軽薄な文章を選出するとは呆れてしまう。自慢げになるのも、幸運だと喜ぶのも面映(おもは)ゆくて、(ただ)ちに賞状を手提げに入れた。折り曲げないと飛び出してしまうが、折り目のないままで持ち帰りたくて、気が付いていないふりをした。どうだってよいことだと謙遜(けんそん)してみせるのも気持ちがよかった。

 眼鏡が壊れた原因を知っている青央くんは、今週ずっと僕を気遣った。黒板は見えているのかと心配し、放課後の図書室でノートを写すのはどうかと申し出た。確かに一世代前のレンズでは、前から二番目の席でも黒板の文字をそつなく読めない。けれど、聞いているだけでそれなりに何を書けばいいかは理解できたし、あまり教養の印象のない青央くんのノートよりは真面(まとも)だったから、さっと見せ合うだけで終わった。

 それよりは、読書の秋だとか言って、今週、読書部員に課された図書室に飾るポップ制作の方が居残る意味になっている気がする。どの本を選んでも構わなかったが、僕は梶井基次郎(かじいもとじろう)の全集に編纂(へんさん)された『檸檬(れもん)』に決めた。五千字余りのそれは、ほんの十五分ほどで読み終わるし、気を抜いても単純な絵と派手な色はそれなりに見栄えするだろうという打算的な選書だ。その甲斐あって、家に持ち帰ったその日中に完成させられた。明日の放課後にある久々の読書部の集会で提出するのを待つだけだ。ところが、青央くんはいつまでも出来上がらないでいた。静かな図書室で呑気に画用紙を広げている人間が、毎日ノートを見せてくれているのなら、僕も手伝うのが筋だろうと、それとなく付き合った。けれど今日は誕生日だし、木曜は五限しかなく、まだ陽は高い。いい加減に断って早足で帰路につくことにした。

 必要以上に優しくしようとする青央くんといるのは気疲れする。望んでいないが、大人に口外しないところからして、親身になるスタイルを取りたいだけに見えた。臆病がゆえの罪悪感の払拭に利用されているだけだと思えてならないが、青央くん自身はその感情に身に覚えがないのかもしれない。ノートや画用紙に見る読みにくい文字はそう感じさせた。 


 マンションの入り口で、部屋番号を入力しても返答がなかった。二回目も同じ。鍵を取り出して開けることにしたが、サプライズでもしようとしているのではないかと勘付いてしまった。何か準備をするのに、玄関まで歩く時間はちょうどよい。リアクションには自信がなくて、どうやって喜ぼうかとエレベーターの鏡に覚束(おぼつか)ない笑顔を見せつけた。インターフォンを鳴らす。それでも応答がなくて鍵を使った。覚悟して扉を開ける。


「ただいま。」


 廊下の灯りだけが点いている。不審なほどに静かで誰もいないように思えた。リビングの扉を開けるときも少しだけ期待したが、鼻を()つ刺激で大体のことを悟った。嘔吐物の臭いだ。片付けた後ではあるが、真宙が吐いたんだろう。食器棚が中途半端に開いている。真宙のベッドはシーツが()れて、布団は下部に追いやられていた。留守番電話が入っていることを知らせるランプが点滅している。母さんの携帯番号を入力した。静かな左耳と緊迫感のある右耳のコールに挟まれる。


────もしもし、天音?


 母さんは、真宙が朝から具合が悪く、昼にはてんかんの大きな発作が起きて入院することになったと早口に(しら)せた。全身が痙攣して顔面蒼白になった真宙が泡を吹いている姿を思い出す。そこまで珍しいことでもなかったが、何度経験してもあの姿を見て冷静にはなれなかった。大発作が起きたら、数日入院する。常々見守る必要のある病児。入院でも付き添いを迫られた。母さんは今日、帰ってこないんだろう。


────学校に連絡するの遅れちゃって、さっき連絡したら、もう下校したって。


 何度も「ごめんね」と口にする母さんに、同じだけ「大丈夫」と返す。「今からおばあちゃん家に行ってもいいよ。どうしたい?」と問われて、それを否定した。祖父母孝行をしたい気分でもない。母さんの電話からは後ろで落ち着かない音が終始していた。早めに切った方がよいんだろうと十分に判る。「お疲れ様ね。」とだけ言った。


 電話を切ると再び静寂が訪れる。呼吸が三回終わるまで、呆然としていた。台所には僕が作った不細工な卵焼きが朝のままの形で置かれていた。汗をかいたラップの上から乱暴に鷲掴(わしづか)んで、ゴミ箱に捨てる。母さんは朝から何も食べていないのかもしれない。真宙もどんな状態なんだろうか。こちらから何も質問をしなかったことに気が付いたが、気に掛けたくもなかった。

 手を洗って、制服を脱ぐ。手提げにある賞状を見ないまま半分に折って、引き出しのファイルに()じる。下着のままベッドに仰向けになると、背中が汗ばんでいるのに気が付いて不快だった。眼鏡を外す。畳みもせずに、ベッドから手を伸ばして机に捨てる。混迷する視界は穏やかだ。パンツを下げて、陰茎を撫でてみる。まだ毛も生えていないが、真宙のよりは皮も剥けていて雄々しい。しばらく続けるとあっさりと勃起した。感情なんて関係なしにどんどん溜まっていくのを感じる。全身の感覚が下半身で隆盛する。ベッドボードのティシュを指に巻き付けるように数枚取った。苦しんで湧き出る瞬間だけは孤独を称賛していた。



  仕事帰りに真宙が入院する病院に寄った父さんは、二十二時前に帰宅した。それまで僕には一本も連絡がなかった。怒りしか湧かなかったが、口論もしたくない。見てもいないテレビを流してソファに寝転んでいた僕は、もう寝ようとしているところだったと嘘を吐いた。遅すぎる夕食にコンビニ弁当を買ってきていたが、もう夕飯は済ませたとも嘘を重ねた。特に何を食べたのかも訊かれなかった。父さんがスーツから着替えるのも待たずに、自分の部屋に(こも)る。ベッドで放課後に適当に借りた本を読んだ。軽さだけで選んだポケットサイズの詩集。まったく味わいが(わか)らず、審美眼のない自分に辟易(へきえき)した。

