非言語コミュニケーション
霜の降りる寒い朝、通学路の途中でよく知る後ろ姿を見かけた。
「よお〇〇。おはよう」
「?...」
「おいおい無視かよ。今日の気温くらい冷たい奴だな」
俺はその背中に声をかけた。しかし、友人はこちらをいちべつしただけで、何事も無かったかのように歩みを再開する。
「おーい、おーいお茶、ウーロン茶、抹茶。松ちゃんっていつ帰ってくるんだろうな。お前知ってる?」
「...」
俺が根気強く話しかけ続けると、そいつはマスクの中でため息を吐いた。そして、おもむろにポケットからスマホを取り出すと、寒さで赤くなった指先がぎこちないフリック入力を始める。
少し間が空いて、俺のスマホがメッセージの受信を告げた。
『朝からうるさい。しんどいから声かけないで』
「なんだ聞こえてんじゃん。なら返事しろよ。俺、幽霊になっちゃったかと思ったよ」
『逆に君は文字が読めてないの?声かけないでって言ったよね?』
「言われてない。書かれた」
『屁理屈。ホントキモい』
「おいおい。言って良いことと悪いことがあんだろ?」
『言ってない。書いた』
「屁理屈!!!」
そんな言い合いをしていると、周りから不審そうな視線を向けられていることに気がついた。俺は口元に手を寄せて、少し声を落とす。
「お前のせいで変な目で見られてんじゃねぇか。それやめて普通に話してくれよ」
『やだ。めんどくさい』
「めんどくさいってお前...。いちいち入力する方がめんどいって。それに、お前だって変人扱いは嫌だろ?」
『別に。というか変人は君だけでしょ、傍目から見れば』
「まぁ、確かに」
スマホを弄っている人間と、それに対してベラベラ喋り続けている人間。どちらが怪しいかは明白だった。
「なぁ、前々から思ってたんだけどさ、なんでそんな喋るの嫌なわけ?」
『単純に必要ないから。実際こうして伝わってるし』
「...まぁ」
『それに、言葉は曖昧だからね。言い方1つで意味が変わるし、録音でもしない限りは記録として残らないくせに、1度言うと取り返しがつかないこともあるでしょ?』
『でも、文章は伝えたいことを整理して書くから、より簡潔かつ誤解の少ない表現を選べるし、口を滑らせるなんてこともない。だからだよ』
「ほえー。オタクは語るとき早口になるけど、お前は指が早く動くんだな(笑)」
プロ顔負けのカーフキックが俺の左足を襲う。もんどりうって倒れた俺を置き去りにして、友人の背中が遠ざかっていく。
その日1日、口を聞いてもらえなかった。元からだが。
数日後、俺はまた同じ通学路を歩いていた。そして、同じように友人の姿を見つける。
いつものように声をかけようとしたところで、友人の前にもう1人、大柄な男が道を塞ぐように立っていることに気づいた。
「だからさぁ、道を教えて欲しいだけなんだって。無視はやめようぜ。俺の言ってること分かる?そんな難しいこと言ってないよな?」
その大柄な男は地図のようなものを片手に、何やらまくしたてている様子だった。対して、友人は俯きながら自分の体を抱きしめる格好で縮こまってしまっている。
俺はすぐに友人に駆け寄ると、2人の間に体を滑り込ませた。
「えーっと、何かありました?すんません、こいつめちゃくちゃ人見知りで。良ければ俺が話聞きますよ?」
「あん?なんだお前...」
俺と男の間に緊張が走る。男は俺の目をじっと見つめた後、腕を大きく振り上げた。
俺は来るべき衝撃に備えぐっと歯を食い縛る。しかし、何秒経っても想像したような痛みはやって来ず、代わりに大きな手のひらが俺の肩に乗せられた。
「お前、めちゃくちゃ良い奴じゃねぇか!」
「は?」
「いやぁ、悪いことしちまったな。えらい美人さんなもんだから外人と勘違いしてたぜ。言葉が通じてないのかと思って簡単な言葉で喋ったんだが、返事がなかったし、かと言って他に通行人も居なくてよ」
「あぁ、言ってること分かるかってそう言う...」
「早速なんだが、ここにはどうやって行きゃいいんだ?」
「ここっすか?ん?ここって…不動戦士ケンダムの20周年イベント会場じゃん」
「おお!?お前もケンダムファンなのか!?」
「当たり前っすよ!これ嫌いな奴居ませんって!オニーサン良いなぁ。俺も行きたかったけど平日だから断念したのに」
「ハハ、その辺は大人の特権って事で許してくれや」
大柄な男の目的地はここからそう遠くないホビーショップだった。地図に目印も付けたし、大通り沿いにあるのでよっぽどのことがない限り迷わず辿り着けるだろう。
道案内が終わると男は俺に握手を求め、大袈裟なほど上下に揺らした。そして、半ばスキップするように大通り方面へと消えていった。
「あービビった。あの感じで普通に良い人なのかよ。人は見かけによらんもんだな」
「……」
「お前も最初から素直に答えてあげてりゃ、怖い思いすることもなかったのによ。どうせいつも喋ってないから咄嗟に声が出なかったとかだろ?」
「……」
「にしても、スマホで文章を書いて見せるくらいはできそうなもんだが。それも忘れるくらいテンパってたのか?いつもクールな〇〇サンらしくないっすねぇ?ピンチを救ってくれた恩人様になんか言うことあるよな?」
「……」
「…おい、マジで大丈夫か?一旦家まで戻……」
「……あ」
「……ありがとう」
「お、おぉ…」
反応が一瞬遅れてしまう。俺たちの間に数秒の沈黙が訪れた。友人と目が合わせられない。雪の降り始める季節に、自分の耳が熱を帯びていくのが分かった。
「あーっと、大丈夫そうだな。じゃあ早く学校行こうぜ。時間結構ギリだし、急がないとヤバいわ」
友人はこくりと頷いただけで、言葉はなかった。
(…ズリぃだろ、それは)
無言のまま少し進んだところで、俺はあることに気づき、友人を呼び止める。
「その、どういたしまし、て?」
コツン、と俺の左足に爪先がぶつけられる。思わず2人して笑った。
言葉じゃ伝わらないこともある。むしろ、その方よっぽど多い。
しかし、少しかすれた、消えてしまいそうな小さな声でしか、伝えられない感情も確かにある。