 夜中も三時に差し掛かり、いい加減に空腹を満たしたくなる。寝ている父さんに気づかれまいと、ダイニングテーブルに置き去られた例の弁当をむしゃむしゃ食べた。コロッケはソースがしょっぱくて衣は(しな)びている。普通は冷蔵庫にでも入れておくのではないかと疑問も浮かんだが、腹も立たなかった。歯を磨きながら、もう今起きたことにしてしまおうかと考えたが、大人しく仮眠を取ることにした。


 いつもの時間には起きられず、慌てて家を出た。学校に着いたのは七時四十分だった。決して遅刻ではないが感覚は同じだ。軽々しい空気が校舎を流れている。顔を上げずに教室へ向かうと、すでに数人の生徒がいた。思ったよりも人数は少なく、ざわついていた胸を撫で下ろす。

 女子と後ろの方で話していた青央くんが驚いた調子で僕の名だけを発した。無邪気に小さく手を振っている。隣の女子は見ないようにして、おはようを返すので精一杯だ。急いで持ち物をロッカーへと片付けている間に、青央くんは僕の方へやってきた。「珍しいね、どうしたの?」と楽しそうにしている。幸いなことに、登校してきた僕に関心のある者は、この教室に青央くんしかいなかった。寝坊して遅くなってしまったと伝えると、別に今も遅くはないと笑う。青央くんは普段よりいくらか盛り上がっているように見えた。

 頑張って完成させたんだと自慢されたポップはやはり冴えていなかったが、隅に描かれた猫の絵は上手かった。赤川次郎(あかがわじろう)の『三毛猫ホームズシリーズ』のポップ。明らかにそこにだけ時間を掛けたであろうイラストを適当に褒める。僕の作ったポップはロッカーの中にあって、すぐに見せることもできた。そうした方がコミュニケーションとして自然であることは言うまでもないが、充満していく朝の活気に気圧(けお)されて、呼吸が浅くなっている。上手く話せない僕を見られたくない。ここから早く離れなくてはならないのだ。しどろもどろな言い訳をし、走って渡り廊下へ向かう僕を、青央くんは追って来なかった。


 昼休みは、音楽室の前のトイレで着替えることにした。増築したように細々と隣接して建っている校舎の三階にある。音楽室と楽器の倉庫みたいな部屋しかないこのフロアへと、わざわざ昼休みに訪れる者は誰もいない。先週のことがあって、教室で着替える気にはなれなかったのだ。ただ、女子は更衣室で、男子は教室で着替えるとルールがあったから、それを破ることに罪の意識が若干ある。誰に迷惑が掛かるわけでもないけれど、ひそひそとこの場所までやってきた。

 朝のルーティンを飛ばしたためか、むんとした誰もいない廊下が気安い。教室前のトイレと違う硬い引き戸。持ち手の安っぽい金属。開けると独特の臭気が襲った。あらゆる私物や体をこの空気に接着させてはいけないように感じる。足を踏み入れるのも(はばか)られて、どうせ誰もいないのだから、廊下で着替えてしまおうと決めた。逃げも隠れもしないでバッグを置く。もし足音がしてきたらと思うと心臓が圧迫されるようで、とにかく夢中で脱いだ。ジャージの裾が引っかかるのにも寛容ではない。そうやって注意を払う自分が(あわ)れでならなかった。着替え終わっても制服の入ったスクールバッグをロッカーに戻す必要がある。三階から下って、三階へ上るのをもう一度行うのは、かなり億劫に思われて、憐れみは増した。昨日から、いや、その前からずっと、何が楽しくて不吉な塊を育てているのだろうか。火照(ほて)っているのか、拳を握ると熱っぽい。横になって眠ってしまいたかった。わざと大きく息を吐いてふらふらと歩み出した。

 五限にはバドミントンをする。僕の目は立体視をするのが苦手だと眼科で言われてきた。奥行きを捉えられず、平面的に見えているらしい。生活のなかで気にしたことはあまりないが、球技をすると明確に意識された。今日は誰とダブルスを組むんだろうか。不真面目な奴であればよい。そんなことを考えて微かに駆け足になる。

 一階から二階への間の踊り場で、ジャージ姿で下ってきた並木くんと鉢合わせた。一瞬だけ息が止まる。友だちとおらず一人で歩いているのは珍しく思えた。今日はそれまで彼から話し掛けられていなかったから、突然のことに一切の免疫がない。ぶつかりそうになって舌打ちをされる。


「お、どこ行ってた?教室で着替えるのやめたの?」


 並木くんは乾いた笑みを浮かべてそう言った。お前のせいだと糾弾したい心境を、指定の場所で着替えなかったという後ろめたさが邪魔をする。並木くんの汚い上履きしか見られない。姿は弓形に歪んでいく。今、ピントが合わないのもお前のせいだ。重たくなったスクールバッグもお前のせいだ。声門が硬直するが、息は少しずつ荒くなっていく。僕を気味が悪いと言う同級生らの意見も理解できる気がした。銃口を突きつけられ齷齪(あくせく)するように、胸中に()し掛かる際限なき追憶は、暴れ回りたいと熱を溜めている。それは解放でなく決壊だった。

 なんとか固まる体を(ほど)こうとすると、スクールバッグを振り上げて並木くんを打ち叩こうとしていた。あるいは、全身の筋肉を限界まで動かそうとした。非力な低身長の一撃はあっさり(かわ)され、押し出すようにその鞄を蹴られる。受け止めきれない体重に()け反って、二歩だけ後退すると背中が壁にぶつかった。泣いていた。体が熱い。並木くんも唐突な狂乱に狼狽(ろうばい)しているだろう。僕の声は言葉になってもいない。叫びやすいように喉を開いているだけだ。たまに裏声にひっくり返る。滲んだ視界は小刻みに揺れていた。もう一度、両手に力を込め直す。遠心力にバッグを預けると、その重さで僕の方がバランスを崩してしまった。振り払う並木くんの力に抗えず、自分の足に(つまず)いた。全身が宙に浮く。身体中を駆け巡っていた血液が一瞬で蒸発していくような気がした。

 上半身から階段に落ちていく。一瞬で転げ落ちる間にも、体勢がどのように変わっていくのかを理解できるように思われた。さほど回転しないまま滑るように落ちる。右半身が消しゴムみたいに擦り切れた。抗おうとしても一階の床まで、止まることはなかった。頭を打たないように小さくなるのは本能なのかもしれない。気が付くと胎児みたいに丸まっていた。あまりの痛みにさっきまでの叫び声も出ない。全身が傷だらけになっている気はしたけれど、右の二の腕に経験を絶する痛みがして、他は気にならなかった。初めに叩きつけられたのがその部分だ。階段の角と自分の体に挟まれて、何かが弾け飛ぶような音がした。手は痺れて力が入らない。もう一方の手で押さえようとしても激しい痛みはどうにもならなかった。骨折しているんだろう。したことはなくても判った。目を瞑って歯を食いしばっている。周りがどんな状況になっているか気にする暇もなかった。もうどうだってよくなって、埃っぽい床に頬をぴたりと付けた。


「何やってんだ。」


 二階から声がする。内田先生だ。温厚な先生からは聞いたこともない怒号に似た声色を捉えると、他にも多くの生徒の声がしていることに気が付いた。不安定な内田先生の足音がどんどん僕に接近する。名前を呼ぶ声に、応えることも簡単でなかった。


  上腕骨骨幹部骨折。医者から聞いても頭の中で漢字に変換できなかった。けれど、骨の真ん中が横に切れたように折れているレントゲン写真は、状態を理解するための専門知識を要しなかった。


 確か、内田先生に支えられながら、自分で歩いて保健室の椅子まで行ったと思う。落ちた場所が保健室の目の前だったからなんとか辿り着いたが、もう少し遠かったらその場に座り込んでいたかもしれない。保健室の先生は、内田先生よりは落ち着いていて、若さの割に頼もしかった。涙を浮かべて悶え続けている僕に何があったのか訊くが、声が上擦って上手く答えられなかった。子どもっぽいのは(しゃく)だったが、そのときだけは背の低い僕を小学生扱いでもすればよいと思った。左手で押さえていても、右腕が丸ごと取れてしまうんじゃないかと感じる。力こぶのできる場所で腕の中身が不自然に動く。ジャージの上からでもそれは判った。応急処置として添え木をして大袈裟に包帯で固め、右腕がびくともしないようにされる。振動が伝わるたびに女々しい声を上げ、血の気が引く。かなり大きな怪我をしてしまったと、そのとき初めて理解した。

 整形外科は学校に面した道の裏にある。内田先生は(いち)早く自分の車で送ると言った。救急車を呼ぶよりもその方が早かった。先生の車を待つ間、養護の先生はひっきりなしに電話をしていた。病院や僕の保護者にだと言う。家には誰もいないから、名簿には記載のない父さんの携帯電話を記憶からなんとか引っ張り出して教えた。繋がらなかった。遠くで電話をしている先生を見ていると、誰も支えてくれる人がいないのが不安になる。持っておくように言われた氷嚢(ひょうのう)は、左手には異常に冷たい。担任の先生が息切れをしながらやって来たとき、保健室のすぐそばに車が付けられた。ネクタイを苦しそうにして動揺している担任を気にも止めないで、僕は後部座席に乗せられた。我が家の車よりも数段階は高級そうだ。怪我をして汚らしい僕が乗るのは忍びなく思われた。


 腕の痛みでそれ以外の感情が吹き飛んでしまっていたが、内田先生と二人きりの車中はいくらか緊張する。すぐ着くから大丈夫だとしきりに繰り返す様子は、人間味が伝わってくる気がした。車窓を見ると先週母さんと洋食屋に行ったのを思い出した。そういえば、今日は眼鏡は壊れなかった。頭を打たなかったのはよかったと言われたが、もうちょっと運動神経がよければ受け身も取れるものなんじゃないだろうか。眼鏡の蔓が折れたり、腕が折れたり、最近は忙しい。病院に着くと内田先生は一挙手一投足をすべて介助しようとしてくれた。でも、足の悪い先生に(もた)れるように歩くのは、気が乗らないものだ。お爺さんが一人、長椅子に座っている。僕はその三つ隣、入り口からすぐの椅子に座った。消毒液の匂いがして、異様に緊張してきた。学校にいたときより腕に血が溜まっていくような感覚がある。明確に骨の折れている箇所がわかるような気がした。受付で一通り話してから隣に座った先生に「もう少しだ。がんばろう。」と背中を弱い力で撫でられる。


 半分泣きながらレントゲンを撮って、さっきの席に戻ると、保健室の先生も来ていた。別に反対側に座れば済むのに、僕のために自分の座っていた椅子を空けて、ここに座れと促される。次は麻酔を使ってギプスで固定するらしい。かなり綺麗に折れていたから、手術は必要ないと言われた。それを幸福なことであるように説明され、極めて違和感があった。僕にとっては今から行うことだけで、災難には満足できる。準備に少し時間が掛かると言うので、先生たちに僕は震え上がったような声を出してみた。そうした方が可愛げがある気がしたからだ。静かな待合室に、しばらく沈黙が続く。それは今、誰も(おもんぱか)る必要はなかったが、内田先生は重苦しく口を開いた。


(あきら)さんに蹴られたのかい?」


 スクールバッグに並木くんの足跡がくっきり付いていた。階段を落ちてから並木くんの声はちっとも聞かなかったが、内田先生はそれを退()けて僕のところまで来たんだろう。そう思うのも真っ当だった。


「僕が先に殴りかかったんです。並木くんはそれを振り払っただけで……。」


 状況を詳述することができない。久しぶりに出した言葉は弱々しかった。痛みのせいだと思うことにした。「天音さんがそんなことをするようには見えないけどな。」と独り言のように言ったのには、聞こえないふりをした。僕は目を合わせなかったけれど、内田先生は僕の方を向いて話している。一つ一つ慎重に言葉を探しているみたいだった。


「悪者になってみるのも必要だよ。天音さんは、お家でも弟さんのことで頑張っているんだろうし、勉強も頑張っている。作文が選ばれたことも聞いたよ。クラスメイトを僕らに悪く言うくらいのことは、しても罰は当たらないんじゃないかな。」


 眼鏡の端の方で内田先生を捉えてみる。悔しいほどに優しい笑顔をしていた。


「もし、本当に君が先に殴ったとしてもね、君だけがこんなに痛い思いをしたんだ。教師には、あいつが一方的に殴って来たんだって言うくらいでもいいんだよ。嘘は自分のために使いなさい。」


 こういうときに教師らしくない発言をするのはイメージに合う。ただ、その声を校舎でない場所で聞くのはミスマッチだった。僕が話すのも例外ではない。学校での自分の塑像の表面が乾き切って、はらりと剥がれ落ちていくような気がした。腕に激しい疼痛(とうつう)を感じているのに、なぜかそこまで気にならない。蜃気楼(しんきろう)を見ているみたいだった。


「自分のためです。」


 一言だけ呟くと、看護師さんがやって来た。ギプスが怖いのは本当だったのに、またピントが合わなくなった。僕の心が何を見たいのか理解できない。

 処置室の硬くて狭いベッドに寝かされる。腫れ上がって内出血で変色している自分の腕を見るのは気分が悪かった。肩に刺された麻酔で右腕全体の感覚が消失する。昔に歯医者で打たれたときよりもずっと広く強く効いた。見ていると怖いが、痛みがなくなってむしろ楽になった。さっきまで触るのも痛かったのに、医者は腕を掴んで動かしているみたいだ。骨が動くような感覚だけがあって、自分のものではないみたいだ。他人事の痛みを視野の外側になおざりにした。

 ギプスを付けるのは時間が掛かった。手首から肩付近まで、すべてが硬いギプスに覆われていく。緊張感にも慣れて、ずっと横になっていると眠たくなった。そんな感覚も懐かしい気がした。


 全身の半分くらいが白くなって、肩を落として処置室を出ると、母さんがいた。後ろで髪を一つに結んで、メイクもしていない。血色が悪く実に疲れているように見えた。「ひどい。大丈夫?」と駆け寄る母さんに「来てよかったの?真宙は?」と慌てて訊く。「おばあちゃんに頼めたから、そんなこといいの。」と中腰になって腕を触らないように腰あたりに手を回された。僕をじっと見つめている。母さんも決して背は高くないのに、僕の方が明白に小さい。ボロボロの体が恥ずかしかった。


「本当にごめんね。」


 母さんが無理に笑おうとする表情と裏腹な涙を流していた。


 処方された痛み止めの薬と会計を待つ間に、母さんは先生たちに頭を下げて見送った。僕も真似して会釈をする。内田先生は深く一礼してから、僕に向かって握り拳で「がんばれ」とサインを送った。

 壁に掛けられた時計が示す時刻は目を細めても見えないが、窓に差す茜色は足早に伸びて日が暮れるのを知らせていた。母さんとやや距離を空けて座る。右腕は麻酔で異様な感覚だが、痛みを伴う現実と切り離されていた。その分だけ脳の奥が活発に動こうとしている。教師から何を聞いてここにいるのか、想像の答え合わせをしたい。でもそんな不安は無視して、じっと言葉を発さずにいるしかできなかった。母さんも質問を押し殺すように、僕の怪我の具合だけ思い遣った。「部屋の中の象」なんて表現を聞いたことがある。全員が認識しつつ、あえて触れることを避ける議題。並木くんの足跡で汚れたスクールバッグは、まさに象のような迫力だ。母さんはフリースのファスナーを最上部まできっちりと上げている。袖口からは部屋着のTシャツの褪せた色が覗いた。その見窄らしい身形(みなり)が、僕をより辛く苦しくさせた。


 駐車場に出ると、人だかりがあった。担任と並木くんが向き合っている。その隣の女性はきっと並木くんの母親だろう。落ち着いたオリーブ色のスカートと明るい髪色が合っていない。内田先生と養護の先生もまだ帰らずにいた。五人は話している途中の様子だったが、僕らが病院から出てきたことで、一気にこちらに視線が集まった。並木くんの母親は、反射的にこちらに駆け寄る素振りを見せた。


「晃が怪我をさせてしまって、本当に申し訳ありません。」


 甘ったるい声は声優みたいで妙に聞き取りやすい。並木くんにはまったく似ていなくて妙に可笑しかった。しかし、アンタッチャブルにしておいた象にずけずけと触れられたことで、全員から目を背けてしまう。母さんも呆然としたまま、明らかに自分が話す順番が来ても対応できなさそうにしていた。


「学校から保険で医療費は支払えますから、しっかり報告してくださいね。晃もよく怪我をするんで、大変なことはお互い様って思ってます。本当に早くよくなることを祈っていますね。」


 微塵も速まらず自分のペースで話す女に、教師陣は後ろから怪訝な面持ちをしていた。暮れなずむ秋にそっと浮かぶ大人たちの表情は妙に恐ろしい。「ほら、晃も謝りなさい。」と催促されて、並木くんが(ども)るように「すみませんでした。」と言った。冷たい視線にも耐えて、こちらに寄るでもなく頭も下げないでいる。自分に謝られている様を、大勢に見られていることが気になって、僕は気怠げに笑った。


「僕がバッグを振り回して、バランス崩しちゃったから……。」

まとまらないまま口にしようとすると、母さんはそれを遮るようにぴしゃりと言う。

「今、息子は重傷なので、一刻も早く帰らせたいんです。またの機会に改めてお話しさせてください。」


 僕の背を軽く押して、有無を言わさず車に向かった。反省会の司会役を買おうとしていた担任が引き止めようと声の萌芽を出したが、母さんの背中からある種の強い意志を感じ取ったようで、その声を出し切ることはなかった。後ろから「お大事になさってください。」とだけ言う。母さんは助手席のドアを開けてくれた。僕は居た堪れない気持ちで、伏せ目がちのまま乗り込む。並木くんとその母親の声は聞こえなかった。夕闇も見つめないままでいた。


 家に帰ると充電切れのようにベッドに倒れ込む。母さんが着替えを手伝ってくれたことで、真宙がいつもどんな気分なのか体験できる気がした。僕は利き手が使えず、何をするにももどかしい。食べやすいように晩ごはんにはおにぎりを並べて置いてくれた。母さんが慌ただしく家を片付けているのは、真宙の病院へ戻らねばならないからだ。少しずつ麻酔が切れていく感覚がして、僕は大丈夫だからと良い子ぶってみる。父さんからも今日はできるだけ早く帰ると連絡があったから、ベッドの上から動かないで見送った。目を閉じるとすぐに眠ってしまった。

 その晩は右腕を襲う猛烈な痛みに支配された。微熱は体が戦闘体制であることを知らせる。錠剤を流し込まれても子どもみたいに泣きべそをかいた。父さんと二人で過ごすのは珍しいものだ。それでも、だらしなく気の利かない父さんには苛立ちを覚えるし、僕も中学生になった息子として弱みを見せたくない。しかし、痛みに耐えられない幼さに唾を吐きたくても、次の日の土曜日さえほとんど動けないままでいた。ギプスの頑健な壁に隠れた肉塊を恨みつつ、寝不足の日曜日を迎える。


 午前中、電話が鳴った。物憂げに父さんが受話器を取る。眼鏡屋からだった。新しい眼鏡が完成したらしい。数十秒で切った。受け取るのはまた今度にするかと問われても「今日一緒に行きたい。」と即答した。トイレに行くのも辛いというのに、一時間も車に揺られて平気なのかは自信がない。とはいえ、こんな視界不良に満足しているはずもないのに、痛いから行きたくないとは言いたくなかった。何より、父さんと二人きりの週末をこの折れた腕に空気を占領されたまま、弱者として明かすことに気が引けたのだ。

 困惑しながら着替えを手伝ってくれているところで、もう一度電話が鳴った。父さんはそれとなく襟を正した声色に変わる。学校からなんだと悟った。今度は数十秒で切らない父さんの姿を正確に捉えると頻脈になりそうで、あたかもそれに気が付いていないふりをした。電話越しに何度か軽く頭を下げて、静かに受話器を置く。


「学校からだった。とりあえず、車で話そう。」


 端的にそれだけ言って、そこから黙って着替えの続きをした。父さんの深刻そうな面持ちを指摘することもできず、痛みをやり過ごすのに集中することにする。

 後部座席のドアを開けられて、よろよろと乗り込む。どうしても表情を(しか)めてしまって「眼鏡が欲しいだけなら、お父さんだけで受け取って来てもいいんだよ。」と心配そうに尋ねられた。フィッティングもしてもらうからと、息の多い声で返すものの、マンションを歩いただけで右腕は感電しているように痛んだ。吊り下げに首への負荷が生じるのも邪魔くさい。顔を背けて窓の外にだけ感覚を澄ました。もうすぐもっと見えるようになるのだと言い聞かせる。父さんは無駄な動きなく運転席へ向かい、車をすぐに発進させた。


「さっきの電話で、明日、学校に呼ばれたんだ。」


 カーステレオから母さんの好きなバンドの代表曲が流れ出したところで、父さんはあっさりと話し始めた。明日は体育の日だ。僕の生まれた年から十月十日でなく、十月の第二月曜日に変わった。運動にも祝日にも愛されていないのかもしれないと思わされる。いずれにせよ、明日は休日であるが、父さんは学校に向かうと言う。並木くんとその親がやって来て、担任と今回の事故について話し合うそうだ。親が集まるというのは僕への謝罪を意味する。父さんは「天音は無理に行かなくてもいい。」と諭すように言うが、当人を抜きに勝手に話を付けられたくもない。(おごそ)かにいじめを取り扱われるのも気が引けるが、他人の裁量が事実や責任を牛耳るよりは妥当に思えて「大丈夫、僕も行く。」とさっぱり返した。流れていくぼやけた車窓に沈黙が反射する。父さんは、言葉を落とすようにした。


「天音も誕生日に真宙のことがあって辛かったよな。いつも風呂に入れてやったりして、本当にできたお兄ちゃんになったなってお父さんは嬉しいんだ。」


 車椅子が乗せられる広いトランク。母さんと眼鏡を作りに行ったときには気にしなかったその空間に目をやる。真宙を引き合いに出して、取って付けたように僕を褒めたり労ったりする退屈な会話へ、無難な相槌を打った。


──・──・──・──


 まだ誰もいない研ぎ澄まされた教室に満遍なく陽の光が広がる。クリーム色のカーテンの周りに細かな埃が漂っているのが気になった。大きく湾曲したプラスチックは世界をこぢんまりと歪ませて、僕にチューニングを合わせた知覚を与える。レンズがきらりと反射して、号令を掛けたように精密に結ばれる焦点は、これまでよりも繊細で鋭い。痛みを伴って越えられない隔たりを実感させるのに役立った。


 昨日のこと、中谷さんはギプス姿の僕に憐憫(れんびん)の眼差しを向けながら、(おろ)したての眼鏡を持ってきた。小さな楕円型の深緑色をしたメタルフレーム。僕が選んだときにはクールで華やかだったそれに、収まり切らない厚いレンズが嵌められていた。ギラギラと渦を光らせ、医療器具の装いを全面に出す。折り畳まれた細い蔓は、レンズ越しに見ると歪んでいて一段と頼りない。僕が世界を見るのには、こんなにも著しい屈折を必要とするのだと身に()みて、その頼りなさにえたいの知れない不安を覚えた。中谷さんはギプスに触れないように、殊更(ことさら)丁重に眼鏡を掛けてくれる。瞳孔の中心や耳の当たる位置を入念に調べて、何度か掛け外しを繰り返した。混沌と秩序を行ったり来たり。真剣な表情にピントが合うたび、あまりの鮮明さに眼球が刺されるようだった。


 きりりと主張する輪郭。教室の中央で机を片付けて不自然に並べられた椅子に腰掛ける。端から埋めるべきだろうが、右から二番目が僕の椅子であったから、それに座った。座面の傷の付き方で判る。後ろから入ってきた父さんは、やや腰を屈めていて客人らしくしていた。親子二人でいる教室。表と裏をひっくり返したシャツのように不均衡が生じる。どんなことを話そうかと打ち合わせもできたはずだが、面と向かって赤裸々に晒すことは気が引けた。父さんが今日初めて知る内容があったところで構わないと思えるだけの覚悟は、痛みに堪えるベッドの中で存分にしたはずだ。

 休日も部活動の音で校庭なんかは騒がしい。それに引き換え、教室のある校舎は穏やかだった。野球部が出す大声や、金管楽器の音の端くれだけが弱々しく届くのが余計に(ゆる)んだ空気を演出する。父さんと一緒に職員玄関から迎えられるのは落ち着かなかったが、資料を取りに行くと言った担任を置いて、先んじて入った教室は清々しかった。よくなった視力のおかげか、掃除されていることに気が付く。

 バタバタと音を立てて入って来た担任が、申し訳なさそうな顔をして向かいに着席した。(かしこ)まった社会人のふりをして、父さんを労ってから、僕の怪我にも配慮した物言いをする。絶えず疼くギプスの中へと意識が向かないように、一切をはぐらかしておいた。集合時間に先立ってやって来たのが原因かもしれないが、並木家は(いま)だ到着していない。もっと遅れて来れば悪印象をほしいままにするのに、担任と話す暇もなく彼らは姿を見せた。金曜に見た母親に加えて、スーツ姿の父親もいる。マリンスポーツでもしているのだろうと想像に易しい焼けた肌と整髪料できつく固められた髪型は、並木くんの父親らしいと合点がいった。顔もよく似ている。そんな成功者の風貌の男は、空いた席に着くより前に「この度は、申し訳ありません。」と二回りは図体の小さい僕に目を合わせながら言って、深々と頭を下げた。父さんの方にも、再び同じようにする。腰を低くして(なだ)める父さんに比べて、僕は何も言えないで硬直していた。後追いで並木くんも詫びようとしているのが見えて、それには反射的にそっぽを向く。病院の外で謝罪の形を見せたときよりもずっと弱々しい。僕が骨の折れた痛みに耐えていたこの週末、並木くんはどんな叱責を受けたのだろう。それが生半可ではなかったろうと確信できるくらいには、いつもの並木くんと懸け離れた表情だった。とりあえず座るようにと促した担任が、些か偉そうに間を取り持つ。


「学級内で聞き取りをしたところ、今回の怪我の原因は、数人のクラスメイトによる高平くんへの常習的な嫌がらせにあると考えるのが妥当だと結論付けました。教員一同、または担任として、このような事態に至る前に、対処や予防をできなっかった監督不行き届きを、猛省しております。」


 父さんから視線を逸らさないまま、何かを読み上げているみたいに言い切る様は、よそよそしかった。もしくは、機械音声のそれを彷彿とさせる。真面目なことだけを言う父さんの横顔を見てから、僕は息を吐き切って(うつむ)いてしまった。あの日の踊り場で、僕から殴ろうとしたことや、勝手に足を滑らせたことは事実だ。しかし、そんなことは誰も気にしていないようだった。事故であろうが、事件であろうが、悪者は並木くんやその取り巻きであるとされた。大切なのは日常の学校生活が、僕にどんな心理的ダメージを与えたかということ。その話になってしまうと、僕には反駁(はんばく)する材料がなかった。無駄に置かれた何脚かの椅子。そこに母さんが座ることもできたろうと考える。威勢よく相手方に謝罪する父と、隣で背中に手を回している母に挟まれた並木くんをレンズの向こうに捉えた。慣れない強い屈折に目が眩んでしまう。やはり下を向いたままでいることにした。

 静かに怒り、静かに責任を追及する父さんには気迫がある。温度の高い炎が青く見えるように、声を荒らげなくても高いエネルギーを持っていた。その咎め方が美しくあればあるほど、血液が暴れ、口内が苦くなっていくような錯覚をする。担任からこれまでのいじめをあれこれ紹介され、本当のことかと確かめられた。そのなかで眼鏡を壊したのも並木くんだったのかと問われ、面倒くさくなって肯定した。並木くんの家族は一つ一つに水飲み鳥の要領で頭を下げ、いちいち小さくなっている息子を叱る。金でどうにかなる問題でもないけれど、弁償はさせてもらうとすぐに表明した。僕はもちろん苦痛であった。何のために今日ここにやって来たのか、今になるとはっきりしない。

 しばらく話を続けて、並木くんが自分の言葉で謝罪をしようという流れになった。集まった視線に溺れそうになって、なんとか言葉を繋ごうとしているのが、果てしない罪悪感への救済に思えてならない。我慢ならずに、遮るように「別に大丈夫です。」とだけ漏らす。すると並木くんは動揺の表情を見せ、充血した瞳にみるみる涙を溜めた。誰にも縛られないと言わんばかりに、馬鹿げたことで笑い、人を貶めてそれも笑い、女子に応援されて笑って返す。そんな並木くんが、きっともうすぐ泣く。感情を動かさないようにそれを見つめていたが、密かに口角が上がった。


「本当にごめんなさい。」


 最後はそんな単純な言葉だった。高潔な悪者でいられなくなった並木くんが気の毒だ。どうしてかそんな感想を抱く。「いじめられっ子」として見世物にされた自分にも同じような声掛けがしたい。謝れたことを褒めるように、幼児みたいに泣いている並木くんの背中を父親が優しく撫でていた。言葉では同調して僕らに誠意を見せ、息子を叱るのも欠かさないが、その優しい手つきだけは違った。


 十六時を過ぎて教室を離れても、お辞儀のラリーは続いた。そのせいで、追い出されるように車へと向かう。父さんと二人きりになる。僕は二人で何かを話すのが耐え難く、靴を履き替えるところだったが、せっかちに言った。


「金曜日の放課後に部活があって、ポップを提出しなきゃいけなかったんだよね。せっかく作ったのに提出できなくて……それ、出してから帰りたい。あと、読書部の友だちも図書室にいると思うから、心配かけちゃったと思うし、ちょっとみんなと話しながら帰りたくてさ。怪我は大丈夫だから、先に帰っておいてくれないかな。」


 まだまだ嘘が滑らかに出てくるようで安心する。父さんがいくつかの代替案を出したところで僕は頑なに一緒に帰るのを拒んだから、心配そうな顔を見せながらも一旦折れてくれた。腕や胸の中の痺れを気にしないで、微笑みを浮かべ手を振った。


 ──496。三つ目の完全数に守られたロッカーを開ける。(うずたか)く積まれた書物の上に檸檬を乗せたイラスト。その形にハサミで切り取ったのがこだわりだ。一週間ぶりに見るとしっかり目を引くポップに仕上がっていると思えた。南京錠の開閉に少し右手を使ったことで、また腕がじんと痛む。好きなだけ顔を歪ませて、薄暗い廊下を緩やかに歩いた。

 図書室の入り口に束ねられている数枚のポップを見つけ、その一番上に僕のを重ねる。他者のそれらを(おさ)えつけているみたいだ。この檸檬は爆発なんかせず、明日にはあっさり見つかる運命である。そんな妄想をしていると、図書室の扉がそろりと開いた。青央くんだった。


「わあ、天音くん、やっぱり来てくれた。」


 興奮の調子に比べて声は掠れ気味で、何時間も待っていたんだろうと感じられた。僕の姿を見るなり、三角巾で吊られた腕を心配して大袈裟な泣き顔を作られる。青央くんは図書室から空気の澄んだ廊下へと出て、しばらく話そうと促すように、端の方へ向かった。「眼鏡、新しいのできたんだね。変わった色でかっこいい。」そんなことをお世辞らしくなく言えるのは素直に羨ましい。そういえば新しい眼鏡について言及されたのは、これが初めてだったと思い出し、青央くんの不用に整った顔の詳細を見つめた。どうして学校に居るのか尋ねると、僕に会えそうだと思ったからだと言う。当然そんな返答は奇怪であるのに、随分と落ち着いているせいで、いつもの臆病な風体を感じなかった。その不審は焦燥感を誘発する。


「天音くんが大怪我したって聞いて、俺、先生にいじめのこと話したんだ。どうなるかなんてわからないのに、夢中でそうしてた。」

 俯く青央くんを見守って、最後まで聞こうと口を挟まないで相槌だけする。

「そしたら、クラス全体で話し合いみたいになったんだよ。今日、並木くんと話すことになっちゃったのも俺のせい……。天音くんからしたら、嫌な気持ちもあるんじゃないかって気になってて、直接話したいとずっと思ってたんだ。」


 昨日も一昨日も、僕が出しそびれたポップを提出しに現れるかもしれないと、図書室に通っていたと言う。骨が折れているのにたった一枚のポップを提出しに来るのではないかと予想されるほどに、生真面目な人間だと映っているのか。日々の生活のあり様が思いやられる。それにしても、担任からいじめの有無に関する質問をされたときから、発覚している事件の偏りに青央くんの存在を察していたから、そこまで驚かなくて申し訳なかった。青央くんの健気で誠実な態度は、僕との熱量の差をありありと感じさせる。優しい光に照らされるほど、僕の影は濃く大きくなった。

 焦燥感の正体は、目の前から次々と悪者が消えてしまうという恐れなのかもしれない。無気力を装って若さは幼さだと嘲笑い、彼らなんかとは違うと言い聞かせ続けた僕だからこそ、その旅立ちが面白くないのだ。あるいは、自分だけが腰抜けとして変われないままだと責め立てられているような鬱屈かもしれない。反対に、青央くんの表情には憂慮の奥から清々しさが浮かび上がっている。傾いてきた陽光を眼鏡のレンズが安っぽく照り返し、残酷なほどにその顔を華やかにした。瞬きを三回ほどする。


「今までごめん。言われるままにお財布からお金も盗ったし、嫌だったのに勇気が出なかったんだ。天音くんの方がもっと辛いのに。」


 それに対して冗談めかして取り繕っても、青央くんは神妙な顔のまま空気を重たくするのを好むから、(かえ)って虚しい。きっと今の僕らは友だちとして心の距離を縮めるイベントの最中なんだろう。そんな俯瞰な描写が余計にも内心でされた。人が近寄って来るほどに、僕を取り囲む壁の存在を実感する。他人がそれに触れれば最後。非人間的だと必ず落胆されるはずだ。例の焦りは苛立ちに変わる。


「そんなの気にしてないよ。この怪我も、タイマンだったから反撃してやろうと思ったのにさ、運動音痴のせいで持ってた鞄を制御できないまま、勝手に階段へ落ちただけなんだよ。」

 早口で言おうとしても息が続かなくて、舌が空回りしていく。

「さっき、並木のやつも、泣きながら謝っててね、ちょっと、笑っちゃった。自業自得で、骨折してるやつの、せいで、いっぱい怒られちゃって、可哀想だね。」


 感傷が表出しそうで、西日に顔を隠そうと後退りする。青央くんの訴えるような視線が痛い。その目が一番嫌いだ。それ以上話したくなくて、親が車で待っていると言って帰ろうとした。回れ右をして歩き出す。すぐに後ろから追いかけて来て、「待ってよ。」と右肩に手を掛けられた。腕に電撃が走って唸り声が出る。それを合図に青央くんも咄嗟に謝って、やや沈黙した。少しだけ息を整えている間、「大丈夫?本当にごめん。」と弱々しい声がする。だらしなく(ぬく)もる顔を最後にもう一度だけ見つめた。


「大丈夫だから。もう気にしないで。」



 国道を避けて一車線の路地を歩く。団地に併設された形ばかりの公園を横切って、規則正しく並んだ住宅の間を抜けていく。古ぼけた木造の駄菓子屋の薄い窓は橙色に染まっていた。歪みが増えたレンズは僕に景色をまざまざと見せる。建売住宅のガレージから改造されたバイクが歩道に飛び出て、漏れた何かのオイルはアスファルトの一部を虹色にしていた。そんな汚らしい世界を突きつけられる。

 量産車が不規則に停められた広い駐車場。植木鉢の傍らに、いつもの猫がいた。確か眼鏡が壊れた日に、セロテープが緩んだのを気にしたのがこの辺りだったと思い出す。同じように、一目散に歩いたことで、右腕の痛みが大きくなっていると気になった。猫の顔を見つめるとすぐに目が合う。吸い込まれるように何歩か距離を詰める。それでも猫は逃げるどころか、気怠そうに立ち上がり歩み寄って来た。誰もいない静かな駐車場の真ん中で、小さくなってできるだけ微笑む。恐る恐る頭を撫でてみた。喉をゴロゴロ鳴らしている。複雑に心に絡み付いていたものが、徐々に(ほど)けていくように思えた。僕にとっての「逆説的なほんとう」がこれだったならよい。それにしても、この猫は人間に慣れ過ぎているんだろう。こんな不審な姿の僕にまで好意を向けるのは、いけ好かなかった。

 並木くんは改心したのかもしれない。少なくとも以前と同様に嫌がらせをし続けることはないと思われる。青央くんは勇敢になったのかもしれない。整った文字を書くことなんかより大切な何かを見つけたようだ。そんな喜ばしいことを、僕は忌まわしく思えた。野良猫を撫でた手で目を触わるのは憚れて、溢れてくる涙をそのままにした。真宙は明日、退院する。今の僕は風呂に入れてやることもできない。加えて、僕のことでまで両親に気を病ませている。わからない。本当はそんなことに関心がない気もする。隠れたいのか、目立ちたいのか。僕という存在自体、矛盾も甚だしい。


 猫はギプスから出ている右手の指を舐めた。手の甲は痺れているが、どうもくすぐったい。鼻を滑った眼鏡を戻そうとしたとき、人差し指が下瞼の縁に当たったことで諦めて涙をぞんざいに拭った。撫でながら茶トラの猫の純真な瞳をじっと見る。右腕の痛みから邪悪な思い付きが生まれた。

 一瞬の動きで固いギプスと制服の間に猫を捕え、右の前脚を左手で掴んだ。急激に動かした右腕は切り裂けたように痛い。あれほど大人しかった猫も、鬼気迫る圧迫に抵抗して猛虎のように暴れた。とはいえ僕にも、そのちっぽけな体を押さえ付けるくらいの力はあった。速度と強さを増す鼓動に急かされて、短い毛の奥に確かにある細い骨へと視野が狭まっていく。左手の指先に思い切り力を込めた。引っ掻かれようが、痛みが増幅しようが構わない。


 そうして、剪断が起きた。びいどろの瞳に反射する夕陽の燃え殻は、単純な赤として僕の眼にもそのまま映った。

【あとがき】


 『剪断』を最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。

 あとがきとして、執筆した感想を述べます。



 「処女作には、その作家のすべてが詰まっている」という言葉を聞いたことはありますか。ほんの思いつきで小説を書きたくなったとき、その言葉を知って酷く重責を感じました。無類の創作好きであって、人に咎められない限り、役所でさえ肩書きを「表現者」と記すことにしているのですが、数万字の文章というのは多くを語り過ぎる気がするのです。普段からしている作曲などと違って、鮮明すぎる言語表現ですから、自信がないものであっても、名刺代わりになってしまうということには腰が引けました。「この曲のこのコードには何の意図が込められているか…」とは解釈し難いですが「この小説のこの言葉には…」となれば、多くの人が考えられるものです。けれども、そうやって言葉の力を信じているからこそ、表現者たる者、重責にも丁寧に向き合わねばならないのではないかと葛藤がありました。

 実のところ、昔に小説を書いてみたことはあるのです。本当の初めては本作の主人公と同じ中学一年生の頃でした。当時はいじめられ続け、いつも独りで居て、妄想のなかに逃げるような感覚を拗らせた結果、物語が生まれていました。趣味を同じくして仲を深めた友だちに、いじめを苦に自殺するのを救ってもらうという中学生の友情を描いた中編作品でした。

 昨月、それを久しぶりに読み返したのですが、その頃の願いにも思えて感慨深くなりました。ただ、十二歳の筆力です。表現は極めてむず痒く、そのまま皆さんにお見せすれば顔から火が出るでしょう。ですが、「処女作には、その作家のすべてが詰まっている」という言葉に異様なまでの説得力を覚えました。現在の原点となった痛々しく目を背けたくなるような純粋。中学時代のこの作品を甦らせたくなりました。希望というよりは使命に近い心情です。そうして、樅木霊が生まれました。

 思えば、「いじめ」は人生において、重要なエネルギーだったのかもしれません。執筆に際して、己の根底にある純粋を徹底的に見つめました。負の感情に揺さぶられる経験は創作の源です。死の淵から這い上がり、狂気に満ちた亡霊が紡ぎ出す芸術を人々は栄養として、なんとか日々を生きられるのです。自信を持って言いましょう。これが樅木霊の処女作です。

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